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嗚呼、インターナショナル!

 「インターナショナル」はパリ・コミューン直後のフランスで「L'Internationale」として誕生した。パリ・コミューンに参加していたウジェーヌ・ポティエ(Eugène Edme Pottier、1816 - 1887)が1871年作った詞に、1888年6月ピエール・ドジェーテル(Pierre De Geyter、1848 - 1932)が曲をつけた。リールの新聞労働者(La Lyre des Travailleurs)の間で歌われるうちに次第に各地に伝わり、1899年のフランス労働党大会でも歌われ、臨席した外国代表らによって、各国に広まり、旧ソ連時代には国歌に採用(1918―44年)された。


 中国の国歌は「義勇軍進行曲」だが、1920年代以来「国際歌」と訳された「インターナショナル」は中国共産党全国代表大会等の閉幕時その他党の重要イベント時には演奏されており、入党宣誓式でも必ず歌われる。周恩来は臨終の際この「国際歌」の「英德納雄納尔就一定要実現(=インターナショナルは必ず実現する)」フレーズを口ずさみ落命したとも伝えられており、事実上の中国共産党歌といってよい。
 近年では、昨年11月末の上海民衆によるゼロコロナによる封鎖への抗議時、このインターナショナルが大合唱された。まさしく事実上の党歌を党への抗議に用いるという洗練された抗議手法ともいえるが、民衆レベルに浸透した「国際歌」の象徴的意義も見逃せない。


《国際歌》=中国語版インターナショナル

 実は、《国際歌》=中国語版インターナショナルには、翻訳の違いにより、四つの歌詞が存在する。
 宋逸煒『《国際歌》在中国』(南京大学出版社、2022年)がこの中国語版インターナショナルの歩みを追っているが、列悲、瞿秋白らによる33種の中文訳詞とポティエの原詞草稿から、ロシア、英、ドイツ等の各国語版11種を蒐集分類した上で、《国際歌》の近代中国政治過程への伝播情况を詳解している。

宋逸煒『《国際歌》在中国』(南京大学出版社、2022年)


 同書は三部構成で、第一部では列悲、張逃獄、耿済之、鄭振铎、瞿秋白、蕭三、陳喬年らによる中文訳33種が紹介され、1920年代以来の中国への伝播を跡付け、1962年人民日報による官方版本の採用までの40年間の《国際歌》の変遷が検討されている。第二部は“底本”で、11種の外国語文が収録されている。ポテイェのフランス語草稿から1887年の公開出版時のフランス語定本のほか、6種のロシア語版、2種の英文版、1種のドイツ語版が示され、これらが《国際歌》中文訳に与えた影響が検討されている。1949年に至る解放前の《国際歌》関連報道および《国際歌》を描いた文芸作品等の史料を渉猟し、《国際歌》の近代中国への伝播を描いたのが第3部である。共産党宣言の中国への伝播の研究で知られる孫江・南京大学教授の校閲も経ており、本書の資料的価値は固よりその政治的意義は高く評価されよう。

“詩”から“歌”へ:瞿秋白

 これは、“詩”が“歌”へと転変したプロセスといってよい。発端は、民国初期の革命家・散文作家・文学評論家にして初期中国共産党の最高指導者の瞿秋白にある。

 ロシア革命3周年記念のため、モスクワに向かう途中ハルビンに立ち寄った瞿秋白が、ハルビン在住ロシア人によるハルビン工党連合会主催の祝賀会に誘われた際、初めてインターナショナルを聞いたという。瞿秋白の旅行記《餓郷紀程》によれば、開幕宣言されるや万歳を叫んだ参加者一同が厳かに起立し、インターナショナルを歌い始めた。これが瞿秋白のインターナショナルとの初接触場面である。ロシア到着後各地でこれを聞くことになったと瞿秋白は回想している。

 瞿秋白のモスクワ行は北京《晨報》および上海《時事新報》の特約通信員としての身分であった。これは堂兄の瞿純白らの猛反対に会うが、瞿秋白にとっては、隣国ロシアにおける驚天動地のプロレタリア大革命は“阴沉沉、黑魆魆的天地间,忽然放出一线微细的光明”、すなわち,「暗く黒く澱んだ天地に忽然と放たれた一条の光明」(《餓郷紀程》序文)と映り、その火種を取り「光明の路を示す」ためのモスクワ行であった。

 そのロシアで瞿秋白は各地でインターナショナルに代表される国際共産主義の理想の歌曲に触れ、モスクワの赤い潮流の激動に思いを高める。10月革命に衝撃を受けた瞿秋白は1923年北京に戻り、東城大羊宜賓胡同の瞿純白宅に身を寄せる。ここで瞿秋白は《国際歌》をロシア語から翻訳し、『新青年』初掲載される中国の労働者および世界のプロレタリアの団結を訴えた《赤潮曲》を作ったのだった。

