見出し画像

クラブ史の中でのダニエル・レヴィ〜Episode 4: 栄光の復活を目指して〜ビッグ4の牙城を崩せ〜

 前回まで歴史の中でレヴィを認識するためにレヴィ就任以前のスパーズを振り返ってきました。
ここまで18,433字…長すぎですよね。私個人としては過去を振り返る中で、レヴィの立ち位置を捉え直すことができたので今のところはやってよかったかなと思ってます。その辺の話は最後のまとめでしようかなと考えてます(最後までいければですけど…)。シュガー時代はほぼいい事なく、失われた10年を過ごしたスパーズですが、いよいよ真打ちレヴィが登場します。レヴィ時代をどう分けようかはだいぶ悩みましたが、一旦、初回はスパーズが初めてCL権を手にする2010年くらいまでにしようかなと。この辺の時代からは私も実際に見ている時代に入ってくるので、その時の雰囲気についても少し実感を込めて書ける部分があるかなと思います。
 ちなみにこの時代はレヴィ目線で振り返ると結構地味で書くこと少ないです。シュガー時代が色々ありすぎた感もありますけどね…笑。しかし、この地味な下積み時代が結構大事だと思うんですよ。この後スパーズがライジングできたのは、今から振り返るとこの辺りがキーポイントだったと思います。

 それでは始めていきましょう。2000年12月20日、スパーズの経営に疲れ切ったシュガーは休暇先のフロリダでENICに対して、スパーズ株の29.9%を£22mで売却します。シュガーはこの時にスパーズ株を40%保有していましたが、証券取引上のルールでこの時点でENICが手に入れることができる限界がありました。シュガー自身はもう全て手放す気だったので、この後数年のうちにENICがシュガーの保有する全ての株を購入します。
 これによりENICの最高経営責任者であったレヴィがクラブの非常勤取締役となります。レヴィは当初はクラブの会長職を引き受けるつもりもなかったようです。それが如実に表れているものとして、ENICがスパーズを保有するようになって初めてのマッチデイプログラムでのレヴィの挨拶を見つけました。そこでのレヴィのコメントは、今のレヴィからは想像できない興味深い内容だったので紹介しておきたいと思います。

 今日の午後、アップトン・パークでFAカップ準々決勝トッテナム・ホットスパー対ウェストハムのエキサイティングな試合が行われます。スパーズファンにとってFAカップの試合はいつも特別なものですが、もし自分の会社がクラブの経営権を取得するのを手助けしたのだとしたら、その期待感もひとしおです。私はスパーズの非常勤会長となりましたが、シーズン終了までには誰かを指名したいと思っています。
 それまでの間、私は注目されるような会長になるつもりはありません。私はかなり控えめですし、アラン・シュガー氏の直接の後任でもありません。多くの人が、ENICが29.9%の株式を取得した背景に私がスパーズ・サポーターであることが影響していると言っていますが、そんなことはありません。私は8歳の頃からスパーズを応援していますが、熱狂的なファンというわけではありません。この決断はビジネス上の理由からなされたものですが、ただ私が長くクラブを応援し続けてきたことは、明らかにアドバンテージになっています。

https://www.football.london/tottenham-hotspur-fc/news/every-word-daniel-levy-said-16325080.amp

 スパーズに対する情熱は今とはかなり異なっているように感じます。レヴィのスパーズ会長としてのキャリアを見ている中で、今の態度と矛盾するような決断や発言(この就任時コメントのような)がありますが、それでレヴィは支離滅裂な人だという評価をするつもりはありません。なぜなら、彼の今のスパーズや地域に対する情熱はスパーズ会長を務める中で強まってきたような印象があるからです。それって自分の身に置き換えるとよくあることですよね?私はこの就任時のコメントを知って、レヴィもちゃんと人間してるんだなぁと思いました。

