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事業再生のこと−37

●実際に起こった問題について

「バブルの崩壊」

最初に起こったのは「バブルの崩壊」
前兆はありました。
私はその頃グラフィックデザインの仕事をしていて、大手上場企業の入社案内などのリクルート関連の制作物を作っていました。
平成元年に独立した頃はまだバブル景気が残っていました。
皆が浮かれてボーナスの額は跳ね上がり、DCブランド花ざかりで数万円もするジャケットやボディコンのドレスを身にまとい皆が夜のディスコへと繰り出していた頃です。
誰もが投資のために不動産を買い漁り、日本の企業が海外の大手企業を買収するような景気の良いニュースが飛び交っていました。
でも、広報宣伝やリクルート事業には翳りが出始めていたのです。
まず、売上は落ちないのに中身は前年度のデザインのリニューアルが増え始めました。
それに何よりこんなお祭り騒ぎがいつまでも続くはずがないと心の中で思っていました。

私たちに降りかかったのはまず事務所の維持費の問題でした。
バブルが崩壊すると、広報宣伝予算は真っ先に削られます。
企業は製作費を出さなくなり、仕事は急激に減りました。
しかし、それまで先行投資していたコンピュータなどの機材は当時購入時は100万円を超える高額なものばかりで、クリエイターはローンやリースでそれらを抱え込んでいました。
仕事がなくなって収入が減ってもそれらのローンやリースが無くなるわけではありません。
また不動産もバブルの頃に中間マージンを取る業者が又貸しをしていて、当時借りていたマンションにはなんと4社もの不動産会社が連なって中間マージンを取るために入り込んでいました。
解約するときに敷金礼金がほとんど戻ってこなかったことを覚えています。

バブルの崩壊のような急激な景気の悪化の時にしなくてはならないのは、ランニングコストなどの経費の削減です。最も大きな経費は不動産費用と人件費でしょう。
多くの場合、企業はそれらを削減するためランニングコストの低い物件に移転し、人員の大幅な削減に取り掛かります。
私たちの場合もまず、それまで借りていた不動産を解約し、自宅に事務所を移しました。従業員は解雇をしたわけではありませんが、自主退職という形で必然的に人員が減少し、結果的に事業を潰すことなくその後も継続できました。

「リーマンショック」

バブルの崩壊を乗り切った後、再び不動産バブルから飛び火した「リーマンショック」が襲いかかってきました。
最初のバブルの崩壊で「リクルート関連」に偏った事業体制だった私たちはクライアントの業種を多方面に広げていました。
「スポーツメーカー」「パビリオン建築業」「鉄道関連」など多角的に仕事を増やすことで、スポーツメーカー=4年に一度のオリンピック、パビリオン建設=国際博覧会、鉄道関連=地方自治体など数年おきに盛り上がる業界と各地域に広がるマーケットにつながりを持った体制を作ったためにリーマンショック時にはそれほどの打撃を受けずに済みました。

しかし、この後で状況が変わったのは企業の一極集中体制への変化でした。
関東と関西の2極化が進んでいたのが、関東のみの一極集中へと変化しました。
つまり関西の仕事のほとんどは関東へと移動し、関西から仕事がなくなってゆきました。

「うつ病の発症」

その後起こったのは社会情勢の変化ではなく、私自身の体調の問題でした。
2007年に私は「うつ病」を発症しました。
44歳に発症し、一番働かなくてはならない時期に働くことが困難になりました。
原因は仕事上の人間関係で、要因としてはリーマンショック後に各クラインとのモラルの低下が問題だったと言えます。
それまでの信頼関係よりも価格のみを判断基準とし、能力よりも安く使える下請け業者を求める体質に、どの企業も変化してゆきました。
日本の長い不況が企業雨体質を変える要因となっていたと思います。
仕事の内容はどんどん劣化してゆき、私たちの仲間や後輩たちはどんどん川下の流れて行くだけでなく、平気で契約を破って安い仕事を請け負って私たちから仕事を奪ってゆきました。
「業界」そのものに絶望したのがうつ病の背景にあったと思います。
また、この時に学習したのは事業を行うときの「契約」の大切さでした。

