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ミソジニーという言葉をしりました。

昨年の昨日、ここにお引っ越しをしたことに、今朝気がつきました。


一年。


一年前に、このお部屋に来たときに感じたリラックス。


と、お引っ越しが終わり大きな出費をした段階を見計らい、翌日、その引っ越しは失敗と評価を聞かせて川辺に転居の誘導をインプットさせる方法。


私の感覚からすると、まわりくどいな。🐦



真っ向説明すれば手っ取り早いのにと思うのですが。



わざわざ、いろいろ、エネルギーを失わせようとするプロセスを踏む、なんとやら。


ミソジニーという言葉を昨日しりました。


社会的に弱く男性間でストレス抱えた男性が、さらに弱い女性をストレスの捌け口に攻撃をすること。



私が受けていたのは、それだったのかと。


赤ちゃんを抱っこした私に、第一声から怒鳴ったり、嫌みを言う、知らないおじいさんがいたのは。


名乗らぬ、知っているかも知れないおじさんが、ネットの向こうにいるのは。


(一方で名乗ってこっそりに転じた人は、社会的にド強い男性たちなのですが・・・。強過ぎてもさらなる繁栄のためだったり、ひまつぶしのためだったりにするのですね。)


そして、支援の枠組みっぽいフィルターの向こうで、心理的虐待が起きてしまうのは。


私の子育て上の失敗は、その状況下に子供を置いてしまったことだな。



ストレスを手段に支配される連鎖から地球ごとバイバイ✋


(真っ向説明されるものには、難しくても興味を持つ私。上の方法は、私にはとても非効率な方法だな。)


その構造と感覚を知ることができた一年だったな。



時間がかかったし、感覚もまだ練習中。😊



今日も心地よさに目を合わせていよう。



ここでひとつ気付くのは、
ミソジニーをしていた人たちの中でも最終的にその中のスケープゴートになっているっぽいのは、攻撃の意思が強くむき出しだった人なんだなと。


攻撃しつつも半分ニーズとずれていても想いあってっぽい人は、なんとなくきれいに抜けていっている。
(想いも支配関係の下のものだけど)

そのように見えて感じている。



最初から、そういうことを代理人にまかせてかくれんぼして守られている近かった人たちは、うーん。コメントやめとく。🐦



全体的に私が思うのは、それって母親が子供に向き合うクオリティーを落としてまですることだったのかな?ということ。

子供の環境を考えることの建前で、社会的競争と社会的制裁を含んで、奇襲で。


だな。



子育てのことではなくなっているのですよね。


こう書くような体験を選んで現実を作り表現しているのが私なんだな。
その解釈が自然に頭に思い浮かぶから。



まったく、なんという人生選んで生まれてきているのかな。(笑)


心も時間も人生も吸い込まれて(捧て)書いています。


『あったらいいな』は思えても、それができる人の関わりがこういうイメージの潜在意識の方が強くて、こうなるのですね。


こういう人間関係を100%信じているから。


よい人間関係のイメージの持っているものが無さすぎるのですね。思い浮かばないな。

光と言われても、どういうものが光なのかがイメージつかないです。ほんと。

プラス、提示されていたものが光に感じられなかったです。


育てていたバナナを枯らしながら現れた光だったのもそう思わせたな。


光もそれぞれなのでしょうね。


今私にできるのは、まったりいることかな。



ただ、ひとつだけ守ろうとしてもらえた感覚があった。

こんなに巻き添えを食うであろう波動砲?を、何度も何度も撃ったのに。

それは、うれしいな。


元気がリチャージされる。😊



私の自家発電のエネルギーは、どこから出てくるのだろうかな?

このうっすらが、出力最大なのかな。
今日は。🐦

一本くらい動画つくろ。



ふとしたときに、恨みのエネルギーならいくらでも出てきて、それを止めるのにまたエネルギーを使うから、まったりに残っているエネルギーはうっすらです。


なのだな。



ほんと、この恨みのエネルギーを抑え込んでいる私の精神力はある意味奇跡。😊


自信持っておこ。



ひとまず、書いてすっきり。


これを書いていることが、私が光と感じることですね。🐦


せずにいられないことだから。🍀



まったり穏やかに今日も終えれば100点。😊



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