 実はENICはスパーズ買収時、今のマルチクラブ経営(MCO)を目指しており、スパーズはそのフラッグシップ・クラブとなるはずでした。当時のENICはスラヴィア・プラハ、ヴィチェンツァ、FCバーゼル、AEKアテネ、レンジャースを保有していました。今のトレンドを20年前にチャレンジしていたことになります。これはすごいですよね!ちなみにレヴィはレンジャースの非常勤取締役をしていた時期もあるので、ポステコグルーとグラスゴー話で盛り上がったこともあるかもしれません。
 この時ENICの意図は今のMCOの意図とは少し異なり、今後高騰するであろう放映権料での利益を享受したいというものだったようです。ただ時代を先取りしすぎて、この計画は頓挫します。1998年5月、スラヴィア・プラハとAEKアテネがUEFAカップの出場権を獲得すると、UEFAからオーナーが共通ある両クラブが同じ大会でプレーすることはできないと判断されてしまいます。ENICは大金を叩いてスポーツ仲裁裁判所に上訴しますが、最終的にはUEFAの裁定が支持されることとなります。レヴィはこの決定を「ヨーロッパのサッカー界にとって逆行する一歩」と批判しますが、この決定によりENICのMCO計画は断念せざるを得ない状況となり、ENICはスパーズ以外のクラブの株式を売却する結果となります。これ以降、ENICはMCOをリスクある経営手法であるとトラウマ的に認識している節があるため、今後もENICがMCOに手を出すことは考えづらいですね。

 最初は会長としてクラブの日常的な決定に関与する気はなかったレヴィですが、クラブの成功に向けてチャンスを最大限に活かすために正式に会長に就任します。本気になると自分でやらないといけないという発想に行き着くあたりがレヴィっぽいですね。レヴィは企業再建と人員整理で評価されていたビジネスマンのデイビッド・バックラーを副会長に置き、スパーズ再建に乗り出します。しかし、そんなスパーズ再建の道は、出鼻から挫かれます。まずは名前を言ってはいけない例のあの人(レガシーNo.602)がボスマン判決以降、イングランドで最初のビッグディールとしてお隣にフリー移籍します。彼と契約延長できなかったのは前政権のミスではありましたが、そのツケを払わされたのがレヴィだったというのは不運でしたね。
 また、2003年には某青(個人的にフットボールクラブとは認めたくないので、名前すら呼ぶ気になれません。)のオーナーにアブラモヴィッチが就任します。アブラモヴィッチは、この時点でお粗末な経営により消滅の危機に立たされていたクラブの負債(約£80mの負債)をポンと返済してしまい、ポケットマネーでポンポンと有名選手を獲得していきます。これは普通にクラブ経営するのが馬鹿らしくなってくるほどの金満ムーブです。これにより某青がライジングしたことで、プレミアリーグにはビッグ4時代が訪れます。この時、レヴィはシュガー時代に水をあけられてしまったお隣との差を縮めようとしていたため、よくわからんところからよくわからん方法でライジングしてきた某青の存在は本当に予期せぬものだったと思います。

 ビッグ4時代について2000年代初頭からプレミアリーグを観ている方はご存知だとは思いますが、一応説明しておきます。ビッグ4時代とは、マンチェスター・U、リバプール、アーセナル、某青の4強がリーグを独占していた時代です。私がスパーズを応援し始めたのが06-07シーズンなので、このビッグ4時代の真っ只中でした。当時プレミアリーグを放送していたのはJ SPORTSでしたが、全試合生中継なんてものはなく、主にこのビッグ4の試合だけが生中継の対象でした。その他のクラブは録画放送すらないことも多かったです。スパーズの試合を観ようとするとほぼこのビッグ4との試合になるのですが、当時この4クラブは本当に強かった…。試合前から勝てる気なんてさらさらしないくらいの差だったため、たまのリアタイがほぼ負け確の試合だったのです。特にファギー爺さん率いるマンチェスター・Uとの試合なんて、どうやったら勝てるの?これ…みたいな感覚でした。それでもスパーズの試合をテレビの生中継で観れるってのが嬉しくて嬉しくて、全然苦じゃありませんでしたけどね。今は本当に便利な時代になりましたね。若者達は生中継で全試合観れる環境に感謝しなさい!(老害発言)
 このように当時はビッグ4の強さが揺るぎなく、その牙城を崩してCLに出場するなんて夢のまた夢なような状況でした。レヴィはこの高い高い壁に挑戦することとなります。