うつ病の後、一旦私はデザイン業界を去ることになります。
デザインという仕事を嫌いになった訳ではなく「デザイン業界」への失望の方が大きかったと思います。
私自身がデザイン業界に入った時にも賃金の低さや過重労働など業界のモラルは低かったと思いますが、20年経っても体質が変わらないのは業界を引率するべき先の世代と関わっているクライアント企業のモラルが少しも向上してこなかったことの表れだと考えています。
ごく一部の綺麗な部分だけが強調される業界の体質は変えて行くべきだと今でも考えています。

「革業界への転身とさらに製菓事業への参入」

私は一時「革業界」に身を置くことになりますが、この業界も古い体質から抜けきれず、デザイン業界よりももっとディープな業界であるとも言えます。
ただ、「革業界」の中にもこのままではいけないと考えている人たちはいて、改革をしようともがいている事も知りました。デザイン業界よりは物品を扱っているので「契約」に関しては進んでいると考えています。

10年あまり革業界に籍を置いて、その後2007年家内の事業をサポートする形で飲食業界と製菓業界に飛び込むことになります。
これまで書いてきた通り飲食業はずっと赤字で、私の革関連の仕事は黒字でした。
しかし、革関連の仕事の利益で飲食業を補填するのも限界があり、ここで決断しなくてはならなかったことは、二つの事業を全力でできるほどの余裕はないということでした。
家内が行っていた飲食業に関しては最初から問題があると感じていました。
自分たちの周囲のマーケットとはズレた事業を行っていることは確かでした。
「自分の事業には自分で責任を持って覚悟を決めてかかれ」というのが私の持論でしたから、家内の事業に口出しをすることはありませんでした。
しかし8年にわたる赤字事業を放置することは自分自身の事業にも問題でした。
私はもう60歳に手が届く年齢に達していました。
おそらく本気で仕事ができるのは残り10年ほどしかないでしょう。
事業転換の決め手となったのはやはり自分自身の健康の問題でした。

「くも膜下出血からの再生と変化」

くも膜下出血を発症したのは2018年の2月の寒い朝でした。
その頃、森ノ宮にも革の工房を持って毎週奈良の工房と大阪の工房を行き来していました。
ある日朝起きると偏頭痛のような痛みがあって、一日中頭痛に悩まされました。頭痛薬を飲んでも一時的に楽になっても、少しするとまた頭痛がぶり返してきました。熱も出て、翌日内科を受診することにしました。
運悪くインフルエンザを発症していて、インフルエンザによる頭痛なんだと思いましたが医師が「そんなに頭が痛いんだったらMRIを撮った方が良い」というので、あくまでも念のために脳外科を受診してMRIを撮るとくっきりと卵代の出血の影が映り込んでいました。
「くも膜下出血ですね。緊急入院してください」
と言われ、その日のうちに入院設備のある病院に転院することになりました。
インフルエンザを併発している事もあって隔離病棟に入って1週間の経過観察入院をすることになりました。
その後で医師に
「実際にはもっと前から出血していたと考えられます。夜中に寝ている間に出血が広がっていたらそのまま死んでいてもおかしくない」と言われ、ことの重大さに気付かされました。
その後出血は止まり、手術を受けることなく自然治癒をしました。
しかし、この入院時に高血圧と高血糖が重症化していたことがわかり、その後生活を摂生し現在は全ての数値がほぼ正常になっています。

「決断と転換」

「死んでいてもおかしくない」と言われた時に「でも死ななかった」ことや「自然治癒」できたこと、さらに麻痺などの後遺症が全く出なかったことなど、様々な状況やそれまでの激務のことを考え合わせ、私はまず「革関係の事業の縮小」を決断しました。「革関連の事業」はとても手がかかり体調のことを考えれば減らすか辞めるかという選択しかないと考えました。
しかし食べて行くためには残った家内の飲食業を再生するしかありません。28歳から独立開業しフリーのアートディレクターとして活動していた私は社会的にはとても弱い立場です。
生活を支える保障の大部分を自分たちで作り上げるしかないのです。
そのためには「飲食業」を改革して大きく育てるしかないと考えました。
こうして「くも膜下出血」をターニングポイントとして、私はきちんとした経営能力を身につけようと決断しました。

