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花は咲く Flowers bloom in your garden.ⅩⅩⅡ

地平線なんて見たことがなかった。
ほとんど平らな地面に突き刺さるように大きなバオバブがそそり立っている。
いつもは高層ビルが立ち並ぶシドニーの街並みを見ていたけれど、今日はグレートビクトリアにいる。
同じ大地の上とは思えないほどの景色の中で自分はちっぽけだった。
はるかに続く大地と空に囲まれて、私はなぜか小さな街道に続く古い民家の街並みを思い出していた。
「さあ、帰ろう」
小さくつぶやいて私は赤黒い大地の上を車を走らせた。

●かあさんの家

空港から1時間で街並みの様相はすっかり変わる。
高層ビル群の中に聳え立つその高級ホテルが私が勤めている職場だった。
英語に不慣れだった私はそのホテルに勤めるために1年間をシドニーで暮らした。
オーストラリア訛りを治すのには苦労したけれど、三年間死に物狂いで働いていつか皆の信頼を勝ち取っていた。

月に一度私たち姉妹は神戸の元町にある古い教会を改装したカフェで一緒に朝食をとった。妹は普段はホールとして働いているそのカフェは常に美しく整えられて、下の厨房で毎日焼かれるロッゲンシュロートブロートは私たちのお気に入りで、モーニングメニューについてくるこのパンをゆっくりと噛んでいると微かな酸味の奥から微かな甘みが湧き出てくる。
「相変わらず美味しいね」
「私たちもこんなサービスを提供したいよね」
私たちはうなづいてその計画について話し合った。

私たちの生まれた場所はとても古い街道沿いにある宿場町の片隅だった。
まだその時代の名残のある古民家が立ち並ぶ街並みがとても好きだった。
早くに父を亡くし母に育てられた私たちは田舎町で必死になって働いて私たちの面倒を見てくれた母がとても好きだった。
早く母に楽をさせたかった私はホテルでお客様に尽くすコンシェルジェになり、妹は港町の大きなカフェの店長になって実家に仕送りをし、年末年始には実家に顔を出して年老いてゆく母を支え続けた。

その年の年末も私たちは実家で過ごしていた。
年が明けていつものように母の作った雑煮を食べていた元旦の朝
母が改まって私たちに
「ちょっとそこに座って待ってくれる?」と声をかけた。
母が箪笥の引き出しから突然銀行通帳を取り出して私たちに見せた。
そこには、いつどうやって貯めたのか150万円をこえる通帳が二つ。
「お母さん?こんな大金どうしたの?」
妹が問いかけると
「それはね、あなたたちがお嫁に行く時に支度を用意するために貯めておいたの。それにその中の半分はあなたたちの仕送りのお金なのよ」
私たち姉妹は思わず顔を見合わせた。
「実はお母さん。私たちもお母さんに話があるの」
私たちは自分たちのバッグの中から例のものを出した。
お前の上の母の通帳の横にもう一冊づつ通帳が置かれた。
「そこに100万円づつ入っているの」
母はびっくりした顔を私たちに向けた。
「母さん、私たちが小さい頃に良く言ってたよね。いつか三人で一緒にお店でもできると良いよねって」
妹が続けた。
「だから、私たち話し合ってお店を始めるためのお金を一緒に貯めていたの」

少し間をおいて母が言った。
「それじゃ、始めましょう。これも何かの縁なんだね。私は貯めたお金から100万円出すわ。残った200万円はやっぱりあなたたちの結婚資金で置いておくわ」
「一人100万円ずつ。三人でね」
私たちはその日から私たちの店のために話し合いを始めた。

あれから3年が経ち、私たちはその古びた町屋を改装した古民家カフェをオープンして1周年を迎えた。
「いらっしゃいませ!」
母はいつもよりおめかしをしてエントランスでお客様をお迎えしている。
妹は厨房でいつもより忙しく料理を作っている。
ホールで男性スタッフと一緒に給仕をしていた私に妹が慌てたように声をかけてきた。
「お姉ちゃん!もういいから!早く二階に上がって!」
私は急かされるように給仕の手を止めて忙しなく二階へと姿を消した。

この田舎町を出る時にはひ弱に見えた妹はすっかり逞しくなった。
彼女は明日からこの店の店長だ。

いつの間にかお店の中は人が溢れかえっていた。
昔から世話になった二つ隣の新物屋のおじさん。
小学校から幼馴染の友人たち。
中学校の恩師、クラブの先輩。
階段を降りてゆくと妹の隣には彼女の彼氏。
そして正面には母の姿。

私はそっと母に手を伸ばす。
母は私の手を優しく握って1階に降りた私を抱きしめてくれた。
母の手を解いて彼の腕にしがみついた。
赤い毛氈を敷いた両側からライスシャワーが襲いかかる。
「おめでとう」
母が私に声をかけた。
階段下で待っていた妹から花束を渡された。

カフェの広間の奥に進み出る。
私は彼に歩み寄って向かい合った。
薬指に勤めていたホテルの支配人が勧めてくれた指輪をはめると
ヴェールを上げて口づけを交わした。
皆の方に向き直って、母の目を見ながらお辞儀をした。

「母さん。家族が二人増えたよ」
ちょっと膨らんだお腹をさすりながら言った。

それっ!私は手に持った花束を宙高く放り投げた。
背の高い妹が手を伸ばした。
「次はあなたね」

妹は花束を母に渡した。
「違うよお姉ちゃん。次は私たち全員の番」
三人と新たに加わった家族の真ん中に花束を置くと私たちの家族写真のフラッシュが花みたいに光った。

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