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㊿三年前を思い返す

先週日曜、神保町へ行った際に買ったエリザベス・キューブラー・ロスという人の「死ぬ瞬間~死とその過程について」という本を読んでいる。原題は「On Death and Dying」で、1969年に出版されたものだという。

末期の患者に直接面接・取材し、死に直面した人間の心の動きを見つめていくキューブラー・ロス。

自分の命の終わりを知った人間が、否認・怒り・取り引き・抑鬱・受容という道を辿るという話は、今までに何度もここに書いてきた友達のことがあってから、様々な本を通じて知った。が、この心の流れを初めて世の中に教示したのがこの本であったことを今回初めて知った。


この本を読み進めることで、例えば 三年前に友達がなぜ急に明るい見通しを話し始めたりすることがあったのか…などという疑問が解けるような気がした。友達のそうした心の動きの意味は、当時でも本能的に感じる所ではあったように思うが、この本を読むことで考えの後押しをしてもらえたように感ずる。


今日は三年前に、友達が一年とちょっとのブランクを経て、僕に連絡をくれた特別な日だ。ただ三年前のあの日は土曜だったから、よりリアルにあの時のことを思い返すのは三日後の13日かもしれない。

友達とはきっかり一ヶ月間のやり取りを経た後で、全ての連絡が断絶された。その後、本人のものなのか他人のものなのか分からない「お印」が続いて行ったのだが、おそらくもう、普通に生活を続けている人間とやり取りを続けることなど、彼には出来なかったのではないか…と推察する。例え、彼があの後も生きていたのだとしても。

一つ線引きをするとしたら、それは2022年の秋頃から、翌2023年2月に掛けての辺りなのではないか・・・という気がしている。自分には友達からの意思の伝達としか思えなかった不思議な “カマキリ” の一件。彼の Twitterアカウントのフォローが6つに絞られたこと。彼の携帯電話の回線が解約されたこと。それらがその時期に集中している(Twitterのフォロー相手を6人に整理したのは、やはり友達からの意思表示とメッセージなのだ…という思いが今は強くなっている)。



友達と交わしたやり取りの中で、迂闊な言葉だったな…と思っている言葉がある。「愛を込めて」などという俗で安直な言葉を、結果的に交流の最後となった時期に使ったことをずっと覚えている。書いてはいけない言葉のような感覚はあったのに、そう書くことを自分は許した。友達がそのあとの電話で「私がどんな見た目の人でも良いんですか」という質問を投げ掛けてきた時、それは僕の安易な言葉への怒りだと感じた。怒りと言っては言い過ぎだったとしても、「諌める」という気持ちは絶対にあっただろうと思う。



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