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花は咲く Flowers bloom in your garden.Ⅷ

あの子を自分で育てようと決めたとき、
もう自分のことなどどうでも良くなった。
自分が女だとか、体力がないとか、頭が良いとか悪いとか、
背が高かろうが低かろうがどうでも良い。
この子は絶対に守る。
そのことだけしか考えなかった。

●甘酸っぱい香り

なぜこんな遠くに来たのだろう?
目の前の山の中腹には雲がかかっている。
日が暮れると夏でもストーブをつけないと寒くてたまらない。
息をすると肺の中にチリチリと小さな棘が刺さっては消える。
空を見上げると手が届きそうな場所に無数の星々が輝く。
もう夏も終わる。
一人で寝床に入ると昼間の疲れで夢を見るまもなく意識は闇に包まれた。

朝、軽トラのフロントガラスにお湯をかけて霜を溶かす。
最初はひと畝(むね)だけの小さな果樹園から始めた。
農業学校に通いながら、毎年追肥をし、大切に育ててきた。
理想ばかり高くて最初の夏には葉にカビが生えて、大切な樹を泣く泣く切り倒さなければならなかった。
毎日が試行錯誤で、ただ一つ物おじしない性格が幸いして、隣の畑の持ち主や、
毎年出稼ぎに来ている同世代の仲間達とはすぐに仲良くなった。
突然天候が急変して果樹園に出られない日は家の中で鬱々と街に残してきた息子のことを思った。

「私、これから好きなことさせて貰うから」
息子が就職先の内定を決めて、大学の卒業証書を嬉しそうに私に見せたその日の夜だった。
「一体どこで何をするんだよ!?」
突き出した手のひらに赤い果実を乗せて言った。
甘くて酸っぱい、手をかければおいしくなって愛情をかけなければ腐ってしまう。
「私の人生、は、ここにあるんだ」
息子が会社に出かけるのを待って、本当に僅かな身の回りのものと息子がくれた初任給をカバンに詰めてバスに飛び乗った。

この地域は老齢化したり、事情があって管理出来なくなった果樹園を、一定の技能を習得した人に引き継いでもらう制度がある。
それを調べて知ったときには嬉しさで飛び上がりそうになったが、
それなりの収穫量を確保して、しかも品質を維持するのはとても一人ではできない。
最初は他の果樹園の手入れや収穫を手伝いながら生計を立てた。
いろんな人の協力と指導を受けながら6年が経とうとしていた。
その年は天候に恵まれ、豊作だった。
でも私一人じゃ毎日収穫するのは無理だ。
あちこち声をかけて手伝ってもらえる人たちをかき集めても三人がやっとだった。
倉庫と果樹園を何度も行き来するのも女の私には重労働で
夜床に入ると気を失うように熟睡して、翌朝明け切らぬうちに果樹園に出かけた。

農道を左に入って軽トラを止めると、
いつものようにカゴを下ろして木の横に並べた。
朝霧が濃くて視界が悪かったけど、
そんな日は果実も瑞々しくて収穫日和といえた。
「さあ、始めようか?」
今では顔馴染みになった隣の果樹園の仲間たちと木に梯子をかけて赤くたわわに実った果実に手を伸ばした。
この辺りの木は収穫しやすいように高く伸びないように育ててあったけど、
それでも私たちは皆背が低かったから梯子や踏み台に乗って収穫を続けた。
日が上って周囲のモヤが晴れてくると
梯子の足元に小さな女の子が立っているのが見えた。
女の子はどこで摘んできたのか真っ赤な林檎を持って私に手渡そうとしていた。
「はい、これ!」
不思議に思って梯子から降りてその子から林檎をもらった。
「どこから来たの?お父さんやお母さんは?」
そう言って周囲を見回すと
果樹園の奥から誰かがゆっくりと近づいてくるのが見えた。
霧が少しづつ晴れてぼんやりとした人影が次第にはっきり見え始めた。
なのに、私はその人影が誰かわかると、
眼は霞んでその人を見ようとすればするほど見ることが出来なかった。
首に巻きつけたタオルで顔を拭っていると、
その人は私の肩に手を置いて話しかけてきた。
「待たせたね、おふくろ」
「おばあちゃん、泣いちゃだめ」
いつの間にかみんなが木から降りて私のまわりを取り囲んでいた。
「俺の娘の果林だよ」
遅れてもう一人優しそうな女性が息子の横に並んで立った。
「来ちゃいました。お母さん」
「俺たち、今日からお世話になります」
拭ったはずの涙がまた溢れて、私の顔をぐちゃぐちゃにした。
「追い返そうとしても無駄だから。会社も辞めちまったしな」
「辞めちゃいましたぁ」
笑いながら嫁が言った。
「さあ、何から手伝う?」
「何言ってるの?ほら、この梯子を隣の木にかけな」
息子がかけた梯子に上っていつも通り収穫を始めた。
7年ぶりに会う息子は不器用な手つきで腰にカゴをぶら下げて見よう見真似で林檎を収穫し始めた。
「それはまだちょっと早いよ。まだまだこれからだね、新米さん」
私は泣き笑いながら息子に言った。
「ねえ、おばあちゃん」
ああ、私おばあちゃんになっちゃった。
果林が間引いて地面に落とした林檎を拾いながら聞いてきた。
「どうして、こんなに林檎を捨てちゃうの?」
そうだね、もったいなく見えるよね。
「それはね、大きな幸せを手に入れるには、時には大事なものから離れることも必要ってことなんだよ」
そう言いながら、また目頭が熱くなって空を見上げた。
私たちはまだ旅の途中。
でもこれから先は一人じゃない。
次の春にはこの木には満開の花が咲き誇るのだから。

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