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クウガはタイタンフォームが1番

昔に自分が書いた文章を見返すとマガジンハウス社、もとい「POPEYE」への強い憧れとリスペクトを感じる文体だなあとつくづく思う。まあ、POPEYEというよりも宮本賢っていうライターにかなり寄せているっていう表現が正しいな。

POPEYE的表現って多分だけど、耐性がないとなかなか鼻につく方だとは思うんだけど、そのくささと人間味の絶妙なバランス感がハマる人にはめちゃくちゃハマってしまうんだと思う。

まさに俺がそれで、「こいつに言われたらたしかに良いって思えるよなあ〜」って感覚に陥る文体はもはや、雑誌が伝える言葉というよりも一人の友達の言葉に近い気さえする。

取り扱う内容とか雑誌が作り出す世界観と上手くマッチしているおかげも合って、文字なのに距離感を感じられる文体。その文章に話しかけたら、続きみたいに自然に返事が返ってきそうな距離感。

POPEYEの魅力って多分こういうところなんだけど、実際、POPEYEっていう枠を離れた時にはびっくりするぐらい寒くなるのは絶対、絶対、間違いない。

例えば

「いつだって僕らは「白」が好き。適当に選んだワイシャツだって白なら爽やかさも2割増ってもの。春と白シャツ、この響きだけで彼女が振り向いてくれる気さえする。白を味方につけた僕をみて彼女が言う「カレーうどん、食べた?」どうやら白シャツには根拠のない自信をくれる不思議な力があるみたいだ。」

なんてPOPEYEの上澄みを掬って遠心分離器にかけたみたいな文章を個人ブログに書いてるのを見つけたら牛乳の代わりに墨汁飲みたくなるレベルで白を嫌いになりそうですらある。

でもPOPEYEの誌面にあれば、「うんうん、白シャツいいよな〜」って全然すんなり受け入れられると思う。

なので文体はプラットフォームに依存してるよなあ、と思う。

で、内容もプラットフォームの雰囲気にあってればクオリティとか関係ないんだと思う。

最近のキュレーションメディアはゴミみたいな文章を量産してるけどmeryだってあのサイトの雰囲気にあっているからこそ、しっかりそういう層のファンを獲得して需要に対して供給し続ける事で成功を収めてる。

ていうか、生活において文章への比重っていうのがめちゃくちゃ下がってる中で今さら人間味のある文章自体たぶん求められていない気がする。

面白い文章とかいい文章って確実に存在するけど求められてるのは簡単に咀嚼できる面白いコンテンツであって面白いと感じるまでのプロセスは極力減らして行きたいんでしょうね…

いやだ…なんか老害みたいになっちゃった…

なにが言いたいかというと、文体はプラットフォームというフィールド魔法の範囲内でしか効果を発揮しないのではという…ことだったんでしたっけ…?…ね?随分前に書いて下書きに入れてたので何を言いたかったのかは忘れてしまいました…ええ…?

なに…?
ここどこ…暗い…暗いよ…
誰…ママ…?助けて……

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