尿療法が秘伝とされる幾つかの理由
久しぶりの長文です。
尿療法…その言葉は好きではなく、
尿(ゆまり)生活と呼んでいます。
シンプルな生活の知恵だからです。
便宜上、尿療法という言葉の方が広く認知されているので、ここでは尿療法と呼びます。
尿療法…。
行為そのものはシンプルだけど、
それを伝えるというのは、なかなか難しい。
なぜ伝えるのか?
伝えるというのは、理由があるからです。
尿療法を伝えるという作業は、
どちらかと言えば苦行に近いものがありますが、
その行為は、理解している人から見たら、
感謝される事があります。
人生で、大切な事、価値がある事、
人生訓の様に感じる事があります。
尊い、貴い、そんな言葉が最適でしょうか?
辞書的に簡単に言えば、
貴いってのは極めて価値ある事。
地位高さなどを指す。
尊いってのは、心から大切に思える事。
どちらかと言えば、価値があるというニュアンスの方が強いので、貴いなのかもしれません。
でも、尿療法を伝える事は、
別に誰かに尊敬されるわけではない。
実践した本人が、貴い経験をします。
それは意識できる事もあれば、無意識のうちに
恩恵を受けているものです。
尿療法の書籍では、肉体的な治療にスポットが当てられる事が多いですが、それはニーズを踏まえた内容だからであり、本当は最も広範囲に作用します。
でも、大抵の人は真意を汲み取らず、
むしろ、奇人変人の眼差し、好奇の目でみられ、
その真実は歪曲されて伝えられやすいものの代表ではないでしょうか?
現代社会において、
最も受け入れ難く軽視される様に見える事の中に
最も価値があるという矛盾した真実。
これらを理解する人は、
やはり世間一般の常識的な普通の見方をしていません。
しかし、私達の生活からかけ離れた
崇高な教えとか、何かを偶像崇拝させたり、
お金を徴収されたり、といった行為、
つまり外界に目を向ける様に誘導される訳ではなく、ごく普通の日常の中で当たり前にあるものです。
自分の内面を観察する様に、誰かに教えられたられ訳でもなく、意識が向けられるものです。
一昔前までは、こんな話を
見ず知らずの誰かとシェアして話し合う事は
とてもハードルが高い事でした。
だから信頼のおける人からの口伝として
秘密裏に伝えられてきたのです。
何かのイニシエーション、つまり儀式的な事もなく、別に怪しげな信仰宗教でもなく、
単に生活の知恵として伝わっているものですが、
公に語られる事は、あまりありません。
もし人間社会だけの行為だとしたら、
僕は、それを怪しい概念だと疑ってしまったでしょう。
しかし、現実は、哺乳類の多くにも見られる行為であり、生命知なのだと思います。
身体を詳しく調べれば、調べるほど、
尿を再利用する機能が予め用意されている事に
驚くでしょうが、胎児の頃から行っていた訳ですから、不思議ではなく、当たり前の話なのです。
この事を深く考えて実践してみる人ほど、
病気の本当の改善方法に辿り着くはずです。
でも、現実は、理解の程度には個人差があり、
まだまだ誤解や偏見があるのですが、
それも含めて、自然なのかもしれません。
尿療法は万能だけど万全ではないと言われます。あくまでも、キッカケに過ぎないのです。
その為、実践している人であっても、
個人差があります。
ライフスタイルの違いもあって、
一概に言えない要素が多いので、
誤解や偏見も多くあります。
時々、伝える人、伝わる人、伝わらない人、
そういった事に法則性の様なものを感じる事があります。
伝わらない人には、伝わらない理由があります。
だから、伝わる人、伝わらない人というのは
予め用意された出来事であり、
伝わる人とのご縁を大切にしてみると、
思いもかけない人生の好転があるのです。
わかる人にはわかる話、わからない人にはわからない話だから、秘伝なのです。
本当は秘密も何もありません。
シンプルだから、語る事もないほどに