 ジョージ・グラハムの後任として、レヴィが初めて監督に据えたのはスパーズレジェンドであるグレン・ホドルです。ホドル政権はは周囲の期待も高かったものの、リーグ順位は中位止まりであり、就任初年度にリーグカップ決勝に進出したのがハイライトでした。ちなみに、このリーグカップ決勝はYouTubeに公式のフルマッチがあがっています。後のスパーズGKであるフリーデルおじさんが相手選手として当時のスパーズに立ちはだかっている様子も見ることができますよ。

 2003年9月に成績不振でホドルが解任され、Sporting Director(SD)を務めていたデイビッド・プリートが急遽ケアテイカーの監督に就任しますが、14位と鳴かず飛ばずのシーズンを過ごしてしまいます。翌04-05シーズンはSDにフランク・アルネセンが就任し、レヴィはより大陸的なフットボールクラブを目指します。そして、フランス代表監督として2003年のコンフェデを制した大物ジャック・サンティニを監督に据え、新しい時代の幕開けだ!との意気込みでシーズンが始まりますが、なんと11月にサンティニが辞任してしまいます…。サンティニの辞任は個人的な理由とされていますが、SDのアルネセンとの確執が噂されています。なんかキャリックの起用を巡って争ったとかなんとか…。そんなサンティニの後を継いだのが私がスパーズ監督史上1番愛したであろうハゲ親父ことマルティン・ヨルです!スパーズが本命でない監督の時に成功するジンクスってヨルから始まってるような気がします。彼はサンティニ政権でコーチを務めていましたが、内部昇格という形で監督に就任します。就任初戦はなんとNLD!そこで当時イケイケのお隣相手に4-5の撃ち合いを演じます。最後ギリギリで敗北したものの、これでファンの心を掴んだヨルは12年ぶりのリーグ5連勝を達成したりします。最後は9位となりますが、ヨーロッパまであと一歩というところまで行き、ポジティブな雰囲気でシーズンを終えます。翌05-06シーズンはカップ戦こそ早々に敗北したものの、リーグ戦では好調を維持し、ほぼトップ4を手中に収めていました。そんな中、有名なあの事件が起こります。リーグ最終戦ウエストハム戦でのラザニア・ゲートです。ラザニア・ゲートとは何とも馬鹿げたネーミングですが、最終節のウエストハム戦前複数人の選手が食中毒による体調不良を訴えます。レヴィはリーグ側に試合の延期を懇願しますが、回答をもらえず試合は予定通り開始。今にも倒れ込みそうな選手達はもちろん試合どころではなく敗北し、4位の座をお隣に明け渡す結果となりました。この食中毒の原因がラザニアだと言われているため、ラザニア・ゲートと言われています。この話はコンテ初年度の21-22シーズンの最終節にもクラブ内で食中毒が発生した時に掘り返されましたね。また、WHLのラストマッチでラウンジシートのメニューとしてラザニアが加えられて話題となりました笑。

