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推しの話

2009年の終わり。当時中学3年生だった僕はYouTubeで戸川純の「パンク蛹化の女」の映像を見て雷に打たれたような衝撃を受けた。パンクという概念すらよく分からなかったくせに「これは本物だ」と一丁前に思ったのをよく覚えている。あまりの衝撃に興奮を抑えられず、すぐに彼女に関する情報をネットで漁ったが、なかなか実体が掴めない。公式HPがなく、最新情報はmixiのコミュニティで発信されていた。

調べるうちに、新宿の歌舞伎町の奥にあるライブハウスで近いうちにライブが開催されることを知った。まだ14歳だった僕にとって、一人でライブに行くというのは未知の体験だったが、好奇心には抗えず気付いたらチケットを取っていた。

2010年3月某日。放課後に新宿駅で降りて、生まれて初めて歌舞伎町に向かった。今ではTOHOシネマズがそびえ立つビルも、当時はまだコマ劇場の跡地だった。その横のホストクラブが入った建物の地下に、新宿LOFTというライブハウスはあった。煙草とお酒の香りが混じった薄暗い空間は、大人の匂いで溢れていた。広くはないライブハウスだが、結構な人数が集まっていて、人波に埋もれながら開演を待つ。大音量のイントロが響き渡り、幕が開くとそこに彼女はいた。姿は想像と少し違ったけれど、映像で見たそのままの純度を保ちながら、命を振り絞るように歌っていた。その日以来、僕は戸川純という人の虜になった。

何度目かのライブのチケット。
初めて行ったライブのチケットは失くしてしまった。

高校1年生の時、想いを書き殴るようにしたためたファンレターを出した。それからは、毎日ポストを覗いて返事を待つのが日課になった。1年半が経ち、もう返事は来ないだろうと諦めていた頃、一通の手紙が届いた。差出人は「戸川純 yapoos」。歓喜のあまり大声で叫んだ。便箋の入った封筒の裏側には「P.S」が3つも付いていて、返事がそこまで長くないことへの謝罪や、切手がすてきといった嬉しい言葉が並んでいた。その優しさがまた純ちゃんらしくて、彼女のことがもっと好きになった。受験前の最後の思い出にとリクエストした曲をライブで演奏してくれたこともあった。「Men's Junan」という人気曲はその日数年ぶりに披露された。

P.Sが3つも付いた手紙。

時は流れ、大学の入学、卒業を経て、就職して一人暮らしを始め、ゲイとして生きることを決めてからも、戸川純はいつまでも僕のなかにバーン!と居た。部屋はいつしか彼女のグッズでいっぱいになり、後追い世代のファンの中では、一番グッズを持っていると自負するまでになった。そしてファン歴が10年を超えた辺りからファン同士の繋がりができた。コロナ禍ではオンラインの「戸川純を語る会」を開催したり、ゲイのファンの人とカラオケに行ったりして、推しについて語り合える喜びを知った。

戸川純という人の魅力は「少女のような純粋さと、確固とした意志力が絶妙なバランスで同居しているところ」だと僕は思う。彼女には、数秒後には脆く崩れ落ちてしまいそうな危うさがある。それでいて内側には何の迷いもない強力な意志があり揺らがない。僕はずっと彼女に憧れ続けてきた。(「Yesterday Yes A Day」のカバーにはそんな彼女の魅力が体現されている。)

そして今日。とうとうご本人と直接話す機会に恵まれた。こんな日が来るなんて夢にも思わなかったし、まだ夢を見ているような気がする。でも、たしかに彼女が僕の送った相談に答え、僕の名前を呼び、目の前でサインをして、握手をしてくれたのだ。少女のように満面の笑みを浮かべながら、しっかりと固く手を握ってくれた純ちゃんは、やっぱり僕の永遠のアイドルだ。

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