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アーウィン先生〜!ろくろ回したんで添削してくださ〜い!「ヒストリーボーイズ」の話


アーウィン先生に会いた過ぎて夜泣きが止まりません。
妖怪です。


開幕早々神話生物的美しさを持つ御本人を目の前にし、SAN値がピンチではありましたが(?)、
今回は「ヒストリーボーイズ」を観劇してきました。

情報が解禁され、物語の導入やビジュアルが公開された頃は「スーツ姿の御本人とか観たすぎるが…?」の煩悩が9割で、ここまで頭や心を使う作品だとは思っておらず、
個人的初日の観劇後(というか、全公演が終了した今でも)呆然としております。

観劇回数を重ねる毎に感想が変化し、思考力を試されるような作品を浴びて好戦的な(?)気持ちとなるのは「舞台 死ねばいいのに」以来で、とても楽しかった……

あの作品と同じように、これからも想いを馳せる度に変化していくものだと予想しているのですが、
今この瞬間、この時代、この年齢だからこそ感じたものというのを、つらつら綴っていこうと思います。

個人の観点・感想が多いろくろにはなりますが、
どうぞよしなに。

【以下ろくろ】

物語は1980年代。
イギリスの進学校に通い、オックスブリッジの歴史学科を目指す8人の男子高校生。
英語と一般教養を担当しているものの、受験に必須とは言えない文化や芸術を重んじる定年間近の教師ヘクター(演:石川禅さん)
歴史を担当し、堅実ながらも普遍的な授業を行うリントット(演:増子倭文江さん)

そんな状況を打破し、何とか輝かしい進学実績を手に入れたい校長は、
オックスフォードに通っていた新人教師アーウィン(演:新木宏典さん)を臨時教師として迎え入れる。
革新的な授業を行うアーウィンと、文化的で情緒に重きを置く授業を行うヘクター。

2人の正反対な在り方に揺れ、考え、また自身が抱える悲喜交々と格闘しながら、生徒たちは大学合格を目指す。

というのがあらすじ。

物語についての言及もしていきたいのですが、
ひとまず私が幕間に耐えられず呟いたことについて語らせていただきたい…

新木宏典さん演ずる「アーウィン」という男の解釈!!!!!

余地や遊びが広い!!!!!!!

ツイートでも、ぼそぼそと呟くなどしていたのですが、
私が観劇した7/24、25の公演と、私的千秋楽となった7/26のアーウィン先生が別人レベルで変化しており、恐れ慄いてしまった…

その変わりっぷりに語彙と思考が追いつかず、思わず幕間に下記ツイートを投稿してしまったのですが、

個人的に混乱しているにしては、なかなか的を射た感想が飛び出たなあと感心するなどしました。

海外ドラマ「クリミナル・マインド」という作品に登場するキャラクターを彷彿とさせたんですよね。

その名もドクター・スペンサー・リード

彼はFBI行動分析課のチームの一員なのですが、
22歳という若さでBAU(組織)に入ったIQ187、数学・化学・工学の博士号を持つ天才という属性モリモリキャラ。

その天才さ故に場の空気が読めず、周囲から浮いてしまったり、うんざりされることが多くあるのですが、
7/26のアーウィン先生(以下、新解釈アーウィン先生と呼称します)には、独特な観点と切り込み方を持つ人間が陥りがちなそれ、
詰まるところ彼に通ずる特異さを感じました。

個人的に感じた新解釈アーウィン先生の特徴として挙げられるのは

落ち着きのなさ(手足を常に動かしていたり、座り直す回数が多かったり)

明るいけど抑揚の少ない声

興味の有無の顕著さ

という3つが主かなと思います。
なんとなく見るだけでは「あらあらあらあら!!そんな隠し球があったの!!可愛い〜☺️」で済ませてしまっていたこれらなのですが、
これらを特徴ではなく特性として見たとき、
対人間としてかなりセンシティブな掘り下げが可能になるのではないかと思われます。

(私は専門家ではない+この解釈の有無で物語の受け取り方に大きな違いは生まれないため、直接的な表現は避けていきます。)

新旧どちらのアーウィン先生にも言えることだけど、他者には理解し難い拘りであったり、
コミュニケーション能力の乏しさ・パターンを遵守する面は、
世の中の基準とされるものからは少しずれている。