実際のメニュー


 ヨル・スパーズはその翌年も5位(このシーズンに私の大好きなロビー・キーンとベルバトフの2トップが大活躍し、4月のPOTMはダブル受賞をしています。この時の写真が今の私のXのプロフィール画像です。)とビッグ4の牙城を脅かし続けます。07-08シーズンにはクラブ史上最高額でダレン・ベントを獲得するなどCL権獲得のために積極的に動きますが、スタートに失敗。まだ開幕したての頃にレヴィがセビージャの監督だったファンデ・ラモスに接触したことがリークされるという事件が起こります。レヴィはこの報道を否定しましたが、結局ヨーロッパリーグの試合中にヨルを解任してしまいます。これだけは言っておきたいのですが、レヴィが犯した数少ないミスがこのヨル解任だったと思っています。ヨルは当時のSDであるダミアン・コモッリと意見が合わなかったようですが、限られたスカッドを上手く使うことに長けていた監督だったため、まだまだ当時のスパーズに必要な人材でした。短期的な成果とファンデ・ラモスというビッグネームに釣られてしまわずに、ヨルとトップ4を勝ち取る姿を見たかったなぁと心底思います。マルティン・ヨルは率直で飾り気のない人柄とマネジメントのうまさが光るいい監督でした。ファンからも愛されており、彼のチャントはそんな彼とファンの関係性を象徴しています。

♫ Martin Jol,
Martin Jol,
Martin Martin, Jol,
He's got no hair but we don't care,
Martin Martin, Jol...♫

あ、つい私情が入りまくって、ヨルについて熱く語ってしまいました…(絶対こんなに長く書かなくていいんだけど、削りたくなかったんです。)

Arsène Wenger vs Martin Jol


 ヨルに不義理をしてまで連れてきたファンデ・ラモスは当時はまだ新しい大陸発の科学的なアプローチをスパーズに持ち込みます。選手の栄養管理もその1つです。しかし、情けないことに当時のスパーズ選手達はこれに反発します。有名な話ですが、当時のキャプテンであったレドリー・キングがラモスに「ケチャップを禁止するのはやめてくれ!」と直談判したりしています。人心掌握に失敗したラモスはリーグ戦はひどい有様でしたが、リーグカップでは躍進します。準決勝で宿敵アーセナルを5-1とボコボコにして、決勝戦に進みます。決勝の相手はこれもまた憎き某青です。ジョナサン・ウッドゲートの炎のヘッダーが決勝点となり、1991年以来となるタイトルを獲得することになるのです。この頃はまだスパーズを応援しはじめて最初の苦しみ(ヨルの解任)を味わっていた私もとても嬉しかったです。大好きなロビー・キーンやベルバトフ、何より我らが生え抜きのキャプテンであるキングがカップを掲げる姿はいまだに鮮明に記憶に残っています。なんだかんだ言って、やっぱりタイトルっていいもんなんだよなぁと思います。生きているうちにスパーズがまたタイトルを掲げる姿を見ることができたらいいですね。