家内のしている「飲食業」に比べ、私がしてきたデザインの仕事や革の教室はいわゆる「仕入れ」や「製造」にコストがかかりません。意図してそういう職業を選んできたとも言えます。
「仕入れ」「製造」にコストがかかること自体に大きなリスクを感じていました。
私たちが事業を拡大するには「事業所」である店舗を容易には移転できない飲食業は今あるマーケットから離れることができずリスクが大きいと言えます。

「マーケットを探す」

今ある資材を生かして利益を上げることのできるマーケットはどこにあるのでしょうか?
私たちの経営資産(企業財産)は
●厨房機器
●調理の技能と免許
●店舗
●広報宣伝とデザインの技能
●製造スタッフ
●保健所よりの菓子製造の認可
●保健所よりの軽飲食の認可

などです。
これらを念頭に置いて原価率を計算し直し、損益分岐点を探ります。
この当時の商品原価は500円の商品に対して120円の材料費が必要でした。
単純計算すると約25%の原価率に見えます。
しかし、ここに家賃、人件費、運賃、光熱費、資材費などを加えてゆきます。
1か月に製造する商品の数を1,600個として材料費は192,000円、これに諸経費を足して、1か月の経費400,000+192,000円=592,000円。さらに催事出店する場合の20%のマージン率を計算に加えます。
約60万円を1個あたりに375円。原価率は75%に跳ね上がります。
1か月に500円の商品を1,600個完売したとして80万円の売上。
マージンが16万円。原価は80万円×0,75=60万円。
すると利益は 80万円ー(16万円+60万円)=40,000円となります。
損益分岐点は全ての原価を足した76万円。
ここに人の移動などの経費を加えると利益は残らなくなります。
絶望的な数字ですね。

まず私たちは材料原価を下げることから手掛けました。
1キロ単位で仕入れていた材料を10キロ単位での仕入れに変更し、材料の質は落とさずに仕入れ業者も卸専門の格安な業者に変更しました。
本来廃棄されるB級品の果物を自社で加工することでコストを削減し、商品の仕入れ原価は56円まで下げることが出来ました。
実に商品1個あたり64円の削減に成功しました。
また原材料費が高騰する前に10%商品価格を引き上げ、商品単価は550円になりました。さらに商品価格を50円値上げし、1個550円としました。原価率10%。
1か月の材料費は約90,000円。
諸経費は変わらず40万円+9万円=49万円
49万円で1個あたり1個あたり306円の原価。
550円の商品を1,600個で88万円。マージンは17万6,000円。
原価88万円×0.55=48万円
利益は 88万円ー(17.6万円+48万円)=22.4万円となります
損益分岐点は66万円(1か月あたり)。
随分と改善することが出来ました。

さて話を戻して、私たちに必要なマーケットはどこにあるのでしょう?
売上66万円以上を達成できるマーケットであれば私たちは利益を残すことが出来ます。
例えば1週間の催事出店で換算すると66万円÷7日間=約95,000円。
1日あたり95,000円以上の売上を上げることが出来れば利益を残すことが出来ます。
私たちが「駅ナカ」というマーケットを意識し出したのはこの頃からです。
一度、契約が取れなくても良いから沿線の駅ナカショップを管轄する大手に直接声をかけて話をしに行きました。
担当者の話では1日の売上額は20万円を超えるという話でした。
その催事場では最低14日間の出店をしなくてはなりません。
つまり14日間で単純計算すると280万円分の商品ストックを準備できなければ催事出店はできないということです。小規模事業者にはとてもハードルが高い数字で普通なら諦めてしまうところですが、私たちはその後も可能性を探り続けました。
別のクライアントで話をすると、そこが管理する催事場では7日間の出店で1日平均の売上が15万円前後ということがわかりました。それでも私たちには高いハードルでしたが背伸びをすれば届きそうな数字でした。
この催事出店を実現するために私たちは設備投資を決意し、それを実行することによって「駅ナカ」というマーケットに参入することが出来たのです。
実際には私たちはネットショップや店頭販売をしているので、催事出店の売上だけではありません。ネットショップと店頭の売上に関しては人件費が少なくて済み、中間マージンも入ってきませんから利益は大きくなります。
現実に催事出店を1か月間毎週できるわけではないのですが、現在は1か月のうち約2週間催事出店をしています。
現在の「催事出店における損益分岐点」は約5万円まで下がっています。
しかし企業が成長している間はまだまだ問題が起こります。

