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「みんなで考える」方法

【さらっと読める記事ではないのでお時間ある時にお読みください】

「とりあえず話しましょう」

僕はこの言葉にずっと違和感があった。というのは自分で考える時間を取らずに、思考を相手に委ねている行為だと思っていたからだ。

自分の頭で考えられる人が増えない限り、民主主義は成立しないと考えていたし、今もそう考えている節はある。他方、デイビットボームが示した「思考とは集団的なもの」というコンセプトにも共感している。

思考とは個人的なものなのか集団的なものなのかをぼんやりと考えてきた。(というか思い浮かべてきた)ただ、このことについても世の中のあらゆる二元論的思考と同様、「どちらか」ではなく、「どちらも」であり、「場合による」ということだと思う。

とはいえ、このコロナ禍と言われるプロセスの中で少し整理できた部分もあり、この機会に吐き出してみようと思う。

僕が思うに「みんなで考える」には少なくともPhase1~3の3つの段階がある。

Phase1:思いつき大集合

この最初の段階ではそれぞの「思いつき」を持ち寄る。「思いつき」というのは心の中に現れるあらゆる事柄のことだ。「なんだかモヤモヤする」「もっとこうすればいいのに」突如横切る様々な内的体験を共有していく。ブレインストーミングとかアイデアだしと言われるものに近い形だと思うが、基本的にこの時点では単なる「思いつき」にすぎない。

個人的な理解でいうと「思いつき」と「アイデア」は違う。「思いつき」はただ心の中に浮かんでは消える、その都度その都度の閃きのようなもの。気づきと言ってもいい。

集団的思考のスキルがないと誰かが言った「思いつき」を否定したり、すぐに「根拠は?」と聞いて、相手が答えに窮してしまう。そんなことをしていたら「思いつき」に居場所を与えることができず、多様な声が包摂されないとても痩せ細った案に終わってしまうだろう。

もちろん、しかるべき批判に耐えられないようなアイデアは問題解決ができないものになってしまうが、出てくる芽をその場で叩き潰してしまうことは目に見えない大量の機会損失を生み出している。

生産性の名の下にアイデアを束ねるための時間的投資を行ってこないために損なわれているイノベーションがこの国には数限りなくあると思う。長期的に経済成長を促したいのであれば、金ではなく、アイデアに投資すべきだと考えている。

Phase2:「思いつき」束ね、「アイデア」に

ここまで「思いつき」の重要性を強調してきた。しかし、残念ながら大抵の場合、「思いつき」はそれ単体では価値を持たない。「思いつき」の連続体が一つの体系を作り、「問題を解決できる」ものになって初めて「アイデア」と呼べると思う。

例えば、「社会補償費が増大し、子どもたちに投資できていない現状」を課題としたときに、「社会保障費を削るために予防医療に力を入れよう」はまだ思いつきに過ぎない。「なぜ、予防医療に力を入れられていないのか?」「入れられているとしたらなぜ社会保障費が小さくならないのか?」そういう一つ一つの疑問に「思いつき」をあげていく。

そして、最終的に「思いつき」を整理した上で、最初の課題に対して結論を出す。例えば「社会保障費が増大しているのは高齢者のターミナルケアにかかる医療費の増大が原因。健康寿命を伸ばすことで、この医療費を削減できる可能性がある。しかし、健康にコミットするはずの保健所の数が人口あたり病院に対する割合と比較すると極めて少なく、積極的に予防医療に投資できていない。だから社会保障費の増大する中でも子どもたちに投資できる社会になるためには、予防医療に投資するために保健所にお金をかけるべき」となって初めて「アイデア」になると思う。

論理展開や統計的裏付け、このアイデアの成否についてはあくまで例させていただき、ここでは深く議論することは避けるが、Phase2ではこのようにたくさんの「思いつき」を束ね、問題解決に向けた結論として「アイデア」に仕上げていく過程を指す。