新解釈アーウィン先生の前、流れ的には旧解釈アーウィン先生にあたる芝居で
その特徴らは日常生活に支障をきたすようなものではないように感じられたのですが、

新解釈アーウィン先生はそうじゃなくってェ……

革新的な教育、独特の切り口、思考の深さによって相殺される・折り合いをつけられているそれらはもう……もう……言葉にできない……

…話が脱線しそうなので無理に戻しますが、
ここまでを雑にまとめると、新解釈アーウィン先生は無邪気なんですよね。
そして喜怒哀楽の内の、喜楽の表現が豊かに感じられる。
引き出しの数こそ少なけれど、開けることに躊躇うことがないというか。

旧解釈アーウィン先生には多少のニヒルさとか、皮肉っぽさ。
同じ地の上に存在しているけれど、どこか常に人を上から眺めているような世捨て人感を感じた。
感情の発露も最小限にして、効率の良さと正確さに全振りしている。

ここまで様々解釈を深めてみましたが、
個人的にどちらのアーウィン先生が好きか、そしてしっくりきたかと問われれば、

間髪入れずに迷わず新解釈アーウィン先生と答える。
というか、きっとそう答えてしまう。

しっくりきた・こない辺りの話は軽く触れて終わろうと思いますが、
初めてこの「ヒストリーボーイズ」を観劇し、アーウィン先生について考える時間を取った際、
ストーリーそのもの、そしてアーウィン先生の発言とテンション感というものに、少し違和感を覚えてしまったんですね。

客観的に見過ぎているというか、あの性格や表面では、デイキンに恋をする確率は限りなくゼロに近いだろうし、
生徒達がオックスブリッジに合格したとしても
自然の摂理では?と、さも当然であるといった態度をとるだろうなという、大したことではない行動・言動が上手く繋がらないと天を仰ぐことしかできなくなっていた。

2幕冒頭、ドキュメンタリーの撮影現場へ訪れたポズナーを見つけた時のリアクションも、
新解釈アーウィン先生の方がしっくりくると感じたんですよね。

旧解釈アーウィン先生は、ポズナーの存在にどこか恐怖を感じているような困惑が色濃く滲んでいたけれど、
新解釈アーウィン先生は教え子に再会した教員そのもののリアクションだったように見えた。

会話が録音されていると勘付く手前、デイキンとの間にあったもの(詰まるところのスキャンダル的ワード)を引き出そうとするポズナーに対し
「なぜ?」と問いかけるシーンがあるのですが、その言葉のニュアンスの違いも、上記に準える形で変容していて、本当に震えた。

訳の分からない主張を繰り返し、決め付けるような圧に動揺しながらも呆れ、シラを切るような旧解釈先生と、
興奮し若干正気を失っているような姿に、宥めるような穏やかな声音で語りかける新解釈先生。

この「なぜ?」のたった二文字に現れる違いは、
芝居の奥深さというものを肌で感じるというのを象徴する名シーンなのではないかとすら思えてくる。

この文字数からわかるように、あの新解釈アーウィン先生を目の当たりにし、
その解釈の深さや異なりによって己の中の小さな違和感が次々に解消されていったことで、
これだ!!!」と雷に打たれたような衝撃と共に、血液が沸騰するような興奮を覚えたんだろうなと、
いま思い至りました。相変わらず時差が凄い。

そしてこれは愉快な余談ですが、新解釈アーウィン先生はノックの数と勢いが異常でめちゃくちゃツボでした。
笑いの沸点が低いことをこれほど呪ったことはないというくらい肩を震わせてしまった。悔しい(?)

あのアーウィン先生という男、魅力がありすぎる……
そして新木さんの芝居もまた魅力的で病み付きになってしまう……板の上に居続けてくださる限りこの網膜に焼き付け、脳のシワに刻み込み続けたい……

(閑話休題というか、普通にこの御本人が好きすぎるので見てくれやというコーナーです)


アーウィン先生について語り尽くしたところで、物語全体の話に入ろうと思います。

まず、この物語は「理性的すぎるアーウィン」と「感情的すぎるヘクター」という2人の教師、
そしてそのもとで知識を吸収し感性を育てていく生徒がいることによって、己の思考力までもを試される。
考えることが本当に楽しい作品だったと感じています。

何より、その物語の進め方自体が本当に面白い!

生徒の1人であり、作家を目指しているスクリップス(演:定本楓馬さん)のモノローグ的な語りが頻繁に入るのですが、
その口調であったり、カメラを見るというメタ的な視線から
この「ヒストリーボーイズ」という作品は、スクリップスがポズナーの記憶や自分の思い出を回想風に書いた本というような解釈も可能であるような進め方なんです!