Carling Cup Winner


 しかし、ラモス政権でのいいことはこれだけで、翌08-09シーズンは大失速…。開幕8試合勝ちなしで2ポイントという地獄を味わいます。ちなみにレヴィはこの時期にスパーズが降格してしまうという恐怖で何週間も眠れなかったそうです。やり手のビジネスマンというレッテルが貼られているため、ロボットのような冷たい印象を持たれることの多いレヴィですが、私達スパーズファンと同じ気持ちを持っているんだなぁと思うエピソードだと思います。それにしても、なんでこうスパーズは少し前進した後に大後退してしまうんでしょうかね…。この時期は本当に地獄の苦しみでした。なお、この頃ビッグ4の座を狙っていたスパーズ、エバートン、アストンヴィラに続いて、新興勢力のマンチェスター・シティが出てきます。前年にタクシンが買収してから派手な動きはしていましたが、このシーズンにアブダビ・ユナイテッド・グループに買収された衝撃は凄まじいものがありました。レアルからロビーニョ来た時なんか腰抜けましたからね。思わぬライバルが増えたことで、頑張らなきゃいけないスパーズですが、このシーズンは絶望的でさすがにレヴィが動きます。当時、ポーツマスの監督をしていた老将ハリー・レドナップを引き抜くという大勝負に出ます。この時の対応はまさに電光石火でした。レヴィ自身も金曜日の朝に決めて、土曜日の夜には全て終わっていたと認めています。決めたら行動は早いというのはレヴィの特徴ですね。なお、レドナップ起用というのは、レヴィとしては思い切った決断だったと思います。レドナップ爺さんは監督就任の条件としてSD制を廃止して、Manager制を導入させました。この後、SD制とManager制の話をしますので、ここではさらっと進みますね。レドナップ爺さんは、今までのスパーズの補強方針にはなかった即戦力の補強を敢行し、得意の人身掌握術で短期間でチームをまとめていきます。ここら辺はイングランドで長年中位下位のクラブを率いてきただけあって、結果を出すまでのスピードが早かったです。この冬にチョルルカ、デフォー(出戻り)、シンボンダ(出戻り)、ロビー・キーン(出戻り)らを獲得します。ほぼ出戻り組なのですが、その分すぐにチームの戦力となり、8位まで順位を上げるミラクルを起こしました。翌夏もクラウチ、ニコ・クラニチャル、カブール(出戻り)といった即戦力の補強を行い、レドナップが前任のポーツマスで躍進したクラウチ&デフォーの凸凹2トップを前線に置いた手堅いスカッドを作り上げました。そして遂にその時が訪れます。忘れもしない2010年5月5日。トップ4を争っていたマンチェスター・シティとの一戦、勝てばスパーズが自らの手でCL権を確定できるこの試合はお互いにチャンスを作るも最後のゴールだけは許さない試合展開となります。後半37分、右サイドを抜けたカブールのあげたクロスはシティGKのフロップに弾かれるもクラウチが頭で押し込んで、CL初出場を決めます!この試合のハイライトもスパーズ公式がYouTubeにあげているので、見てみてください。とても気持ちいいですよ!

 さて、レヴィ就任から初のCL権獲得までのピッチ上の出来事をざっと振り返ってみました。ざっととは言えない文字数になってしまいましたが、そこはご愛嬌ということで…。
 ここからはこの時期までにレヴィが取り組んだことにフォーカスを当てて書いていきたいと思います。まず最初にお伝えしておきたいのは、レヴィは長期的視点での財形基盤の安定化ということを大目標としています。それはなぜか?今までのエピソードを見てきてわかる通り、先代、先々代の会長時代にスパーズは財政状況に翻弄されてきました。財政的な不安定性がピッチ上の没落のみならず、クラブの存亡の危機を招いてしまったこともありました。そしてシュガー時代以降、激動のフットボール業界はほんの少し先の未来でさえ保証されない厳しいものとなりました。レヴィも長くスパーズファンをしているので、先人達の失敗から学び、経済的安定に対する会長の責任を強く自覚しているのだと思います。

