違和感や恐怖を感じたときに、私はどうするか
ギャー!
私の今朝は、この叫びから始まりました。
~・~・~・~
暗い中、シャワーを浴びるために地下に下り、シャワーカーテンを開けると、その床には黒光りするなにか。
私の目と身体は一瞬にして、そのものの正体を捕えた。
「ねずみ!」
ギャー!
背筋ぶるっ、冷たい水が流れる。
「ねずみ!ねずみ!」
私の声にびっくりして見に来た家族。
「いないよ」
後から見に行くと、もういなくなっていた。
ぞくっとした感覚が今もまだ背筋と脳に残っている。
そんな中、家族に言われた衝撃のことば。
「ねずみ、こわくないよ」
~・~・~
直感的な恐怖と向き合う
ねずみに対して抱いた恐怖感は、とても直感的なものでした。だけど、「ねずみ、こわくないよ」と言われ、「そういえば、大して怖い存在じゃないな」と冷静になってきたら、次のようなことを思いました。
新しいもの、普段見ない触れないものに対して、覚える恐怖は、相手が人であっても同じかもしれません。
例えば、ある人が自分と違う価値観を持っているとわかった場合、ちょっと違和感を恐怖感を覚え、とっさに(「ギャー」と心で叫んで)逃げ(たくな)ることがあります。
ここで働いているのは、人間や動物が備える防衛本能。
でも、その後時間が経過して、違和感や恐怖感に対して、そのまま回避し続けるのか。克服しようと努めるのか。無視するのか。
それは人、主体の判断であり、その判断の結果として見方を得て、人生の歩み方も変わってくるんじゃないか。
「歩みより」と「やさしい理性」
普段見ないねずみに対して直感的に覚える恐怖や違和感と、
自分と異なるタイプの人、あるいは異なる人種の人、異なる考え方をする人に自然的に感じる恐怖や違和感は、
似ているのかもしれません。
でもここで幸い、人対人の場合はコミュニケーションを通して
「歩みより」ができます。
「歩みより」はなぜ大事なのでしょうか。
私が思うその理由は、歩みよることで、物質的ではない心の豊かさを感じることができるから。心の豊かさを感じながら、日常や仕事に明るい気持ちで取り組みやすくなるから。
そして「歩みより」のために大切になるのが、人間だけが持つ言葉というツールです。(ねずみには言葉が使えないから、歩みよりが難しい笑)
ソーシャルメディアが普及した今の時代、感情にまかせて相手を罵るのは、上の「歩みより」の試みとは逆行しているなと感じます。
言葉をもっと「歩みより」のために使えるようになったらいいですよね。
また、私が「ねずみ、こわくないよ」と言われて冷静になれたように、環境からのインプットや、周りの人の方向性や考え方がさまざまなレベルで私たちの思考や感情形成に影響しています。その影響を受けて、私がどう考えるか。どう相手に歩み寄るのかが大切になってきます。
最後に、「言葉を使った歩みより」のために必要なのは、「やさしい理性」です。人間には、動物のように直感だけでなく、理性があります。どちらも誇れる美しいものだと思います。
直感を大切にして楽しむところは楽しみ、理性でやさしく歩みよる(対人、対自分、対地球などいろいろ)判断をしながら、生きていきたいなと感じました。
読んでくださってありがとうございました。
よい一日を。
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