初見時には不完全燃焼で終えてしまった細かなギミック、それぞれの仕草から感じ取ることができる心情というのは、
まさにエモーショナルであったと思います……
甘酸っぱいけど苦い思い出の数々、それこそが青春……堪らんですね……

ギミックで言えば、映画と今回の舞台で人物たちに所々異なる箇所があったそうで、それもまた面白いなと思いました。
私は映画を見ないままここまで過ごしているので、フォロワーさんからお聞きした内容の列挙にはなってしまうのですが、
大きく異なる点で言えば、ポズナーのその後ラッジのキャラ像+大学合格を掴んだ先の結末という2点が(個人的に)印象深いなと感じます。

一点目のポズナーのその後ですが、映画の方だと教員になってるんですってね!!?!
なぜ舞台の方では動かざる吟遊詩人(?)、世捨て人、浮世離れといった見方によっては半闇堕ちのような道を行ったのでしょうね……

終盤、リントットがそれぞれのその先を語る時、
「ヘクターの教えを全て覚えている唯一の生徒はポズナーだった(意訳)」と語るのですが、
それは恐らく、ヘクターが教え説いてきた人生に寄り添う芸術・教養を、ヘクターが願ったように活用している唯一の生徒である、ということではあると思うんですね。

撮影現場へ赴きアーウィンと対話をした時も語っていましたが、
進学してからも道は続くことを理解していなかった。先の見通しがつかないことに絶望してしまった。(意訳)」という言葉通り、
先に続く現実を思えば思うほど迷走に迷走を極め、
疲れ果てた時に縋るものというのが、ヘクターに教えられた芸術の教養だったのかなと考えるなどしました。

(我々オタクと似てるね……私は病んだ時に推しが増えがち+作品やろくろ回しに逃げがちなので、謎の共感をしてしまった……)

ただ、それと同時にこの物語の本懐はそこではないとも思うんですよね。
これは後々語ります。

二点目はラッジ(演:國島直希さん)のキャラ像etcについて。
彼は作中、実質親の名を借りて入学を果たすことになり、それに対して純粋に喜びを露わにしていたんですね。

しかしながら、
映画ではそうではなかったようでして。

親の敷いたレールを誠実に歩み、親の希望通り見事合格を掴み取るも、
当の本人は「これで義理は果たした」と合格を辞退。
そうすることで、彼は彼の人生のスタートラインに辿り着くことができた……というのが
映画におけるラッジというキャラクターらしいんですね。

この差何!?!?!尺の都合!?!?!?!

(まぁそれもあるとは思うが、それがほとんどではないでしょう)

キャラ像のブレは勿論ですが、何よりこれではラッジという人物がいることの理由、
ラッジというギミックが謎に終わってしまうんですよね。

自身の不完全燃焼感をどうにかするために、ここも軽くろくろを回していこうと思うのですが
この作品におけるラッジというギミック(存在理由)は、
ハッピーエンドのための救済そのもの」だったんじゃないかなというのが、現時点で1番まとまりが良い(個人的に)解ではないかと思います。
土地の傾向としてある出来るだけ取りこぼしのない状態でのハッピーエンドに繋げるためには、彼の存在は必要だった。

勉学に秀でた才が無くとも、それ以外の才があること。
そして不意に訪れるチャンスを逃さず掴み取る者の存在だとか、結果が得られずとも糾弾が選択肢に入ってこない周囲の環境。
上記で列挙したものは、ラッジが断片的に持っていた要素や、周囲がそう動いた結果生まれたピースなので、
彼の存在自体は、物語をハッピーエンドへ向かわせるイベントを起こす為のギミックだったというのが、個人的にしっくりくる落とし所だなと思います。
現段階での話ではありますが。

彼ら全体の話にはなりますが、これは観る人によって主人公が変わるタイプの演目であったように感じます。
このタイプのお芝居大好き人間としては、今更そのことに気付いて悔しさに頭を抱えるなどしています。
視点さえ変えれば、もっと深い解釈をすることができたんだろうな…

《こぼれ話》
この話をしている最中に思い至ったが、リントットの主張する女性の権利や立場といったところは、全力で取りこぼされているんだよな……物語の背景や時代的に仕方ないことだが、しんどい人はしんどいものであると思う。
Twitterでも話だけど、そういう苦しみがあるからこそ、これから先、こういった作品たちは上演が難しくなっていくんでしょうね。それでも、この瞬間、この時代に観ることができてよかったと思います。本当に。

たぬきの思考の片隅およびツイート(断片的に抜粋)


