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花は咲く Flowers bloom in your garden.ⅩⅩ

荒れ果てた人生に未練などない。
この国はどこなんだ?
俺は誰なんだ。
荒んだ心の中で声にならない叫びを上げながら天を仰いだ。

●無宿


気がついた時には俺の足元は異国だった。
俺が生まれたこの街は空虚で誰も信じるものはなかった。
ハラボジがハイモニとこの国に降りた時はまだ戦火の跡が生々しく、
もちろん祖国へ帰ろうとしたが、軍需工場から出ることは出来なかった。
戦争が終わったというのに貧困は俺たちをここに閉じ込め続けた。
軍需工場で使っていたミシンは放置され、祖父と祖母は工場の廃屋の中から荷車に乗せてそれをバラックへ持ち帰った。
奈良や和歌山でなめされた革は粗悪で使える部分は少なかったが、
戦後の高度経済成長期が俺たちの生活を支えた。
俺たちの学校には同胞がたくさん集まって見知らぬ顔などいなかった。
それぞれ少しづつ事情は違っていても生活は苦しく、家族全員で働きながら暮らしを支え続けた。

道で通りがかりのチョッパリに言いがかりをつけられいざこざが起きる時、俺は大抵その中心にいた。
家に帰り着くとオモニはいつも悲しそうな顔をして俺のことをたしなめた。
「いい加減にしないと、私たちここにいられなくなるよ」
俺は家に居つかなくなった。
仲間とつるんでいる方が気がまぎれた。
悪い遊びは全て覚えた。

家に帰ると山積みの段ボールの陰からオモニが「手伝ってくれ」とその段ボールを俺に差し出した。
家の中には修理しながら使い続けているミシンが3台。一日中唸りを上げている。
3日に一度社長ニムが荷物を引き取りに来る。
案外、俺はこの仕事が好きだった。
綺麗に仕上がった製品を見て「良いじゃないか」と言われて悪い気はしない。

俺のことをオッパと言って懐いてくるその子と結婚したのは
職人としてそれなりに自信がついた頃だった。
俺が成人する頃には周りの様相はずいぶん変わっていた。
多くの同胞は母国の名前を捨ててこの国に馴染むことを選んだ。
俺たちとこの国の住人との間には深い溝があった。
それでも目を瞑って仕舞えば今の生活に以前のような不満はなかった。
俺は祖国の名前を捨てた。

いつの間にか俺の周りの視線が緩んだ。
生きづらさが少し減ったような気がしていた。
なんだ、こんなに簡単な事だったのか?
しかし、その自分自身の錯覚に気がつくのにそれほど時間はかからなかった。
俺の周りの環境は少しも変わっちゃいない。
俺は母国の人間であり、この国の人間になるには母国を捨てるしか方法はなかった。
ごく身近なこの国の人間の一部は俺がどの国の人間であるかを知ってはいたが、
俺はそれでもその人に俺の素性を明かさないように強く念押しをした。
彼らに差別意識などない。
いや、彼らの多くはどこかに心の傷を持っていた。
本当に深い傷を持った人間は自分の傷のことを人には言わず、そして他の人間の傷に触れることもない。

俺は二人の子供を育てるためにがむしゃらに働いた。
子供達は成長し、そして成人したその頃に妻が言った。
「別れましょう」
俺の傷口が開くのを感じた。
彼女も俺と同じ国の人間だけれど、俺とは違う感覚で生きてきた。
俺が捨てようとすればするほど彼女は俺の傷口を感じずにはおれなかった。
彼女はそれが辛かったと言った。
子供達が独り立ちをして家を離れる時、俺は少し安堵を覚えた。
俺はまた一人ぼっちになった。
でも俺が支えなくてはならないものは皆飛び立っていった。
彼らは以前の俺たちよりも少しは身軽なのだろうか?
いつかどこの国とかどこの生まれだとか関係なく生きられる時代が来れば良い。
この国でさえ、他者を受け入れざる負えない時代に呑み込まれてゆく。

俺が頑なに感じ続けていたものは何だったのだろう?
俺は気の抜けたラムネのようにただ甘ったるい存在に成り果てた。

俺の周りにはいつの間にかどこかで繋がっている人たちが存在していた。
その多くはこの国の人たちだった。
みんな見えない傷を持っている。
けれどもそれは国や生まれた場所とは関係なく
それぞれの人生の中で抱えた傷だ。
そうだ、国や生まれた場所など関係ない。
どこにいても俺たちは傷を負う。

俺は祖国での名前を語り、自分の人生のことを語りはじめた。
全てをわかって欲しいわけじゃないしわかるはずもない。
俺は俺の人生を残す必要があった。
俺のほんの一部のカケラを残せれば良い。
今はあいつらがほんの少し背負ってくれる。

「ありがとうございました」
卒業の日に俺の手を握ってくるいろんな色の手。
この塾は俺のカケラを手渡す場所。
まだ終わっちゃいない。俺はまだ俺自身を取り戻せていない。
でもこの場所に少しづつカケラを集めてもう一度俺を作り上げる。
俺が実家から運んできた年代物のミシン。
その上に今日だけは花が飾られている。


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