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本当の「一生モノ」とは何か。

「一生モノ」とはよくいうけれど、本当の一生モノとは、実は意外と思いがけないものだったりする。
「一生モノだ、思いきって買おう」なんて大枚をはたいたモノに限って、簡単に手放したりする。

例えば、メゾンブランドのバッグ。
私はバブル崩壊直後に大学生だったので、まだまだ日本にはブランドものが溢れていた。シャネル、ヴィトン、プラダ、今にしてみれば、なぜ大学生があんなものを持っていたんだろうと思うけれど、バイト代をつぎ込んで色々買ったものだ。「一生モノだから」と言っては。
社会人になってからも、海外へ行くと何かしらブランドのものを買わなければ気が済まないというおかしな習慣が染みついていて、40代までそれが抜けなかった。
鎌倉の湿気にやられ、大事にしていたつもりだったシャネルのバッグにカビを生やして、以来、もう二度と高価なバッグなんて買わないぞと心に決めた。だいたい、もう革のバッグが重くて持てない。

昨日は学生時代に買った一澤帆布のトートバッグで仕事に行った。 
あれから30年。まだまだ丈夫で、え、こっちが一生モノだったかとびっくりする。

器もダメ、割れる可能性があるから、一生モノになるかどうかはわからない。
貧乏性だから大切な京焼は後生大事に仕舞い込んで、使い勝手の良いル・クルーゼばかり食卓に並べている。
大事だと思っているものは、下手したら「一生(使わずに持ってる)モノ」にしかねない。

新婚時代に、東急ハンズで「ま、これでいいか」と購入したヘンケルスのキッチンバサミ。洗濯物を放り込むプラスチックのかご。全然お気に入りアイテムでもなんでもないのに、20年以上使っている。私にとって、これらが「一生モノ」なのかと思うと、笑えてくる。

友達も、同じようなもんだと気づく。

で、である。
人間関係も、同じようなものだなあとこのところ、つくづく思うのだ。
この人とは一生続くだろう、なんて思っていた友達は、気付いたらもう近くにいなかったりする。

そもそも、「この人とは一生友達でいたい」なんて意識的に思うこと自体が、一生の付き合いにはならないことを暗示しているのではないか。とすら思う。

だいたい、幼なじみに対して、「一生友達でいようね」なんて言ったことも思ったこともない。それでも再会すれば自然なものだ。

なんとなく一緒にいて楽だし、特に干渉もし合わないような、そんな人が、実は一生モノなんだろうと、このトシにして薄々気付きはじめた。

ただし、誰彼、ひととき交わった思い出そのものは、「一生モノ」だと思う。
回顧するかどうかは、別として。

ブルース・リーのことば、“Be water , my friend”。
そうそう、水のように、変幻自在に。川の流れに身を任せて生きたらいいんだよねと、梅雨入り前に思うのだった。

*写真は代官山のカフェ・ミケランジェロのプリン。趣ある建物は改修工事に入るそう。こういう、スタンダードなおいしいものこそ、一生モノなのかもしれない。

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