なぜ「その場所」に行くと捗るのか?

以前から疑問だったことに最近答えが1つ浮かんだ。見出しの理由は「リソース」だ。「内的なリソース」と繋がるための「外的なリソース」がそこに存在するからだ。ここでは、町内行事でよく利用している集会所などの例を出しながら考えていくことにする。


「その場所」に行くと「記憶が外部復元」する

町内の集会所に行くと、運動会で使用するクーラーボックスの数は目の前で個数を数えることができ、冷蔵庫の空きスペースはペットボトルを入れることで確認ができ、各組の回覧部数は壁の表からすぐに見て取れる。これらは「集会所以外の場所」にいるときは、記憶の中やメモ、写真などの記録の中に格納されており、私たち自身がこれを意図的に取り扱う必要がある。しかし、「その場所」に行くと、これら「記憶だったものたち」「記録だったものたち」はほぼ自動的にイキイキとその場に外在化し、視覚触覚をはじめとした五感を伴う像としてその場に復元される。これを「記憶の外部復元」と呼ぶことにしよう。記憶の外部復元は、私たちの行動のブースターになるのではないかというのが今回の文章の趣旨だ。ちなみに記憶の外部復元をする際の記憶には時制は伴わない。「これからやりたいこと」も「既に知っていること」も脳に記され、憶えている時点で「記憶」として取り扱う。
※正確には「記憶」の順序は「環境」を母とするものであるがここでは省略

「その場所」に行くと「部分的現実化」が起きる

集会所に行くと「町内活動に携わる自分」になる。集会所に行くと必要なものは外部復元されて目の前に存在する。先日町内行事で40個の弁当を注文するときには、電話ではなく「ほか弁」に直接行った。ほか弁の駐車場まで行くと、部分的な現実化が起きる。仕事中に頭の中にあった「注文」という記憶はもはや「記憶」ではなく「店舗」「カウンター」「店員さん」という形に復元されて目の前に像となって現れた。10歩歩けば店の中だ。実にリアリティがある話だ。

「新しいその場所」に行った瞬間それは「パターン」に変わる

町内の体育館の鍵を借りるためにインターネットを参照し、いくつかの公民館から選んで、予約の電話をするのに2週間ほどを要した。素直に「その場所」に行っていればよかったと思う。公民館に行けば「建物」があり「入口」があり「事務室」があって「受付の人」が現実化されるからだ。それだけではなく「受付の人」は「わざわざ話しかけてくれたり」する。公民館はもはや「新しい場所」ではなくなった。「新しい場所」は「現実化した瞬間」に「パターン」として格納される。新しいその場所に行くと、私たちは新しいパターンの獲得をするのだ。

リモートワークはどうなるのか?(割愛)

捗るか、捗らないかという白黒思考は避けたい。本項目は「リモートが捗らない」と言っているのではなく「その場所」に行くと捗る ということを言っている。似て非なるものだ。ベートーベンが好きだからといってモーツァルトが悪いと言っているわけではないのだ。

STEPと仮説 捗らせたいことを考える

下記により、一部が現実化する。

・フィンランドに行きたい→最寄りの空港で考える・旅行会社で考える
・サイクリングに行きたい
 →自転車の前で考える・サイクリングロードで考える
・料理ができるようになりたい→IHコンロの前で考える・うまい店で考える
・もっと運動をしたい→お庭・運動公園で考える
 スポーツを見に行って考える
・もっと仕事ができるようになりたい→仕事ができる人の近くで考える
 →良い仕事をするお店などに行って考える
・子どもの幼児や行事を管理・把握したい→子どもの机周辺で考える
・資格の勉強をしたい→図書館の自習室で考える

空港にも行き慣れていない人が急に海外に行くのはハードルが高いし、部屋にいても部屋の景色が目に入るばかりで「自転車」のリアリティは上がらない。料理ができるようになりたくても「どんな料理を作りたいのか」が分からなければ「作りたい意欲」は湧いてこない。サンプルがあれば良い。
運動をしたくても目に入ってくるのはソファでスマホを触っている子供たち。これでは運動をすることにリアリティは感じない。仕事ができるようになりたくても目に入るのはお世辞にも自分が定義する「優秀で革新的」とはかけ離れた人たちばかり。これでは自分が定義する「仕事ができる人」のリアリティは上がらない。子どものことをきちんと見たいと思っていても目にしているのはスマホで手にしているのはコーヒーカップばかり。これでは子どものことにリアリティを持つのも難しい。資格の勉強がはかどらないのは、リアリティがないからだ。まずはそれに向けて勉強する自分にリアリティを感じるために、勉強している人がいる場所に行くのが良いだろう。

無意識に省略している「その場所」を現実化させよう。

・子どもの机はいつもリビングにあるのに、風景になっている。狭いと思われる家の中でさえも、私たち自身が立ち止まることのないポイントは無数に存在していることを思い出そう。そして、「それ」を捗らせたいと思ったら「その場所」はどこなのか?を考えよう。必ずや自分がアクセスできる場所があるはずだ。そこに行けばそれが「像」として目の前に立ちあがってくる。そこで初めて「思考」の出番が来るのだ。

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