『運動』それ自体を否定してはならない。

社会運動は嫌われていると思う。

過激、批判的、煩い、愚か、自己主張的などなど、色々な言葉を耳にしてきた。そういう面がないとは言わない。でも、今日の政治・社会の状況を見た時に僕はもう運動にしか希望がないと思っている。

なぜなら、今の市民には政治に纏わるポジションに与えられたパワーを覆すだけのパワーが失われており、それを回復するのが運動だと思うからだ。ここでいうパワーとは綺麗に言えば「創りたい未来を実現する」ことであり、喧嘩っぽく言えば「自分たちの要求を通すこと」である。

多分、社会運動が嫌われているのは「自分たちの要求を通すこと」があまりに自己利益のために動いているように見えてしまっていることにあると思う。

しかし、社会運動で要求している自己利益とは本来公益に関わるものであるはずだ。それが自己利益のためになされているように映ってしまうのは、我々の価値観というフィルターがあらゆるものを個人主義的の捉え、その運動を必要とする人々への想像力を阻害するためだと思う。

「なぜ声を上げなければならないのか」

その回答への想像力が失われた時、自分自身の要求を通せていない不遇さからから、出る杭を叩くような感情が生まれてくることは人間だから仕方がない。

しかし、その感情に身を任せて運動というプロセスを否定するぐらいだったら、現在の社会構造を見直し、変革の力を高めた方が建設的だと思うのだ。

運動というプロセス自体を否定してしまうと市民が政治をよりよくするための道がひとつ閉ざされてしまう。コンテンツである要求内容の検討は促されても、その過程たる運動自体が否定されてはいけないと僕は思う。

だから、僕は全ての運動を尊重したい。

その過程に人々を突き動かした困難や痛みを大切にするために。

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