どこまでも清潔で明るい家

12. 東京オリンピック

 スターバックスの店内。スーツ姿の男二人が小さな丸テーブルを間にして腰掛けている。場所を取ると思っているのか、あるいはただ単に腹が空いていないのか、二人とも軽食は頼んでいない。テーブルの上にはドリップコーヒーのショートが二人分、そして、いかにも軽そうなラップトップが一台置かれてある。男の一人が腕時計に視線を落とした。時計の針は午後の五時十五分を示している。開会式まではまだ三時間ほどある。
「まあでも気の毒だったよな、佐々木は。不幸な役回り、押し付けられてさ、高田に」もう一人の男がコーヒーに口をつけてから、突然、そう言った。
「あー、あの豚の演出案が暴露された話?」男はそう言いながら、ラップトップを開いた。画面にはすでにアウトルックが立ち上がっている。「それより『高田』って、呼び捨てかよ」
「いいだろ、今となっては」ともう一人が返す。「いやそれもそうだがよ、高田だったわけだろ?MIKIKOさんを排除して、佐々木をプッシュ、プッシュしたのは」
「まあ佐々木さんは入社同期だっていうからな、あの人とは。佐々木さんなら意のままに動かせるし、うちとしても顔が立つ」
 男の視線は先ほどから画面に注がれている。メールチェックをしているらしい。でも、取り立てて重要なメールは来ていないようだ。男は適当に流し読みして、一つ一つ既読にしていく。返信を要するものは結局、一通もなかった。
「でも延期決定後の一年前イベントでIOCが絶賛したのはMIKIKO案だった。そもそも豚の演出案を真っ先に否定したのもMIKIKOさんだったんだろ?『容姿のことをその様に例えるのが気分よくないです』って。それも気に入らなかったのかな、高田は」
「あるいはIOCの評価に対する嫉妬か……。理由は何であれ、その年の秋だからな。MIKIKOさんが開会式演出チームから静かに外されたのは。まるで最初からいなかったみたいに」
「で、チーム再編後の統括責任者に抜擢されたのが佐々木というわけだ。いやー、しっかり黒い糸引いてるねえ。高田の思惑通りじゃない?」
「……だな」
 緑色のエプロンを着た女性店員が男二人のもとへ近づいて来る。そして、「ラストオーダーの時間になりますが―」と遠慮がちに声を掛けた。
「ん、今日早くない?」
「開会式当日で短縮営業なんだろ?表のブラックボードにも書いてなかったか?緊急事態宣言下で開いていること自体が想定外だったぞ、俺には」
「あ、ほんとだ」
 男二人は膝に手をついて、気怠そうに立ち上がる。「開会式、見るのか?」一人がもう一人に訊ねる。
「そりゃあ見ることになるでしょうねえ。これから地下鉄乗って帰って、風呂入って、飯食ってたらいい時間だもんな。家族で見るよ。見ないのか?」
「いや……、見るよ。どんな仕上がりになってるのか楽しみだ」