 この時期にレヴィの取り組んだことは若手重視政策、財政基盤の安定に向けた布石です。
 まず、若手重視政策についてです。レヴィは就任当初から若手を中心としたチーム作りに興味があったと認めています。このためにレヴィはシュガー時代に導入したSD制を継続します。当時のプレミアリーグはManager制と呼ばれる監督が移籍に関しても全権を担うというスタイルが主流でした。このスタイルはファギー爺さんやベンゲル爺さん、先ほど話をしたレドナップ爺さん(爺さんばっかり…)が代表的ですね。そんな中、大陸流のSD制を継続した意図はレヴィがフットボールに関しては門外漢であること、SD制の方が長期的な視点でスカッド戦略を組めることがあげられます。当時のスパーズは補強方針として、若手重視、チームの週給バランスを重視(上限は£10万)というものがあり、ワールドクラスの選手はビッグ4に流れる、ビッグ4と競合した場合は資金力で勝てないという状況がありました。レヴィが会長就任以降CL権獲得までにデイビッド・プリート、フランク・アルネセン、ダミアン・コモッリをSDとして雇っています。ここでは彼らの功績を振り返ってみたいと思います(プリートはシュガー時代からの継続人選でしたので省きます。)2004年にSDに就任したアルネセンは1年で某青に引き抜かれてしまったため、そこまで多くの移籍には携わっていません。しかし、今はアンバサダーとしてSPURS PLAYの"Off The Shelf"という番組でMCを務めている元キャプテンのマイケル・ドーソンなどを獲得しています。その後、SDを務めたダミアン・コモッリはレヴィの唱える方針に1番忠実だった人物です。コモッリ時代にはベルバトフ、ベイル、モドリッチ、ダニー・ローズといった当たりもありましたが、若手枠で取った多くの選手は失敗しています。例えば、ジョン・ボストック、クリス・ガンター、ケヴィン=プリンス・ボアテング、アデル・ターラブとかですかね。いやぁ、懐かしい…笑。また、当たった選手も当初は苦しんだり、コモッリの成果と呼ぶにはちょっと…といった選手もいます。特にモドリッチなんかは最初に目をつけたのはコモッリだったものの、体格が小さいモドリッチに他クラブが懐疑的だったことで競合相手がいなかったり、ディナモ・ザブレグの当時の豪腕会長ズドラブコ・マミッチとのバチバチの交渉をまとめたのはレヴィだったりするからです。そんなコモッリ、当時観ている側としては選手獲得を外すことが多く、うざったい存在でした。コモッリ時代はビッグ4の壁を破れそうで破れない時期が続きますが、実は後からよくよく振り返ってみると、2009-10シーズンのスカッドでチームの基盤となっていた選手は結構コモッリ時代に獲得した選手が多かったんですよね。そういう意味ではSD制の本来の目的である長期視点はある程度成功していたのではないかと思います。あとこれには、若手はフィットするまである程度の時間がかかったという側面もあります。こういう経緯を知る身として、近年のすぐに結果を出さないと給料泥棒と罵り、批判する傾向にはあまり賛同できません。私が時代に取り残された古い人間なのかもしれませんけどね。
 その後、最後の一押しとしてレドナップ爺さんを全権監督として、ピンポイントで即戦力を獲得するといった方針変更が結果的に功を奏し、ビッグ4時代に風穴を開けることができました。レドナップ招聘というのは、あくまで結果的に上手くいっただけで意図した選択ではなかったと認識しています。あの時期はあまりのチームの惨状に、とりあえず建て直してくれ…という以上の思惑はなかったと思いますね。

