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花は咲く Flowers bloom in your garden.ⅩⅦ

赤い帽子をかぶって、ウエットスーツの上に赤い衣装を着込んだ。
フィンを足につけてボンベを背負うとその大きな水槽に身を沈めた。
視界が少し暗くなって、外ではとても頼りなかった赤い衣装は
水を吸った途端にとてつもなく重くなって動くのもままならなくなった。

●メリークリスマス!

あの頃は何も考えてなんかいなかった。
工事現場で拾ったヘルメットを頭に載せると
50ccの年代モノのカブにまたがって海岸線を学校に向かった。
昨日飲んだ酒がまだ少し残っている。
家に帰ると酒を飲むくらいしかすることがなかった。
学生が小会議室に集まって、各ゼミの教授の話を神妙そうに聞いている。
時計を見ると各ゼミの説明会が始まってもう10分経っていた。
裏手の扉をそっと開けて聴講席の端っこに体を滑り込ませると、机の上に置かれた用紙に素早く目を通した。
「希望するゼミの名前」
「希望する理由」
「自らが研究したいテーマ」
「研究テーマを選んだ理由」

俺の中には何の答えもなかった。
最後に注意書きがあった。

※卒業研究を提出しなかった場合、単位不足によって卒業できなくなります。

親が大剣幕で怒る顔が頭に浮かんだ。
貧乏な家計から何とか入学金と学費を払ってくれている。
俺も夜間の工事現場なんかでバイトをして補填はしているけれど、
親父が「俺が何とかしてやる」と言った夜には布団に潜り込んでどうすれば良いかわからなくなった。
そう、あの時俺は本当に大学に行きたかったんだろうか?
海洋生物の研究をしているこの学校で何をしたかったのか、今となっては良くわからない。
ただ、良くわからないから、何をしているのか良くわからないこの大学を選んだ。

周りを見回した。
隣にいる奴、確か二、三度声をかけたことがある。
真面目そうで気が弱そうなお坊ちゃん風の線の細い奴。
「おい、お前の用紙、ちょっと見せてくれや」
ありゃ、びっしり書き込まれているぞ。
「魚類の性転換について」
へえ、魚って性転換するのか?知らなかったなぁ。

その時に彼の向こう側の席の奴が俺の持っているそいつの用紙を横からむしり取るように奪いやがった。
「何しやがる!」
いきり立つ(ってその用紙は隣の彼のだけどな)俺をなだめるようにそいつは
「まあまあ、ちょっと借りるだけだよ」
と言いながら用紙の
「共同研究者欄」にいきなり自分の名前を書きやがった。
「何してるんだよ!」
俺はそう言ってその用紙を奪い返すと(隣の彼のだけどな)、勢い余って、その横に俺の名前を書き込んだ。

「君たち魚類の性転換のこと知ってるんですか?」
坊ちゃんが俺たちの顔を交互に見た。

「知ってるわけないだろ、俺らに教えろよ!共同研究者なんだしヨォ」
凸凹トリオはこうして生まれた。

めっちゃ幸運にも俺たちは超難関のそのゼミに合格した。
たまたま教授の研究テーマと俺たちの研究テーマが同じだったからだ。

教授のゼミは大学が保有する水族館の中にあった。
お坊ちゃんの向こう側に座っていたクロ(黒田)はスキューバの免許を持っていた。
お坊ちゃんは博学で面倒見が良かったが、体が弱くて海には潜れなかった。
俺は一念発起して3ヶ月でスキューバの免許を取得した。
クロと俺が採集担当、論文の製作はお坊ちゃん担当。

俺たちのゼミには教授以外にもう一人鬼軍曹がいた。
高校卒業後に教授と知り合って、そのままずっと教授に付かず離れず教授の職場に潜り込んで高卒学歴で研究を続けている強者だった。

鬼軍曹は本当に怖くて叩き上げで水族館のボスと言って良かった。他の職員は軍曹には頭が上らない。
鬼軍曹は高卒なのに必死で魚の研究を続けていた。
俺は自分を指導している人間に対して初めて「尊敬」という感情を覚えた。
それに高校までグレていたという軍曹になんだか親近感を覚えた。

一度だけ、軍曹が自分の仕事が手詰まりになって、俺たちに無理な仕事を振ってきたことがある。スケジュールがタイトで、それを手伝うと自分たちの研究も滞ってしまいそうだった。夜遅くまで研究室に残らなければならなかった。
三日目にまた仕事を押し付けられた時に、ついに一人が堪忍袋の緒を切った。
なんと、それはあのお坊ちゃんだった。
「あんたも指導員なら、僕らの研究の邪魔ばかりしないでくれ!」

ものすごくビビった。
でもお坊ちゃんの言葉は正論だった。
軍曹から張り手が飛び出すかと思ったが、坊ちゃんはビビリもせず、引きもしなかった。ありゃ、こいつ実はすごい大物なんじゃないか?
水族館にいる職員や学生に一気に噂が広まった。
あの軍曹に初めて楯突いた学生としてお坊ちゃんは伝説になった。

軍曹は表情を変えず
「そうだな無理を言いすぎたな」
と一言だけ言って怒りを沈めた。

卒業するときに卒業研究の発表会があった。
俺たちの研究は注目された。
お坊ちゃんはまだ世界で誰も発見できなかった魚の性転換を発表し、
クロは生まれたばかりの幼生の魚がどのようにして性転換をするかを発見、
そして俺は良く知られている性転換する魚の転換の仕組みを解明した。

俺はすっかり、この水族館や教授や鬼軍曹、そしてクロとお坊ちゃんのことが大好きになっていた。(恥ずかしくて言えなかったけどな)

卒業してすぐに俺は武者修行の旅に出た。日本中の水族館を働かせてもらいながら5年をかけて回った。

あれから20年が経って、俺は武者修行から戻ってこの新しい水族館に飼育の責任者として赴任してきた。
軍曹と教授からお祝いの手紙をもらった。
鬼軍曹は苦労していくつもの論文を書き上げ、高卒のまま博士号を取った。
クロは今は潜水用具の開発会社の社長になった。
そしてお坊ちゃんは、水族館で研究の続きをやらないかという教授と軍曹の誘いを蹴って、なんとグラフィックデザイナーになって自分の事務所を開いた。
(軍曹があんなに面食らっていたのは初めて見た)
そして俺は今日、水槽の中でサンタクロースの衣装を着て潜っている。
落ちこぼれだった俺は居場所を見つけた。

「メリークリスマス!」

水中から子供達に手を振った。
俺の目の前に真っ赤なポインセチアを振る子供達が微笑んでいた。

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