現場に行かないということ

2021年7月12日、ひっそりとTwitterをやめた。いまは名残惜しくてアカウントは消せなかったけど、ログアウトした。理由は色々とあるけど、やっぱりこのご時世で地方在住でもないのに現場に行かないオタクとしてTwitterをやることに疲れたから、というのが最大のところである。

現場にいくオタクのことを忌み嫌うわけではない。けれども、このパンデミック下において、国がどう考えてもクソである中で、中身の良し悪しではなく、一人ひとりが自分の言葉と頭で考えなくちゃいけない機会が増えたように思う。そうなったとき、わたしの考えは、いま自分がたのしくてハッピーな「私益」より感染拡大防止のためにできるだけのことをやろうという意味での「公益」のほうに重きをおいていた。

オタクはいい意味で強欲でなければやっていられないから、「公益」より「私益」を重んじる人のほうが多数派のようにわたしの目にはみえた。特に都市部在住で、我慢できない距離に娯楽があればなおさらそうだろうと思う。それは仕方ない、人間だし。

けれども、かくいうわたしも人間なので、現場にワクワクする素朴な感情の発露(くれぐれも発露そのものを責めることはしたくない)に触れるたびに、いちいち傷付いていた。現場に行きたくないとか、行かなくてもハッピーでいられるとか、そういう理由で現場に行っていないわけではなく、いまは「公益」を重んじなくてはいけないと思うから、我慢しているだけなのだ。わたしだってほんとうは「対策していれば大丈夫、自分は重症化のリスクもほぼないし」「仕事で散々外に出て人と接触してるのに、現場がダメな理由がなくない?」等々というスタンスで有観客コンサートに行ったりしたいけど、「公益」を考えて一生懸命我慢しているだけなのだ。だからいちいち傷付いた。それも仕方ない、人間だし。

わたしは、一人ひとりが、常識の範囲内で「公益」を重視できなくなったときに待っているのは、多分おそらく、「私益」を享受することへの制限、という意味での、私権制限だろうと思っている。それを、法的根拠なく行うことに違和感のない人々が為政者にいる(少し前に、某大臣が、銀行から取引先に圧力をかけさせようとした件なんて、その最たるところだな、と思う)。別に、コンサートに行ったりすることが常識の範囲を逸脱した「私益」の追求だと言いたいわけでは決してない。人間が生きてゆくために、文化やエンターテイメントは必要だ。ただ、わたしは自分自身の行動については、上に述べたとおりに考えていた。いつかわたしの暮らすこの国で、私権制限が行われるようになったとき、そういう仕組み作りに加担したと後悔するような選択を、将来の自分のためにしたくなかった。

Twitterでは、コンサートに行ったりするオタクが素朴な感情の発露としてワクワクや葛藤を呟くように、コンサートに行ったりしないオタクの素朴な感情の発露や疑問として、こういったことをかいつまんで呟くようにしていた。

でもそれを行うにつれて、ひどく疲れてしまうことが増えた。色々と考えたけれど、モヤモヤし、ときにはため息をついて、すきでいたいものごとやひとを嫌いになってまで、Twitterを続けたいと思わない、というのがわたしの結論だった。まあたぶん、わたしの素朴な感情の発露や疑問そのものが、自分もまわりも疲れさせるような性質のものだったから、自業自得だと言われたら、それまでのことなのだけれども。

2021年7月12日、ひっそりとTwitterをやめた。いまは名残惜しくてアカウントは消せなかったけど、ログアウトした。名残惜しくなくなったら、いつかアカウントも消すかもしれない。noteはながらく放置していて、もう誰も見ていないとおもうから、油断してとっても素直に、あけすけに書いてしまった。こういうところがつくづく詰めが甘くて、わたしのかわいいところです。

最後になったけれど、いつかまたどこかでお会いできたら、とてもとても嬉しい、けれど、いまはさようなら。