Damien Comolli

 次に財政基盤の安定に向けた布石についてです。ここら辺はだいぶ私の解釈が含まれていますので、認識が誤っている可能性があります。財政基盤の安定化へ向けたレヴィのビジョンは常に明確でした。世界一のクラブであるスパーズには世界一の練習施設とスタジアムが必要というものです。スパーズ買収時にMCOを計画していたレヴィ(ENIC)は、今後放映権料の高騰により、クラブの世界的な知名度とロイヤリティは飛躍的に高まっていくことがわかっていたはずです。それを最高の施設と結びつけることで、安定した経済基盤を確立するというものでした。その前提条件として、クラブはあくまで経済的な自立を保ち続けることが必要となります。某青や後進のオイル系クラブのようなオーナーの資金力をあてにしたクラブ経営は激動のフットボール業界ではリスクが高いと判断したはずです。この証左として、某青はウクライナ問題で予期せぬオーナー交代が起こり、今もPSR問題やアブラモヴィッチ時代の不正疑惑で混乱していますよね。
 ただ、このためにレヴィがやったことはとても地味です。まずは前述の若手重視のチーム作りや週給制限により支出を抑え、選手獲得で生じるエラーによるリスクを減少させます。コモッリの話の中で書いたように当時のスパーズは選手獲得で結構なエラー(スパーズでは芽が出ず)を起こしていますが、若手のため買い手がついて収支で大損こくようなことはありませんでした。また、自分が交渉に出向き、移籍金の支出に妥協を許しませんでした。これにより交渉オバケのダニエル・レヴィが誕生することとなります。ちなみにレヴィはインテリヤクザと称されることが多いですが、交渉スタイルが瀬戸際外交的なものなのであながち間違った呼称ではないかもしれません。相手の弱味を握り、こちらに手札がある時のレヴィの強さは異常です。この話は本筋ではないため、またいずれできたらなと思います。
 また、これは説明の必要はありませんが、敏腕ビジネスマンであるレヴィは商売は得意です。スポンサー契約時期の影響などにより、鰻上りとはいかないものの、長期的には順調に商業収入を伸ばしています。これはデロイトが公表しているフットボール・マネー・リーグから引用した資料を見ていただければわかるかと思います。
 ここで次回以降のために少しフットボール・クラブの収入構造について説明を加えたいと思います。下記の図にあるMatchday収入(スタジアムでのチケット収入)はホームスタジアムの規模に依存することはもちろん観客動員数、試合数に影響します。つまりスタジアムの大きさだけでなく、そこをいっぱいにできるだけのファンのロイヤリティも大切なわけです。どことは言いませんが、空席が目立つスタジアムもありますよね…。当たり前の話ですが、いくら立派な箱を作ったとしても観客が来なければ、意味がありません。また試合数が多いほど収益が上がるため、ヨーロッパ戦があるかどうか、国内カップ戦をどれだけ勝ち進めるかが結構大事になってきます。次にBroadcasting収入(放映権料)は、前年の成績に基づき支払われるため、もちろんこれもピッチ上の成績に依存します。下記の図にするとMatchday収入(黄色)が増えると翌年はBroadcasting(青)が増えています。つまり、フットボールクラブの収益の7割以上はピッチ上の成績に依存するということです。そんなことはプロスポーツにおいて当たり前の話なのですが、一方これは運営側には恐ろしい話なのです。スパーズは元々ファンのロイヤリティが高く、WHLは常に満員、シーズンチケット待ちの人数も多いため、元々Matchday収入は堅固です。この2つに目をつけると見えてきますよね。そう、あのハゲがやろうとしたことが…。

 話を戻すと、レヴィはこの若手重視と財務基盤の安定化を徹底的に管理します。彼の完璧主義は有名ですね。短期的には失敗に見えるようなこともありましたが、この2つをきちんと回したことによりピッチ上の成績も上向き、次の大きな一手への道も開かれてきました。やっぱりピッチ外のゴタゴタがないってのもいいですね笑。スパーズは元々"正統な"ビッグクラブなので、トラブルがなければビッグ4に挑戦できるだけの素養はあったのだと思いますね。
 レヴィはこの両輪を回しながら、より長期的なビジョンを具体化させていきます。2005年から新練習場構想をスタートさせ、2009年に着工、2012年にホットスパー・ウェイを完成させます。そして、財務基盤の安定化への究極の一手である我らが世界一の新スタ構想に入っていきます。後のTottenham Hotspur Stadiumは、2008年に最初の計画が発表されてから苦節11年を掛けて建設されることとなります。この新スタ建設に関わるノーザンバーランド開発計画についてはまた今度書いていこうと思います。

 レヴィ初期編、書くことないと言いながらかなり長くなってしまいました…。今回のエピソードを書いて、レヴィはスカラーと異なり堅実で、シュガーと異なり当初から未来への明確なビジョンがあったことがわかりました。まぁ、レヴィがこのような動きができたのは、シュガーがある程度経済問題を解決していてくれたからということもあります。事象には必ず因果があり、歴史という大きな流れの中でその因果を認識できると、現状に対する解像度はグッと上がるなぁなんて思いました。
 今回のブログを書く際に参考にした主な情報は下記にURLを貼っておきます。お付き合いいただき、ありがとうございました!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?