“異語同声”の音訳へ

 実は、上述した宋逸煒本も指摘している通り、瞿秋白以前に3種の《国際歌》訳が存在していた。1920年10月、 “列悲”(筆名)が「労働歌」と題して《労働者》誌上に発表したのが嚆矢、翌11月張逃獄が《華工旬報》に《労働国際歌》を発表、1921年9月には耿済之、鄭振鐸が《小説月報》上に《第三国際党的頌歌》として発表している。
 だが、これら3種の中文訳詞は原曲のメロディラインに乗るものではなく、歌うことに適したものではなかった。このため瞿秋白はロシア語訳に基づき、歌詞としての中文訳を作ろうとした。1923年、瞿純白宅のオルガンを弾きながら瞿秋白はその訳詞を繰り返し声に出し、姪たちにも歌わせ、修正を繰り返したという(陳鉄健《瞿秋白伝》)。特に瞿秋白を悩ませた難題が、8音節の原語フランス語の“internationale”が中文訳では“国際”と2音になってしまう点だった。苦心惨憺の上、瞿秋白が編み出したのが「英德納雄納尔Yīng dé nà xióng nà ěr」と原音をあてる方法で、まさしく“異語同声”という音訳で、これが日本語版含む全世界へと拡がり、今に至っている。
 1923 年 6 月15日、広州で季刊誌『新青年』の創刊号が発行され、この「Internationale」の翻訳楽譜および瞿秋白の論稿が掲載されている。瞿秋白は、全世界のプロレタリアが“同声相応”して歌うための意訳を試みたものだとして、詞曲は直訳の要はなく適切でもないと記している。


 「新青年」発刊から5日後の6月20日、中国共産党第三次全国大会閉幕時、瞿秋白の指揮の下、広州市黄花岗の烈士墓前で「国際歌」が斉唱される。爾来、これが発端となって、上述した通り、「国際歌」は今日に至るまで中国共産党各級党組織の党大会閉会式や一部の主要な党活動場面で演奏され、歌われている。
 他方、この瞿秋白とほぼ同時期に遠く離れたモスクワの地で萧三(1896 – 1983、プロレタリア作家、長沙湖南第一師範で毛沢東と同学)と陳喬年(1902 – 1928、中国共産党初期指導者、陳獨秀の次子,陳延年の弟)がフランス語原詩およびロシア語訳に基づき中文訳を試みた。その後1939 年、萧三は吕骥(1909 - 2002)、冼星海(1905 - 1945)ら音楽家の協力を得て、何度かの改訂を加えているが、果たしてこれが独立した翻訳なのか、それとも瞿秋白版を参考したものなのかは判然とはしない。

 とまれ、最初に「国際歌」と命名したのは瞿秋白であり、歌詞と曲をマッチさせようとしたのも瞿秋白であることは間違いない。ようやく1962年に至り、中央人民広播電台、中国音楽家協会が関係専門家を招き、蕭三訳「国際歌」を基に再改訂を行っているが、それが現在まで歌い継がれているバージョンである。

 なお、単に普及伝播という観点のみからすると、実際には中国には『国際歌』にはさまざまなバージョンが存在しているのも事実である。例えば、江西安源路煤礦工人倶楽部(1922年成立)の夜間班課本には《国際歌》が収められており、1926年3月の国民革命軍第四軍第12師団政治部(政治部主任=廖乾吾)編歌集、李求実編《革命歌集》にも瞿秋白版《国際歌》が入っている。土地革命戦争時期にも各地の革命拠点でさまざまに歌われていたようだが、後に収集されたヴァージョンを見ると音調や歌詞はさまざまに異なっており、これは口頭伝承の通弊というべきものであろう。

要大休息!

 1935年2月、中央ソビエト区で瞿秋白は叛徒とされ、24日、福建省長汀県への路上、国民党軍第三十六帥団に捕獲された。 6月18日未明、瞿秋白の銃殺命令が発出される。

直前の瞿秋白

瞿秋白伝」によれば、瞿秋白は、

‘夕阳明灭乱山中,落叶寒泉听不穷。已忍伶俜十年事,心持半偈万缘空。’他一边手不停挥,一边镇静地说,‘人生有小休息,有大休息,今后我要大休息了’

