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大林宜彦監督 野のなななのか


野のなななのか


凄まじい映画を見てしまったので、言葉にはならないことを言葉にしてみたい。
大林宜彦監督「野のなななのか」。

この映画をどんなに語ってもネタバレにはならないことを予め書いておきたい。観た人にしか伝わらない映画。

私の身体感覚から言葉にしてみる。
とにかく観ているのが辛い。椅子の硬さとかではなく、
スクリーンから醸し出される全てが辛い。

セリフは対話ではなく、役者のモノローグ。まるで見てはいけない朗読劇に巻き込まれたかのよう。
一体、この映画には終わりがくるのかが全く予測がつかない。そのカオスぶりが天国にいるのか、地獄にいるのか、地獄の辛さってこんな感じ?という感じ。
ついに、終わりなどないのだとあきらめ、「大林宜彦ってバカなの?」って心の中で叫んだら登場人物がまるで私の心を見透かしたかのように、「私って、ばかなのかしら」と宣う。
登場人物の誰が生きていて、誰が死んでいるのかわからない。
かろうじて、止まった時間の中で繰り広げられる物語の関係性がようやくつかみかけたところで、突如現れた一人の男に、また私の心の中で叫ぶ。
「だれ!?」
すると次のシーンで、自転車に乗った女の子が「だ~れかな?」と鼻歌をうたいながら走り抜けてゆく。
奇をてらったかのようなシーンもすべて、観客の心を織り込み済みなのだ。

物語は、北海道芦別市。3.11 の14:46で時間が止まったことと、92歳で亡くなった老人の時間が止まったことをシンクロさせるところから始まる。
亡くなった老人の葬儀から、彼の人生が断片的に彷彿してくる。あの世とこの世の間の時間。
親族たちが老人の思い出話を断片的に重ねるのだが、その話に出てくる人生の断片が断片のまま、妄想か記憶違いかもわからず、時間も空間もそっちのけで現れてくる。

この老人はかつて第二次世界大戦のとき、樺太侵攻で兵隊に召集される。
それは、1945年8月11日、ソ連が樺太を空爆したことで、8月14日に召集され、8月15日の玉音放送を出奔する港で聞いたのかどうかはわからないが樺太の経験がおぞましく、その経験を記憶のかなたに押し込め、復員後、町医者となる。
私は、樺太侵攻のことを恥ずかしながら全く知らなかった。
戦争は8月15日に終わらず、まだ続いていた。原爆が落とされた8月9日に旧ソ連が北海道を乗っ取ろうとして、11日に樺太を空爆したことなど知らなかった。
それがあの世とこの世のはざまに漂う老人の亡霊のような存在が訴えかけてくるのだ。
そして、季節は廻り、なななのか、がやってくる。
なななのか。
七七日。四十九日のことだった。
なななのかの野辺送り。
美しい光のなかで時間が動き出す。
全編が、理不尽な災いに命を落とさざるを得なかった魂へのレクイエム。

ということで、終わってみたら3時間!
先入観を持たずに見始めたのだけど、3時間は苦痛でした。(笑)

でも、戦争三部作、ほかの2作も見てみたい。
今度は心して。


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