Twitterの下書き

Twitterの下書きがどんどん溜まっていく。呟こうと思って呟かなかった言葉。今発信すべきではないと思って寝かせたまま忘れていた言葉。半数以上が呟かれずに下書きに眠っている。理由があって呟かなかったものも、noteだったら外に出せる気がしたので、振り返ってみることにした。


石原慎太郎が亡くなった日の下書きだ。思想が左寄りの人を多くフォローしてることもあり、その日は彼の過去の発言に対する批判的な呟きが散見された。自分は、人が亡くなったその日に、追悼の言葉もなく死者を攻撃する言動には納得がいかなかったのだ。全て水に流せというつもりは全くないのだが、死を悼むというのは人として大事な行為ではないだろうか。ただ、FF内にも彼を批判している人がいたのと、「嫌い」という強い言葉での発信を躊躇し、呟くのをやめた。でも、この時の僕は珍しく怒っていた。


チームメンバーと酒を飲み、だいぶ楽しくなった状態で無事終電で帰れた時の下書き。確実に調子に乗っている。朝目覚めて死にたくなると書いているので、翌日の自分に配慮して呟くのをやめたのだと思われる。偉いぞ。大抵、酒を飲むと下書きが2〜3個増える。気が大きくなっているのだ。


元彼に告白された時の思い出。彼とはTwitterが繋がってるので、目に留まったら嫌な気持ちにさせてしまうかもと思って下書きのままにした。この辺りの話はnoteの日記に書いた。


内田樹の呟きに感化されて書いた下書き。Twitterには何かを圧倒的な悪として捉え、強い言葉で批判するような言説が溢れている。もちろん、そう見えるだけで本人がどう考えているかは分からないのだが。ただ、140字の制約の中でする主張や批判は、対立を煽るものにしかならないとも思う。


文面にも気持ちが乗っているけど、例えが悪すぎて呟くのをやめたのだった。これもnoteの日記に書くことにした。140字で誤解なく想いを伝えるのはやはり難しすぎる。


フロムの『愛するということ』の中で語られている「自己肯定と自己批判の境界」のような話。自分の中には自分を肯定する母親像はあっても、自己批判する父親像が出来上がっていないことを日々痛感する。自己肯定と自己批判をうまくコントロールできるのが成熟した大人なのだろう。この話、本当はすごくしたいのだけど、自分の内面を大勢に向けて曝け出すのが恥ずかしくなって、結局下書きに残ったままになっている。

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