「成長という障害」

経営の資金が焦げつきを起こしたのは昨年からでした。
毎年順調に売上を伸ばし続け、
160万円→370万円→1000万円→2000万円といった
毎年200%以上の成長を続けています。
このまま大きくなっていくわけではありませんが、売上とともに大きくなっていくのは「仕入額」と「人件費」になります。
仕入額は仕入れ先の卸値をできる限り安くするしか方法はありません。
「人件費」に関しては例えば人を二人雇えば作業効率は2.5倍になりますが、
人の数が5人を超えたあたりから様相が変わってきます。
5人を6人に増やしても6倍にはならなくなります。
少しずつ作業効率が落ち始めるからです。
「能力格差」は必ず表れ始めます。
それは各個人の「熟練度」に関係します。
経験を積んで作業を改善できる人は一人で一人分以上の作業を短時間でこなすことが出来ます。
しかし人数が増えると一人当たりの作業時間が少なくなり、なかなか熟練に至らなくなります。
すると一人の人間が一人以下の生産効率に落ちることが起き始めます。
一人の人間の生産効率が1以下になり0,8になってしまうと、いくら人数が多くいても、その人件費に見合うだけの売上を上げることが出来なくなるのです。

そして仕入額。
毎年売上が二倍のスピードで成長しているのなら、仕入額も売上に比例して倍のスピードで増えてゆきます。
考えてみてください。それまで仕入れ金額が1ヶ月50万円で支払っていたものが半年後には1ヶ月100万円になっている状況。通常は前月の売上の利益の中から翌月の仕入れ金を確保しますが、成長が早ければ前月の利益の金額では足りなくなってしまいます。余剰金の貯蓄があってもいずれは底をついて仕入れ資金が足りなくなってしまいます。
こういう状況を「仕入れ金」の「焦付き」と言います。
さらに仕入れ金の焦付きが進むと仕入れ先への支払いが困難になります。
そして事業が立ち行かなくなって、売上では黒字化しているのに会社が破綻してしまう、いわゆる「黒字倒産」が起こります。
事業の拡大には計画性が必要です。
そして事業が拡大しているのなら、その資金をいつどこから調達するのかあらかじめ計画を立てておく必要があります。

「法人化のタイミング」

私たちは現在法人成りを目指しています。
どのような状況になれば「法人成り」をすれば良いのでしょうか?
いくつかの条件があると思います。
一つは売上額が上がり、法人になった方が税制の優遇のメリットが活かせる規模に成長していること。一般的に法人成りの目安の規模としては年商が3,000万円を超えたあたりと言われています。
私たちの事業はまだ年商3,000万円には達していません。
それでは何が「法人成り」の決め手となるのでしょう?
それは私たちの得意先(クライアント)のほとんどが大手上場企業であるということです。
「法人」は個人事業に比べて税務、財務の管理が厳しく、経営状況も優良な状態に維持しなければなりません。
つまり、個人事業に比べれば優良で他社から見て信頼できる状況にしなくてはならないということです。
私たちのクライアントが大手であればもちろん私たちの企業も優良であることを証明しなくてはなりません。
「法人成り」ができるということは私たちの企業が「優良である」証明にもなるのです。「法人成り」することで企業の信頼度は上がり、大手企業との取引がしやすくなります。現在すでに多くの大手企業との取引をしている私たちの信頼度を上げるために「法人成り」をするという選択肢もあるということです。

ここからは私たちがこれから学習しなくてはならない「経営」のことをお話ししたいと思います。


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