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朗読劇 ポート・オーソリティ-港湾局-を観たら思春期の記憶を掘り起こされてぶっ倒れかけた

noteを書くのが楽しくなってきた妖怪です。
三日坊主になると思っていたんだけどな…文字を書き連ねるのが楽し過ぎる…

今回は3/28に弾丸ツアーで飛び込み観劇した
朗読劇 ポート・オーソリティ-港湾局-」のろくろ回しです。
主に崎山つばささん演ずるケヴィンの話になるんですが、それにも理由があるので、後々連ねます。

物語の内容的に直接的な言葉が避けられなかったり、表現が刺々しくなってしまっているので、
お口に合わないなーと思った時点でペッしてください。

相変わらずの文体ですが、どうぞよしなに。

(公演の公式Xくんです。コメント動画とか見れるので、お時間あるときにぜひ…)

【以下ろくろ回し】

物語は“流れに身を任せる平凡な人生の詩”
大まかに捉えると、「三人の平々凡々な男たちの独白」というシンプルもシンプルなもの。
板の上には3人いるのに、同じ空間にいないんですよね。
だから会話もしないし、それぞれの話に登場する人物は、それぞれが記憶を頼りに再現するだけ。
アフタートークで崎山さんが仰っていた「ほぼ一人芝居」というのがしっくりくる。

ただそれだけじゃないんですよね〜〜!!

それぞれの物語が(ワードは中々に尖っているし、結構パンチ強めなものではあるけど)淡々と語られていくので、途中までは「……??」となってしまうんですが、終わりが近付くにつれて、見せたかった景色が見えてくるんですよ。
その景色というのが物凄く寂しくて虚しくて、いつか感じていた途方もない孤独感を想起させられて、思わず海に向かって走りたくなった……超良かった……

この3人の人生はどこか地続きで、似通ったものがあると感じられるんですよ。
それは精神的なものの造りだったり、女性に翻弄されまくっているところだったり、それこそ路頭に迷っているところだったり。
この3人の共通項である妙に現実的なうだつの上がらない人生と、寄る辺のなさというものに、思わずこちらの人生も重ねてしまうのね。
それが途方〜〜〜もない空虚感を煽ってくる。

全体の所感はこんな感じ。

ここから先は、崎山さん演ずるケヴィンについてフォーカスしていこうかなと思います。

まずね、あのね。
彼は比喩表現というかオブラートに包むということを知らないな??と思うほどのトンデモワード祭りだった……
(独白なので、恐らく相手はいないorいたとしても同年代だから、あんな直球ワードを使ってたんだろうな…)
あれ確かお子様無料招待的なやつの対象作品だったよね…??

完全にアウトです!!!!!!!
R-18!!!!!!
言葉の治安が某テッドそのもの!!!!!

この2年のうち、この時ほど「18歳を越してて良かった……」と心の底から思うことはなかった。
観てしまったものは仕方ないけど、年齢の壁でこうして感想を綴ることができないのは拷問に等しいので……
それはそれとして、普段のイメージからは想像できない、というか、現実世界を生きていてモロに聞くことがない単語が、崎山さんの口から流暢に出てきたのが驚き過ぎて、一瞬脳みそフリーズした。

ちょっと想像してみてほしいんですが、
ケヴィンという役を通して、やれ精液のついたカーリーヘアがああだ、「最高に気持ちいいフェラをしてくれた」だ、挙げ句の果ては「コンドームが外れたり破けたりめちゃくちゃだった!」とセックスの内容を嬉々として語る崎山さん。
一般人同士の会話であったとしても、側から聞けば「oh…」と思う内容を、200人を超える大衆の前で喚き散らす崎山さん。

正直に言うと

めッッッちゃくちゃに良かった……………

悔しいくらい良かった………………


あまりにも強刺激な言葉に唖然としてしまったけどね。
役とはいえ、やけに生々しいセックスの実況と感想、及び演じている役のフェチを詳細に語られるこちらの気持ちは、それこそ破れたり外れたりしたゴムのような暴れっぷりではある。
(実際、崎山さん御本人も『リアクションなさすぎて大丈夫これ?って思ってました』と仰ってたくらいには無反応だった)
でもそれと同時に、己の中にあるゲスな癖というものが、こう…凄く凄く満たされてしまって……