司馬璐『瞿秋白伝』、1962年

との絶筆を認めた後、タバコを燻らしつつ悠然と刑場へと歩を進める。「国際歌」と「紅軍歌」を歌い、「中国共産党万歳!」「中国革命勝利万歳!」「共産主義万歳!」というスローガンを叫んだ。芝生の上に胡座をかき、死刑執行人に微笑んで『此地很好!』とうなずき、銃弾を浴びた(司馬璐『瞿秋白伝』、1962年)。36歳だった。

 聶爾の『義勇軍行進曲』ですらこの『国際歌』の影響を受けているであろうことは否定し難い。「国際歌は単なる歌ではなく、抑圧された人々の理想の追求を象徴している」(李樹琴)として「インターナショナル」は中国化され、人々の精神世界に徐々に組み込まれて行く。かくして、中国のみならず、全世界の多くの文芸、映画、演劇等でも、その象徴的な語彙および高貴な精神の象徴として「インターナショナル」が使用されている。とりわけ労働運動、社会運動場面における一体感、連帯感を励起するものとしての「インターナショナル」の使用は一時期を画するものであった。

日本への浸透

 なお、日本に「インターナショナル」が初めて出現するのは、『種蒔く人』誌上にロシア革命5周年を記念して和訳歌詞ともに紹介された1922年である。
 ただ、これは労働運動というより、寧ろ文芸運動の中から歌い出されたもので、これに先立ち、1903年2月の『労働世界』に小塚空谷によるインターナショナルの初めての日本語訳が「万国党の歌」の題で掲載された。

起てよ汝等飢餓の囚人よ

初邦訳「万国党の歌」

 これは革命詩として紹介されたものに過ぎず、瞿秋白を悩ませた通り、曲譜に従って歌うことのできる歌詞ではなかった。『種蒔く人』同人は、ロシア革命5周年を記念すべく1922年、インターナショナルを日本語で大々的に歌おうとの計画を立て、その翻訳歌詞の案出を佐々木孝丸(俳優、千秋実の岳父、佐々木勝彦の祖父)が行うことになったのだった。
 しかし、この佐々木孝丸による訳詞も、フランス語原詩を逐語訳したものを無理やり音符に当てはめたものにとどまるところから、佐々木は佐野碩(演出家)の協力も得てリフレイン部分以外を改訳を重ね、ようやく現在歌われている歌詞が誕生した。

 かつてメーデー当日、代々木公園を埋め尽くす組合旗、赤旗の下、響き渡る「インターナショナル」の大合唱を恰も日本の労働運動の高まりを示すものとして人民日報が伝えたこともあった。資本家の圧政に呻吟する日本の労働者もようやく立ち上がらんとする場面だというまさしく中国的期待感に裏打ちされた報道ぶりであった。

 「インターナショナル」は当時流行した「うたごえ喫茶」でもロシア民謡等と並びよく歌われ、一定の年齢層ではリフレインの「ああインターナショナル」の響きに郷愁を覚える向きも多い。同じ曲をみんなで歌うことで生まれる一体感、連帯感が「うたごえ」運動、組合運動に見出されたのであろう。
 60年安保闘争の際、1959年11月27日の統一行動で全学連の部隊が国会構内に突入した際(11・27全学連国会突入事件)には、学生らによるインターナショナルの大合唱が起こった。その10年後の東大紛争時、機動隊突入を直前にして、安田講堂を占拠していた全共闘がこのインターナショナルを歌い始めるが、警官隊は歌い終わるまで突入を待ったという。最後まで戦った全共闘の“勇士たち”へのリスペクトと共に大正期以来の《インターナショナル》の日本社会への浸透を実感させられる。


 上海民衆によるゼロコロナによる封鎖への抗議時のインターナショナルの大合唱、全学連、全共闘あるいはうたごえ運動等に示されるような《インターナショナル》の持つ民衆レベルの象徴的意義も見逃せない。
 ただ、今やみなで歌う「うたごえ喫茶」も個室カラオケにとって変わられ、今やヒトカラ、すなわち,周囲の掛け声も手拍子もない、文字通りひとりで楽しむカラオケすらブームとも聞く。ソ連が解体し、中国が改革開放へのシフトし、革命運動としての第四インター、国際共産主義運動が郷愁の彼方に霞むのと運命を共にして、《インターナショナル》は懐メロと化している。
             
                     [了]

参考資料文献

補遺:労働歌、革命歌としてのインターナショナルの背景事情はこちらが詳しい。

なお、現代アゲアゲ版の《国際歌》としては、上海東方衛星電視台『中国之星』に現代中国のイデオロギー失効情況を象徴するものとしても実に興味深い音楽クリップがある。 劉歓(フランス語発音上手い!)+袁娅维、吉克隽逸、孫楠 


     


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