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クラブ史の中でのダニエル・レヴィ〜episode 2:フットボールクラブのビジネス化 アーヴィング・スカラーの功罪~


 前回、スパーズがピッチ上で栄光の時代の衰退から復活する中で、経済面では財政的に厳しい状況となっていったという経過を書いていきました。
 このような状況で登場するのが今回の主役であるアーヴィング・スカラーです。彼はユダヤ系投資家でレヴィの先々代の会長です。彼について今回初めて勉強しましたが、当時のフットボールクラブからしたら完全に異物であり、異物であるがゆえにフットボール界に革命を起こします。そんな彼の影響はいまだに続いていると言えるほど大きいものです。しかし、フットボールクラブの経営という特殊性を理解できなかった結果、クラブを危機に陥れてしまいます。しかも、この人のやったことってレヴィの時代にまで影響を及ぼしていると言っても過言ではないと思います。まじでお前やってくれたよな…って感じです。

 前置きが長くなりましたが、始めていきましょう。当時、財政的に厳しい状況であったスパーズですが、1980年に時代遅れとなっていたウェストスタンドを取り壊し、新しいスタンドを建築することとなります。1980年11月に旧ウエストスタンドは取り壊され、一般席6,500席、エグゼクティブボックス72席の新スタンドが建設されることとなるのですが、これが当初の予定よりも工期が遅れ、建設費用も予定の£3.5mから£6mに膨れ上がるということが起こります。これと同じようなことが新スタ建設でもありましたね…笑
 これにより多額の債務を抱え込むことになったスパーズは財政的に逼迫、役員会がごたついているうちにスカラーが当時の大株主から株を買い増しします。それに加えて前会長フレッド・ベアマンの家族から15%の株式を買い取ったポール・ボブロフの協力もあり、シドニー・ウェイルとアーサー・リチャードソンから経営権を奪取しました。スカラーがスパーズの経営権を握ったことはスパーズだけでなくイングランドのフットボール業界にも大きな影響を与えていきます。

 スカラーは経営権を取得後、早速、新株予約権無償割当(*1)を行い、£1mを生み出します。当時のスパーズの負債はイングランドクラブとして最高額の約£5mあったそうなので、これにより20%を回収することができたのです。

*1 新株予約権無償割当:企業の資金調達方法の1つ。発行会社が既存株主に対して新株を買付できる権利(新株予約権)を無償で割当て、株主は権利を行使することで市場価格より安く普通株式を取得することができます。

 そして、1983年夏、スカラーは持株会社を設立し、スパーズが世界初の株式市場に上場するスポーツクラブになることを発表します。
 前回の記事でも書いたとおり、当時のフットボールクラブはどのクラブも固定化された収益の中、選手の給与のインフレやスタジアムの老朽化に苦しんでいました。そのような状況でのスカラーの発表はクラブへの新たな投資を可能にし、固定化されたクラブ収入を広げる画期的な方法でした。この後もスパーズの会長として、スカラーはポール・ボブロフとともに多角的な事業を展開していき、クラブの商業化を進めていきます。これによりスパーズはイングランドで最も商業化に成功したクラブへと成長しました。この頃、イングランドの他クラブも財政的に厳しい状態であったため、この潮流は後のプレミアリーグ結成に繋がっていくことになり、スカラーはその中心人物となります。つまり、今世界で最も成功しているリーグであるプレミアリーグの萌芽はスパーズにあったとも言えるんです。これすごくないですか?
 また、現在のフットボールクラブの収入源の大部分を占める放映権について、その高騰を後押ししたのもスカラーでした。当時、テレビ会社は放映権料を低く抑えるためにカルテルを結んでいましたが、スカラーはテレビ会社にフットボールの試合の放映権料をもっと支払わせるべきだと主要クラブを説得します。その後、テレビ会社との放映権料をめぐる争いが起こり、すったもんだもありましたが、1部リーグ所属のクラブは1986年には今までの倍、1988年にはその12倍もの放映権料を得られるようになりました。

 当時のスパーズは前回の記録を読んでいただければわかるかと思いますが、イングランド屈指のビッグクラブです。攻撃的で魅力的なフットボールを繰り広げ、当時まだ珍しかった海外からの移籍も含めて、ビッグネームもバンバン獲得していました。レヴィがいつだったかスパーズのDNAは流れるような攻撃的なフットボールであると言ったことがありましたね。まさにこれです。そんなスパーズは1980-81シーズンと1981-82シーズンはFA杯を連覇しています。まじで強い…