悲劇的なことに大抵のまちづくりワークショップはここで終わる。Phase1で終わることも少なくない。安心して欲しい、僕がやるやつも大抵1で終わっている。

しかし、本当の意味で対話が必要なのはここからだ。

Phase3:利害調整という統合

現実にはリソースは限られている。無限のリソースの中で、無限に活動はできない。「ヒト・モノ・カネ」、時間、情報、限られてものの中で決めて行かざるをえない。

例えば、僕は先ほどありったけの知識を総動員して、社会保障費を削り、子どもたちに投資するアイデアについて整理した。しかし、日本の国益を考えたときに北朝鮮拉致被害者問題や失業者への補償など様々な論点がある。

異なる価値観の人々が練り上げたアイデアと我々のアイデアを折り合わせて一つの計画に落とし込んで行かなくてはならない。もし、前向きなエンディングを迎えたければめんどくさくても次のようなプロセスを踏む必要がある。

統合し、順番を決め、分配を設計すること。

例えば、予防医療への投資、北朝鮮拉致被害者問題、失業者へのケア、どれが最も大事かと言われれば間違いなく割れると思う。だからこの場合、僕らが持たなくてはならない前提は「AもBも…、全て大事」というスタンスだ。

もし、私の考えが一番大事て、他の考えはいらない。という「A or B」的思考でものが考えられている限りは分断が深まるだけだ。

しかし、この「A and B and…」という考え方が多元的に存在することを受け入れるだけでは軸がなく、絶対に決められない。(そう、僕のことだ。)そこで「統合し、順番を決め、分配を設計すること。」が重要になる。

まず、一緒に進められるものはないかを検討する。例えば、予防医療への投資と合わせて、失業者へのメンタルヘルスを拡充することができるかもしれない。また、既存の失業者への補償制度をスリム化することでむしろ余力を生み出せるかもしれない。

また、時流も大切である。コロナ禍の中で外交の問題よりもまずは優先的に内部の課題に取り組むべきという捉え方もできるかもしれない。(逆にこれを機に国際社会の中で協調路線を明確に打ち出すパフォーマンスもあるかもしれない)

そうして、アイデアを統合し、順番をつけ、限られたリソースを分配する。最後の分配が重要なのは全てが0か1ではない。むしろ、そのグラデーションの中で判断されるべきだと思う。子どもか高齢者かではない。子どもと高齢者への重心をどの辺に落とし込むのかの問題だと思う。

そういう繊細な議論をするためには集団的思考がどういうものであるか。我々は如何にして、共に思考することができるのかを今日ほど学ばなくてはならない時代は過去なかったのではないだろうか?

いや、下手をすれば、今日、この集団的な思考プロセスを学んでこなかったからこそ問題が出てきているとすら言えるかもしれない。

結び

以上のことから見えてくるのは与党と同じくらい野党にも集団的思考スキルが必要であることだ。国会の機能不全の責任がまるで安倍政権だけにあるかのような物言いを続けているうちは政権交代なんてありえないし、この国は絶対に変わらない。

集団的思考は民主主義の条件であるとさえ考える。本当に民主主義を実践したければ、限られたリソースを国民のためにどう振り分けるべきかを考えて欲しいし、そもそもその利害調整こそが「政治」ではないだろうか?

そして、そんな野党を作り出したのは僕らだ。これ以上悪くならないために、伸び代だらけの政治システムをどこまで切り込んでいけるかが今日、僕らが取り組む課題だ。

NPOで活動する僕はまずアドボカシーを練り上げるところをやっていきたい。アドボカシーはここでいう「アイデア」のことだ。「アイデア」があればPhase3にいける。しかし、僕の手元にはまだ芽吹くのを待っている「思いつき」があるだけだ。

市民である僕たちはまず、Phase1を通じて、Phase2にいく必要がある。そして、Phase3を既存の政治システムの中で進めていく必要があるだろう。

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