エウリディケの危険でおもしろい男の時も「産気づいた雌牛を〜」のくだりで「ハッッッ……(癖が満たされる効果音)」という感じだったのに……
粗雑で品をどこかに置いてきた言葉を欲望赴くまま板の上で使われるのに弱いからもう…本当に…頭抱えた……

このままだと私が感じたことが、ナレートフィリア的荒ぶりだけになってしまう気がするので、そろそろ違う視点からもつらつら語りたい所ではある。
頑張ります。

そう。このケヴィンという男。
年齢的には私と同い年か、少し上だけど見聞きしたものはおおよそ同じという同世代かという印象だったんだけど、正にその通りだったっぽいですね。
帰宅後にコメント動画を見たらサラッと言及されてて驚いた。
あたりまえ体操だけど、事前に公開されているコメント動画とかは、事前に見た方が理解が容易いという学びを得ました 。

あの軽薄とも取れる空元気な感じ、年相応な性への奔放さとか、どこへでも行けるけど動けないみたいなモダモダが、色々と己と重なる部分があって、
様々な場面で言語化することが難しい「感覚を理解する」という意味での「わかる〜」が頻出した。
(私はあそこまで性に奔放ではないけども、性癖は拗らせてるので、そこもまた何とも言えないというか…後ろめたい気持ちがあるというか…)

冒頭。ケヴィンは家を出てシェアハウスし始めたきったけを語る際「どうでもよかった、決心したつもりになりたかった」と自嘲するんですが、
敢えて自分の生活が脅かされるような環境に身を置くケヴィンの自滅行為というか、ヤケになった先にある自傷に近い行動に凄い既視感を覚えたんですよ。

それがタイトルにある己の思春期の記憶なんですね。

若さゆえにどこへでも行けると言われるけど、実際はどこへも行けない苦しさとか、それに対する諦めで全てどうでもよくなる感じとか、渦中にいるのにやけに冷静に客観視して絶望しがちなところとか。
どれも今でも抱えてる気持ちではあるけど、当時の生々しい感情を引き摺り出されるしんどい感じ……

私は思春期真っ盛りの時、暴力的なものが表面に出る反抗期じゃなくて、自分を攻撃してしまうタイプの鬱屈とした反抗期を過ごしていたので、このケヴィンの行動に思わず「ギャッッッ」となってしまった。

そこで思ったのが、(恐らくだけど、)この作品に登場する人間の誰に1番感情移入しやすいかというのは、見ている人間の年齢によって大きく変わってくるんじゃないかな〜ということ。
崎山さん目当てで観に行ったからというのも一因だと思うけど、物語に心動かされるということは、そういう面からの刺激もあるからだと思うのね。
先述した「感覚として理解するという意味での『わかる』」というのを得やすいのは、自分が経験した・見たことであることが多いから、必然的にそうなるんだろうなと勝手に納得した。

彼はあの部屋での生活を終え、もしかしたらこの先を共に生きていけるかもしれなかった人間との離別を経て実家に出戻るんだけど、出戻った後の日常へ帰ってきた安堵というのが、些細な言葉から滲んでいて、
本来の帰るべき場所ではないかもしれないけど、ここが彼にとって人生という航海に疲れた時に帰ってこられる場所なんだな…とぼんやり考えた。

パンフレットの中に「三つの告解(モノローグ)」というのが綴られているんですが、この文章の中に凄く腑に落ちる一節があるので、引用させていただきます。

罪びとの避難所は聖母マリア(Mary)とされる。三人は罪の告解と悔い改めを経て、自身の姿に気づき、入港・出航の官制者(Port Authority)たる権威(≒神)に導かれ、母なる港という避難所にいったん落ち着き、次の船出を想う。
引用:朗読劇  ポート・オーソリティ-港湾局- パンフレット

この一節が全てだったな…
寄る辺をなくして路頭に迷い、結局 元いた港(登場人物で言うと、彼らの母や妻、隣人が当てはまるだろうか)へ戻って、再び港から離れるその時まで、どこへでも行けそうで行けない、そんな海を眺め続けるというのが、彼らなんでしょうね。

現状、私も宙ぶらりんで、路頭に迷っている最中ではあるけど、それでも生活は続くし死にたくないから生きるしかない。
だから、また新たな船路が見えるまで、ぼーっと人生を眺めるのも良いな〜とか、
そんなことを考えられる(強刺激ではあるけど、)穏やかな時間だった。

以上!解散!

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