逸れに逸れましたが、アーウィンとヘクターの両者の違いや物語の話に戻していきますね。

アーウィンとヘクターの違い、人間性というよりメインジャンルが異なるゆえの衝突といった認識が私の中で最もしっくりくるのですが、
あれ本当に面白いですよね…

ヘクターの語る教養(芸術)というものは、老いてからも財産となる。
ただ時が経ってから懐古するかのように反芻すること、ただ傷を癒すために己が心情に当てはまるものに耽ることは、
とてつもなく勿体無いことだなあと思う事は確かである。

むしろ芸術を含めた教養というのは享受するだけでなく、進むため、これからのために使うべきというアーウィンの主張は至極真っ当なもので、
有るべき観点だと思う。

しかしながら、人間は苦境にあればあるほど詩人になってしまうし、慰めるための
芸術などの教養によって、人生を救われたりすることはある…

…お気付きの方はいると思いますが、そうなんです。

この議論って堂々巡りなんです!!!(血涙)

両者ともに言ってることは正論ではあるし、どちらにも共感できるものだらけなのだが、いかんせん極端なところがある。
ヘクターは感情に重きを置きすぎているし、アーウィンは理性的過ぎる。
そこが議論の火種となるので面白くはあるのだが、
私はこういった話を持ち出されると、どちらにつくかの踏ん切りがつかず、思考を煮詰め過ぎて焦がしてしまうんですよね……
己の未熟さと優柔不断さが悔しい……

この頭が痛くなるような正解の無い両者の主張や価値観を、バランスよく吸収していかなければならない生徒たち。
正直言って、思考力がなければ混乱しか招かない授業に揉まれ続けた生徒たちを、個性的で思考力のある若者を欲しがる学校が見逃すわけがないよな…
そりゃそう…という気持ちになる…

(ヘクター役の石川禅さんの温かい文章はもちろん、このお写真そのものが良すぎてずっと眺めてる。舞台写真の販売はありませんか…無いですか…そうですよね…すみません…すみません…)

話は打って変わって、私が考えるヘクターの、そしてこの物語の本懐というのは、(劇中で類似した言葉が用いられていたが)

芸術や教養という人生の救いを娯楽や戦略として消費することなかれ」というものではなく、

後世に教え伝え、繋いでいくことこそが教育としての、教育者としての、人間としての在り方である」みたいなものなんですね。

だからこそ、あのポズナーの現状を語るリントットの言葉には違和感を覚えたし、現在も上手く調理できずにいる自分がいる。
彼の新たなスタートラインを匂わせる演出なのかとも考えたが、そういう見方をしても、あのポズナーは進展を望める状態にないことは明らか。

彼らの進路を見た時にも、ポズナーの現状を見ても感じることだけど、
失われゆく教育の本来あるべき姿、彼らの言う受ける価値のある授業の持つ強さと儚さというのは
虚しくもあり、アーウィン先生が語っていたように「効率化と時短を求められる近代で淘汰されていくのは当然だろうな」という考えも浮かんでくる。

それでも教育者たちが望む本来の教育というもの、そして失われゆくものの大切さというのは、確かである。

話の結びが抽象的であったからこそ、こんなに乱雑とした感想を並べるしかないのですが、
そろそろ ろくろの仕上げに入ろうと思います。

あくまで私の感覚ですが、この物語を最後まで見届けた時、
学生時代に行われていた他者との論争や、周囲の学生と己の違いに言い表し難い嫌悪感を抱いていた日々を思い出して、
懐かしくもあり寂しくもあり、あの日々に帰りたい・2度と戻りたくないという気持ちの板挟みになったり、
懐古と郷愁といったものが凄く胸に刺さったんですよね。

常に鬱屈としていて、世界を呪おうと思っても、文字を綴ることや絵を描くこと、歌を歌うことや教員や友人と議論することを愛していたから、
なんとなくやり切れていたようで充実していた愛しい日々。

物語に没頭すればするほど、対立する教育の在り方、彼らの思考についていこうと考えを深めれば深めるほど、
強制的に学生時代に懐古させられるような芝居だったなと思います。

総じて物凄く有意義で充実した時間を過ごすことができた観劇だったと感じています。


あの作品が映像として残ることがないという現実は信じ難いものではありますが、ここまでセットで「ヒストリーボーイズ」という作品だったということで、己を宥めていこうと思います。

今回のろくろは、この辺りで窯に入れようかなと思いますが、
きっと日常のふとした瞬間にアーウィン先生のあれめちゃくちゃ良"か"っ"た"……みたいな嗚咽を漏らしたくなる時が訪れると思うので、
その時は課外授業として別のnoteを綴ります。

(既に今回深く触れられなかったアーウィン先生とデイキンについて語りたい気持ちが爆発してる)

ここまで読んでくださった方がいるかはわかりませんが、
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

以上!!解散!!

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