 深夜零時、十五分前。そこはマンションの一室だった。ごく最近にリノベーションして売りに出されたのだろうか、部屋の中は(さほど大きくはないにせよ)洒落て見えた。天井に取り付けられた照明器具が窓をオレンジ色に染める。それは古ぼけて、黒くくすんできた建物の外観と悪くはないコントラストをなしていた。アンティーク調に見えたのはそのためだった。
 ソファーの上には一人の女性が脚を組んで座っていた。彼女はえりという名前を持つ女性だった。ただ残念なことに、僕は彼女については何一つ知らない。年齢も職業も住まいも、既婚者か未婚者かさえも知らなかった。でもただ一つ、今の彼女はあまり機嫌がよろしくないということだけは理解できた。それは苦虫を嚙み潰したような彼女の表情と、しきりに居間の時計の方を見やる仕草から窺い知れる。彼女の顔は今、テレビの方に向いていた。テレビ画面にはオリンピックスタジアムが映し出されている。開会式は大団円を迎えているようだ。
 六人の子どもたちが最終点火者に聖火を手渡した。手渡された大阪はトーチを片手に階段を上がっていく。そして、聖火台に火を灯した。誰もいない無観客のスタンドを前に彼女はトーチを高々と掲げる。それを見上げる彼女の口角も幾らか上がっているように見えた。「多様性」―後にそうタイトルが付きそうな絵だった。
 新国立競技場に最後の花火が打ち上がったころ、えりはふたたび時計の方を見ていた。午後十一時五十一分。まもなく日付が変わる。しかし彼女の顔に興奮や高揚の色はなかった。目もどことなく虚ろだ。
「私の個人的な意見なんだけど、これなら幹子の案の方が良かったんじゃない?」彼女は静かに前置きをした上で、そう言った。幹子と呼ばれた女性はローテーブルを挟んだキューブスツールの上に腰掛けていた。彼女もまた脚を組んで座っている。その手には缶酎ハイが握られていた。お酒には強い人なのだろうか、顔色はほとんど変わっていない。
「『AKIRA』の主人公のあの赤いバイクが競技場を駆け抜けるところから始まって、東京駅のスタッフに扮したパフォーマーたちがダンスで歓迎の意を表す。渡辺直美さんの合図で各国選手団が入場。CGマリオによる競技紹介で子どもも大人も、そして海外の人も『新しい日本』を感じる」
 えりは少し長めの詩でも朗読するかのようにそう言った。そして、こう付け加えた。「私はそういうのを夢見ていたんだけど」
 幹子は口を真一文字に結んだまま、こくりと肯いた。聞いている、という意味だろう。でも、言葉には出ないのだ。一度言葉にしてしまえば何もかもをとりとめもなく喋ってしまいそうだったし、だいいち何から順番に話せばいいのかもわからない。彼女はただ、あの十月のことを思い出していた。あの日は朝から厚ぼったい灰色の雲が空を覆いつくしていて、今にも雨が降り出しそうな気配だった。彼女は念のため、折り畳み傘を鞄に入れて家を出る。向かった先は晴海のトリトンスクエア、高田に指定された場所だ。
 通勤ラッシュのピークは過ぎていたため、大江戸線は朝のような鮨詰め状態ではなかったが、それでも座席は空いていなかった。幹子はドア横に背中を預けながら―感染が心配でつり革には触れたくなかったのだ―高田に告げられたことを思い出していた。佐々木体制への変更の報告を森会長の口から受けた。今までの労いと共に、と。あの男は私にそう言ったのだ。
 勝どき駅で降りて、A2aという出口から地上に出た。銀座から真っ直ぐに伸びる通りを運河方面に歩いて行く。運河に架かる橋の上からは閑古鳥の鳴いたフェリーターミナルが見えた。心なしか、自分の靴音でさえ虚ろに響く。
 一角にスターバックスが入っているエレベーターホールからオフィスビルの上層階へと向かう。音もなくエレベーターの扉は閉まった。エレベーターが上昇を続けているあいだ、彼女はずっと目を閉じていた。頭の中を流れているのは、Perfumeの『TOKYO GIRL』。彼女たちの歌声が、この無機質で狭苦しい箱物の中で怯える心を優しく慰撫してくれる。リフレインしていたのはあの詞だった。

 踊れ Boom Boom TOKYO GIRL
 色とりどりの恋
 Let us be going ! going ! BOY

 次の一節が流れてくる前に、エレベーターのチャイム音が鳴った。音もなく扉が開く。幹子は軽く溜息をついてから、意を決したように外に出た。
 彼女が入室したとき、高田はすでにそこにいた。高田は両手を後ろ手に組んで、背の高いゴムの木を眺めている。こちらを向いたその黒い背中はひどく大きく見えた。後ろの方でドアノブを回す音がした。幹子は反射的に、体を横にずらした。入ってきたのは、森会長だった。
「やあ、MIKIKOさん。よくおいでなさった、さ、どうぞあちらへ」会長は羊毛のサポーターを嵌めた右手で幹子をソファーの方へと促した。しかし、彼女は動かなかった。
「私は……ここで、大丈夫です。立ってます」
 会長はその小さなくぼんだ目を意外そうに彼女の方へ向けた。それからはたと気がついて、「まだお若いですからな」と付け加えた。
「では、年寄りは座らせてもらいますよ、遠慮なく。年取ると便所も近くなって困るよ、な」
 会長は同意を求めるように、高田の方をちらっと見た。目配せを受けた高田は作り笑顔で、それに応じる。
「いや、しかし、MIKIKOさんのプレゼンは上々でしたな。コーツ委員長も大喜びだった。引き続き、五輪開会式はMIKIKOさんにお願いしたい」
「?」
 彼女は咄嗟に高田の顔を見た。そして、高田が敵意のこもった一瞥を森会長にくれたのを見逃さなかった。会長はそんなことにも気づかず、下を向いている。
「MIKIKOさん、ちょっと」
 高田はそう言って、幹子に外に出るよう合図した。彼女は事務室を出るとき、後ろを振り返った。森会長は頬のこけた牛蛙のような面をして、こちらをぼんやり見つめている。
 連れて行かれた別室は、さきほどまでいた事務室と瓜二つだった。ウェブ会議でも出来そうなテレビモニター、人目を遮るのに便利なブラインドカーテン、権力の象徴としての応接ソファー……、異なるのはゴムの木、そして聖火トーチがないことぐらいだ。その部屋で高田は開口一番、こう言ったのだ。
「さっきの話は事実と違うから。あの人、最近ちょっと呆けて来てんの」
 幹子は佐々木体制で行くことを念押しされたこと以上に、その言い方に会長への敬意がまるで感じられないことに驚いた。幹部陣の説明によると、森会長が私の能力を買っていたというのはどうやら本当らしい。しかし、佐々木氏であれば高田は意のままに動かせるし、会社の利益にも適うから、森会長の発言は揉み消す必要があったというのだ。

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