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あをぞら 

 上野発札幌行きの寝台列車が宇都宮を後にした。引きも切らない人気と聞いていたB寝台個室であったが、運よく当日にキャンセルが出て潜り込むことができた。いつだって、駅に行けば目的地に運んでくれる、そう思っている。行き当たりばったりの取材旅行を続けていた。

 4号車のサロン。隣り合わせた女性と十分ほど話を交わした。大学生らしい。八つ上の兄の結婚式に出席するために札幌の実家に帰るところだという。どこまで行くのか、と訊かれて、自分は仕事のために札幌まで行き、特急と各駅停車を乗り次いで根室まで、行程25時間1分の移動を楽しんでいる、と話した。
「…いいですね。そんな旅がしてみたい…」
 落ち着いた口調は歳を重ねた女性の印象を与えた。細身の躰、初々しい髪に車内燈を映している。何という話をしたわけでもない。缶ビールを飲み切って、話題も無く「お先に」と片手を挙げれば「私も戻ります」と言う。
 6号車8番の自分の部屋のドアを開ければ、彼女は7番のドアノブに手をかけた。「なんだお隣さんか」と笑いかけると笑顔を返して、「予約されているんですか、夕食…」と言う。「いや」行き当たりばったりの旅である。「予約までは気が回らなかった」と応えて、軽い会釈をしてドアを閉めた。
 夜の風景を流す車窓に月が冴えている。狩野派も同行かと思わせるような首を傾げた月だった。上野駅の売店で買った幕の内弁当を開いた。ドアを閉めるときの彼女の表情が脳裏に浮いた。何か言おうとして黙った口元…伏せた眼…思い出しながら冷たい鮭を嚙んだ。
 室内に懐しい曲が流れている。控えめな音量に合わせて歌ってみた。ふと、隣りに聞こえやしないか…規則的な車輪の振動が恥ずかしさを消した。こんな気分、久しぶり、と思う。愉快だった。北海道から帰れば、もう冬服はいらないだろう。東京に、また、桜が咲く。そんなことを考えた。

 良い気分を連れて4号車へ行く。闇の静止画のような車窓にサロンの椅子とテーブルが映っている。ピントの外れた粗い粒子の一枚の写真のようだった。自動販売機で缶入りのホットレモンを二つ買った。それから、7号室のドアをノックした。「あったかい飲み物、どうだろう…」大声を出したが返事がない。電車の揺れが激しい。もういちど、こんどは気弱にドアを叩いた。返事はなかった。車内灯をうけたドアののぞき窓が目の前にあった。ちいさなレンズの明るみが、彼女の眼光のようで思わず眼をそらした。北斗星の鳴動が大きくなった。

峠道


 
 午前六時、車内のアナウンスで目を覚ました。車窓に青空が張り付いている。北斗星1号は道内を走っていた。眠っているうちに函館を後にして、幌加内を過ぎ、登別にさしかかっている。遠くに雪山の輝きが見えた。車窓に感じる光は柔らかく、春を思わせた。洗面所の往来で7号室の前を通った。シンと静もっている。間もなく札幌。午前八時五十分、予定の時刻に到着した。
 列車を降りて彼女を探した。この、うるわしい町が故郷だという彼女に、おはよう、と声をかけたかった。挨拶を交わすことができれば、少なからずこの旅にささやかな印象が残るような気がした。どんな旅でも、ひとつの印象を持ち帰ることができれば上出来、と日頃から考えていた。
 白いハーフコートを着た彼女を見とめた。大きめのショルダーバッグを左肩に提げて、小走りにホームの階段を降りていく。声をかける間はなかった。
 乗り換えのために、釧路行きの特急電車が入っているホームへ移動した。通勤するらしい大勢の人とすれ違う。人々は冬の装いを解いていない。けれども、きっと、この町の誰もが、列島弧の南端にまどろんでいた春が、眼を覚ましたことを知っている。

釧路湿原で

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