Tottenham Hotspur 1982

 そんな栄光に満ちたスパーズですが、降格した時の監督であり、1年で1部昇格に導いて以降ずっと監督をしていたバーキンショーが1983-84シーズンのUEFA杯優勝後に退任します(ちなみにこのUEFA杯決勝戦であるアンデルレヒト戦はSPURS PLAYで見れますので、加入している方はぜひ見てみてください。)。バーキンショーがスパーズを去った理由について、当時スパーズに在籍していたポール・ミラーは後に「キース(バーキンショー)が去った理由は、アーヴィング(スカラー)がクラブの選手獲得や退団について口を出したがったからで、キースはそれを拒否した。」と語っています。また、バーキンショーはクラブを去る際に「かつてはあそこにフットボールクラブがあったんだ」という有名な言葉を述べたと言われています(本当は言ってないなんて話もありますが…)。ここまで偉大な監督が現場とフロントがうまくいかなかった典型みたいな去り方をするのは寂しい気持ちになります…。
 バーキンショー退任後のスパーズは成績が安定せずリーグで4位になったかと思えば、次のシーズンはボトム10まで落ちたりすることを繰り返しています。80年代後半になるとFA杯の決勝で初めての敗北を期すなどタイトル獲得は叶いませんでした。
 ここで当時のスカラーやスパーズ関係者は無冠状態に我慢が効かなくなり、大型補強を無理に続けて行くことになります。ちなみに、この時に今でも愛されているガスコインを当時のクラブ史上最高の移籍金で獲得しています。こんなことを続けていたので、スパーズは再び財政危機に陥ることになってしまいます。ここは今のスパーズファンはなかなか理解できない感情かもしれませんが、当時は押しも押されぬビッグクラブな訳ですから、その意地とプライドは凄まじかったのだと思います。
 これに加えて、1988年にホワイト・ハート・レーンのイースト・スタンドの改築を行います。この改築によりエグゼクティブ・ボックスに取って代わられる予定となったシェルフ(立見の自由席)に関して、サポーターとの間で争いが生じます。このシェルフは当時のスパーズサポーターにとって非常に大切な存在であり、他チームはこのシェルフから響き渡るスパーズサポーターの声に恐怖を憶えるほどだったようです。この偉大なシェルフがなくなることに怒り狂ったサポーターは1987-88シーズンの最終戦に座り込みを行うなど、スカラーとファンの間に軋轢が生じる結果となります。それだけではなく、工期の遅れや改築費の増加(これはお決まりなのかもしれませんね…)といった問題も起こり、しまいには、安全証明が出なかったこともあり、1988-89シーズンの初戦となったコベントリー・シティ戦のキックオフのわずか6時間前に試合を延期せざるを得なくなります。ちなみにこの試合はみんな大好きガッザこと、ガスコインやポール・ステュワートがリーグデビュー戦となる予定でファンも楽しみにしていた試合でもありました。この試合が開催できなかったことにより、勝ち点2の剥奪をされることとなり、もう踏んだり蹴ったりです(スカラーからの不服申立もあり、最終的には罰金処分に切り替わりました。)。

White Hart Lane のシェルフ

 これだけでもスカラーはファンからだいぶ嫌われることになりますが、この時期にクラブはヒュンメルとのスポーツウェア契約などでかなり無理をしたにもかかわらず、これが不調に終わるという始末で、クラブは多額の負債を抱えてしまいます。この時のスパーズの財務状況は相当酷かったようで、スパーズは下手したら破産の可能性まであったそうです。これについては、なぜ回避できたかなどの詳細がわからなかったので、ご存知の方は教えていただきたいです。
 このようなスカラーの放漫な経営によって、スパーズはスター選手達を次々に売却することとなります。この時に有名なクリス・ワドルが当時破格の金額でマルセイユへ移籍することとなりました。しかし、事態はもう選手の移籍金でどうにかなるような状況ではなく、スカラーはホワイト・ハート・レーンをセール・アンド・リースバック取引(*2)の対象にしようとします。これをされていたら本当にやばかったと思いますよ。スパーズは自前のスタジアムを持たないクラブになり、レヴィのノーザンバーランド開発計画も出てきてなかったわけですからね。買い取った側にいつどんな要求をされるかわからない恐怖に今でも怯える結果になったかもしれませんし。

*2 セール・アンド・リースバック取引: 所有する不動産の売却を行ったあと、同不動産について賃貸契約を結び、引き続き同不動産を利用できるようにする取引を指します。所有する不動産を中心に企業でも取り入れられているスキームで不動産の売却によって資金調達ができる一方、賃貸料を支払うことで、一定期間、不動産の利用を継続できるのが特徴です。ただし、その不動産の所有権を失うことになるため、いつ退去を求められるかわからないというデメリットもあります。

 最終的に1991年の夏、スパーズがFAカップで優勝した後、デイリー・ミラー紙のオーナーであるロバート・マックスウェルと争いの末、当時のスパーズの監督であるテリー・ヴァナブルズ(昨年亡くなり、試合前に追悼も行われましたね。)とアラン・シュガーが手を組み、スカラーからスパーズを買い取ることになります。

 以上がスカラー時代のスパーズの話です。スカラーはスパーズというクラブのビジネス化によりクラブの収入源を開いた功績がある一方、外部変数や不確実性の大きいクラブ経営のリスクをほぼ管理できていなかったように感じました。やっぱりクラブ経営って普通のビジネスとは大きく違うものなんだなと改めて感じた次第です。ちなみに次回書こうと思いますが、スカラー時代の裏金問題でスパーズは危うく降格の憂き目に遭いますからね。本当にもう最悪ですよ…
 スカラー時代からはクラブの収益がいくら大きくなろうと、ピッチ上の成功と財務管理のバランスを一度間違えば取り返しのつかない結果になることを学びました。にしてもこの人は酷すぎですけどね…
 さて、次回はスカラーによりボロボロにされたスパーズを引き継いだアラン・シュガー時代を振り返りたいと思います。まぁ、この人は苦労の末、ブチ切れおじさんに変貌してしまい、わし以外全員敵!みたいなことになってしまいます。
 今回のブログを書く際に参考にした主な情報は下記にURLを貼っておきます。
 お付き合いいただき、ありがとうございました!




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