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何気ない日々を大切にできる有り難さ

広島に原爆が投下されて75年目の8月6日。当時、今の息子の歳だった方は、生きておられても84歳。真実、戦争の惨禍を味わった人は、年々この世を卒業されていく。
 
75年前の広島で、晴れた夏の朝、56万人のかけがえのない一人一人の人たちの「何気ない日々」が、人間の手で奪われた。
 
そうでなくたって、自然の前に私たち人間はちっぽけで無力で、大災害にはあっさり押し流されてしまう、そんな奇跡のような有り難い日常。
 
誰一人として、明日の朝も今日と同じように何気ない1日が訪れるとは限らない。
 
それを、何のために、誰のために、人間同士が奪い合うべきであろうか?
 
私たちは、知恵振り絞って、助け合い支え合わなくては、そもそも生きていかれないのに。
 
今、私たちは、日本という国に生まれ育っているだけで、どれだけ過去の人々、他地域の人々に支えられて恵まれた日々を送っているかということを、よく知らなくてはいけない。
 
そして、地球という最大で唯一の資源を食いつぶして、未来の人たちの何気ない日々を奪って生きていることも、よく知らなくてはいけない。
 
何気ない今日をどう創り、どう味わうか?
そんな日々をどう積み重ねるか?
 
それが人生。
 
ならば、この日々を大切に味わいながら、今と未来が一つにつながる在り方を、創り出して生きたい。
 
日々、人は育ち変わっていく。
今夜もまた、雑巾片手にあちこちを拭く父と子。
これが私たちのかけがえのない幸せな今。
 
コロナ「禍」と言われる今だけれど、これは天災なのか?人災なのか?
 
どこで、誰に、どんな「禍」が起きているのかに、きちんと目を凝らし耳を澄まして、正しく把握し、支え合う必要がある。
 
そもそも支え合わなくては生きられない存在の私たち人間が、個別バラバラに互いを責め合い、困りごとに目を瞑ったら、そこにこそ「禍」が生まれる。
 
私たちは「惨禍」を自ら生み出してはいけない。
 
大切なのは、何が幸せであり、何が手放してはならないかけがえのないものなのかを、ちゃんと一人一人自分の頭で考えて行動すること。
 
そして、互いに分かち合い支え合う勇気と思いやりをもつこと。
 
土用があけて、立秋を迎えます。秋の始まりです。
 
足元の土を耕し、食べ物をつくり、水と燃料を確保し、分かち合いと支え合いを紡ぐこと。
 
そうして、ただただ支えてもらうばかりの人生から、自立脱却していくこと。
 
その中で、持続可能な生き方をつなぐ方法を、次の世代と一緒に模索する。あるもので豊かさを受け取れる方法を、ともに味わう。
 
そういうところに向かえるように、ささやかな何気ない日々を積み重ねていく秋にします。
 
私たちが、手元の貨幣的財産の大部分を分不相応なおうちと山と田畑に変えたのは、本当の意味で足元の生きていく土台を整えて、家族と仲間とで互いの人生を支え合っていける場を確保したかったから。
 
何があってもなくても、自分自身も訪れる仲間も、安心して泣いたり笑ったりしながら、ただ自分を生きられる場所を大切にしたかったから。
 
人間にとって、本当にもっとも大切な最大の財産は、自分自身の命の時間と、行動できる身体と感じられる心です。
 
生きていられる奇跡があるから、今日も色々と感じ味わえる。
 
そう、だから明日も家族で雑巾タイムを楽しみます。
私たちは、ゆっくりしか生きられない。
だから、ゆっくりでも笑顔でできることを一つずつ重ねます。この日々に感謝して。

えな山里楽耕&Tellus Ludensの活動を通じて、心豊かな未来をつくるYUMIKOの活動を応援いただければ幸いです。