当たり前のことを当たり前としてみるのかどうか

ごく簡単な事ができない人がいるとする。

例えば、少しだけ人に気を遣うとか、丁寧に暮らしてみる。とか、

その結果が積もり積もれば甚大な影響をもたらすような類だが、

それができない人がいた場合、人はどう思うだろうか?

その人の体質にもよるだろうけれど、気にならない人もいれば、気になる人もいる。

逆に、その性質とは真逆のことがそこに起こっていた場合、

例えば、丁寧さよりもスムーズに動いてほしい人がいた場合、または人に気を遣うよりもダイナミックに生きていたい人がいた場合、

そのごく簡単なことが守られないことによって、その人はどう思うだろうか?

ここには、「ごく、当たり前のこと」が存在している。

それが守られれば、ごく当然。そんなことは普通だと思うかもしれない。

しかし、とても難しいことをなぜかなしえた人がそこにいた場合、その人はどうなるのだろうか?

感受性の高い人が、ある程度うるさい場所で生きることを乗り切った時、そこに当たり前という言葉を付したならば、知らぬ間に内側の黒い炎は沸々と燃え出すはずだ。

逆に、感受性の低い人ならば、そこで努力をするということすら放棄するかもしれないが、よく頑張ったという評価抜きに看過されれば、当然、屈辱に変わるだろう。

当たり前のことを当たり前のこととしてみる時、そこには感動は存在しえない。生まれない。と言っていい。

ごく淡々とした、鉄色、鉛色の毎日がそこに広がっているだけだ。

そういう人をよくみる。そして、自分は不幸だと言っている。

自分自身が自分自身を不幸にしている。と言う代表例だと思う。

その時、ただ、当たり前のことを当たり前と捉えずに、看過しないだけでいいのだ。こんな簡単で手軽なことはない。

それで、人生がバラ色になるならばそんなに嬉しいことはないではないだろうか?

よく、呪い返しという発想がある。

これは、人の悪意の念や、呪法などをそのまま送り手に返してしまうという技法や考え方だが、

悪意を持った人が何かをしてきた時に、それに対して悪意で反応すると、より悪意という意味での呪いは自分に張り付いてしまう。

しかし、そこに何かの感謝が生じてしまうと、途端に「観測効果」的ではあるが、呪いが存在しなくなる。

そして、呪いの絶対的エネルギーは、そのまま漂うわけではなく、当人に返っていく。

なぜならば、最も肩透かしを食らうからだ。

それが思考の中とかそういう範囲ならいざ知らず、態度に現れようものならば、本当に落胆すると思う。もしくは苛立つか。

究極は、こんなふうに、
自分にとって損益に当たることすら感謝できてしまうことが大事なのだと思う。

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