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花は咲く Flowers bloom in your garden.ⅩⅩⅠ

●遠い家

貧しさがどういうものか?知ってはいたけれど
貧しくない今の方が心が痛い。
屋根にボロ雑巾のようにかけられたブルーシート。
雨が降れば部屋は水浸しになる。
弟たちは熱病に感染し、干からびて汚染された水を飲んで死んでゆく。
この国では健康に生きることさえ難しい。

兄が領事館の人と知り合いになったのは幸運としか言えなかった。
こんな国の暮らしが見たいとやってくる外国人。
僕たちが食べている香辛料とギイの塊で煮込んだ粗末な料理。
彼らに振る舞うと翌日見事に皆が腹を壊す。
父も母も、その兄弟も、また別の母も、叔父も、一緒に暮らすすべての家族がわずかばかりのお金を持ち寄って兄を送り出した。
その東洋の平たい顔をした人たちの国は天国のようだと皆が噂していた。
夏は日差しがこの国のように痛く、冬は凍えて空から氷が降ってくるらしい。
兄はトーブを脱いで西洋のスーツを着込んだ。
僕には眩しくてとても誇らしく思えた。

兄の手を引いて飛行機に乗り込んだ女性は目が一重でやはり鼻が低かった。

兄からの手紙はひと月に一度。
現地の女性が出資して兄と兄嫁のお店が出来たことを知ったのは一年後だった。
店は繁盛していたようだがその多くを出資した日本の女が取り上げていった。それでも兄が手紙で語る暮らしはここでは夢のような生活だった。

「お前もこの国で働かないか?」
兄からの誘いがあったのは三年後のことだった。
僕は兄のつてで一年領事館で料理の修行をして、日本へと旅立った。
兄はとても顔色も良くて元気そうだった。
僕は本場のカリーの料理人を探していた大きな会社のチェーン店で働くことになった。ワーキングビザも取ることができた。
兄は女性のオーナーから離れて独立した。
「一緒に働こう」と言われたけれど僕は僕の力で一人前になりたかった。
兄の暮らしぶりが派手になってきたのもこの頃だった。
お店のお金を同郷の仲間の誘いで中古車販売に注ぎ込んだ。
兄はあまり働かなくなって、お店は見よう見まねで日本人の義姉が回していた。
一時は羽ぶりが良かった兄の友達は間もなくして音信不通になった。
兄の金が返ってくる事もなかった。

兄は目が覚めたようにまたお店で頑張り始めた。
僕は働いていた店で料理長になった。
知らせが届いたのはそんなある日だった。
兄がしばらくの間バングラデッシュに帰るという知らせだった。
あれほど嫌っていた自分の国へ戻りたいと兄が言っていた。
思えば僕もずいぶん長い間国へは帰っていない。
一度だけ国の家族を兄と僕がお金を出し合ってこの国へ呼んだ事があった。
みんなはこの国の繁栄に驚き、そこで働く僕たちを誇らしげに見ていた。

兄がこの国へ戻ったのは3ヶ月も過ぎた頃だった。
僕は時々義理の姉を手伝って兄の店を切り盛りした。
兄が帰ってきてすぐにお店に立てるように。

でも帰ってきた兄は別人のようになっていた。
痩せ細り、目は黒く落ち窪んで病人のように立つのもやっとだった。
「もっと早くにこの国に来れば良かった」
兄は虚ろな目でそう言った。
「あの国をもっと早くに出れば良かった」とも言った。

兄の病気は「肝炎」だった。
僕たちの国では最も感染率が高く、そして死に至る病。
ゆっくりゆっくりと身体を蝕んでゆく。
この国では恐ろしい病ではなくても僕たちの国ではとても恐ろしい病。
義姉と結婚してからもしばらくこの国の医療をきちんとは受けられずにいた。
あの病も影を潜めて兄は健康に見えた。
「肝炎」の悪いバイキンを持っているとこの国では飲食業を続ける事ができない。
幸い僕はそのバイキンを持っていなかったけれど、
兄はこの国に来た頃にはすでに感染していた。
義姉は感染しておらず、お店の名義は義姉のものだった。
料理は兄がしていたけれど保健所への申請は義姉の名前で出していた。
その間にも兄の病は少しずつ進行して、
それほどこの先が長くないと分かった時に兄は一旦国へと帰った。

ここへ帰ってきた兄は前よりももっと祖国を恨んでいた。
あんな国に生まれなければもっと長生きできたのに、と。
帰国して1ヶ月もしないうちに兄は入院して病院から出る事ができなくなった。

兄が息を引き取った後、兄の意に反して僕と義姉は兄の遺体を国へと運んだ。
棺の前に百人以上の弔問客が並んだ。
出来上がったばかりの新しい家。
兄と僕が国に仕送りをして建てた大きな家での最初の集まりは兄の葬儀だった。
兄はこの郷で名士となっていた。
異国で大成功を納めた国の誇りだった。
義姉は兄のたくさんの奥さんの後ろの方で隠れるように立っていたが、
それでもその白い肌は目立った。
兄の埋葬が終わり、義姉は何も持たずに帰った。
兄がこの国に埋葬されることを望まなかったことは知っているけれど、
それでも彼はメッカに頭を向けて祈りを捧げている。
義姉は私も亡くなったらこの地で眠りたい、と言ったけれどそれが叶わないことを僕は知っている。

あれから5年が経ち、義姉から連絡が来た。
「お店を閉じるの」
兄と始めた店をこんなに長く続けていたことに驚いたけれども、
一人で店を続けることがどんなに大変なことを知っている。
この国で僕の身内は血の繋がっていない義姉だけになっていた。
お店に顔を出すと、兄と二人で作ったタンドリーが野晒しになっていた。
「欲しいものがあったら持って帰ってね」
毎日玉ねぎを炒めていた古びた大鍋を車に積んで僕は店を後にした。

僕はまだこの国にいる。
勤めていた店は辞めて、一生懸命貯めたお金で車を一台買った。
冷たい泥を固めた地面に毛布にくるまって寝ていた子供の頃を思い出した。
今は草を編んで作った畳の上に暖かい布団にくるまって寝る。
朝起きるて蛇口を捻るとそのまま飲めるような綺麗な水がほとばしる。
身支度をして台所に行くと、昨日の夜に炒めておいた玉ねぎをタッパに詰め、ほんの数種類のスパイスを持って車に向かった。
車を走らせて定位置につける。

あの頃僕らは生きることが難しかった。
でもほら、ここでは生きる事が普通なんだよ。

「はい!いらっしゃい!美味しいよ!本場のカリーだよ!」

僕は精一杯の元気な笑顔で道ゆく人に声をかける。
お兄ちゃん。僕はまだここで根を張るよ。
いつかここに花が咲くまで諦めるものか。
「まいど、ありがとう!」

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