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月組公演『グレート・ギャツビー』配信を見てのつぶやき

 遠征予定だったが夢叶わず、配信を視聴した。
 見る人で受ける印象や感想が違うのが顕著な作品なので、自分の感想をまとめておく。
 実際に観劇したら、また違う感想になるかもしれない。その日が待ち遠しい。


・ギャツビー:月城かなと

 ギャツビーは難しい役だろうな、と思っていた。
 原作を読んだとき、私には結局最後までギャツビーがどんな人なのかいまいち掴めなかったのだ。
 それが魅力でもあったが、演じるとなると何通りもあるギャツビー像の中から、ひとつ「これです」と観客に提示する必要がある。そこに行き着くまでの作業は大変なものではないかと推察した。

 観終わって、やはりギャツビーは難しい役だな、と思った。
 それは前述のような意味合いではなく、もうただただ、舞台上のギャツビーがあまりにもギャツビーで、月城かなと以外のギャツビーがまったく考えられなくなってしまったのだ。
 説得力がとにかくすごかった。価値観の違う年代、国、世界観であるのに、見ていて言動に違和感がない。何故か納得させられてしまう。この人ならそうするだろう、とギャツビーをただギャツビーとしてすんなりと受け入れてしまう。
 理解し尽くせないからこそもっとこの人を見ていたい、という魅力があった。

 後半につれては、彼の心を紐解いていく感覚がして、これは舞台版ならではの面白さだった。(映画は未視聴だからわからないが…)一重に、月城かなとさんの演技の賜物だろう。『グレート・ギャツビー』の世界に一歩近づけた気がして、嬉しかった。
 原作を読んだ際、置いてけぼり感があった墓地の場面。ギャツビーの心に少しでも触れられていると、これほどまでに胸に迫る場面になるのかと驚いた。
 葬儀の参列者はたった二人だったが、その二人を通して彼に思いを馳せる私もまた、その列に加わっている気がした。


・デイジー:海乃美月

 何よりも驚いたのは、デイジーだった。
 原作は一度読んだだけだが、ギャツビーが追い求める女性としてしか描かれていなかった印象がある。現実でありながら夢のように実体のない人。誰のことも愛さない人。
 海乃美月さんのデイジーは違った。そこにいた。一人の女性として。
 まさか『グレート・ギャツビー』を、ギャツビーでもニックでもなく、デイジーを通して見ることになるとは思っていなかった。

 「この子が生まれた時、あたし思ったの。きれいなお馬鹿さんに育てようって。」という台詞。
 最初、すごくこの時代らしい台詞だと思ったし、面白いとも思った。簡単にスルーできる類の台詞ではないから、ずっと心のどこかで引っかかって、その場限りの台詞になっていないところがすごい。
 この台詞を、デイジーが誰に言うでもなく、自分に語りかけるように口にしていたのが印象的だ。この台詞は周りの人たちに聞こえているのか、初見ではわからなかった。聞こえていない、と感じた。

 5年前のデイジーが『女の子はバカな方がいい』を歌いだしたとき、デイジーが私の中に飛び込んできた感覚があった。
 この歌は、賢い女の子にしか歌えない歌だ。愛し愛されることを知っていて、自分の意思があって、その意思が何者かにねじ伏せられようとしているとわかっている女の子。「馬鹿」になることによって、世界に復讐しようとしているようにも思えた。
 第3場のあの台詞。デイジーはたぶん、あの痛みと苦しみを、娘のパメラに味わわせるつもりはないのだと思った。
 幸せであることより、幸せだと思えることに重きを置いているのだ。デイジー自身が幸せを感じていないから。パメラが「女の子でよかった」のは、自分の人生のやり直しをパメラに託しているからなのかもしれない。
 「幸せ」の選択肢が、デイジーの中で驚くほど少ないことが哀しい。幸せは人の数だけ、時間の数だけあるものなのに。

 ゴルフ場の場面でデイジーが口にした「お願いよ、やめて!」「やっぱりダメよ」を思い出すと、今でもつらい。
 彼女の人生のあらゆる場面で何度も口にし、何度も胸の内で叫んできた言葉のように聞こえた。

 デイジーは周りの人たちに幸せであれと願われて、不幸になっていった。
 お母様やヒルダ、ギャツビーやトム。彼女への愛のために、自分の幸せのためにみんながしたことは全部、デイジーを不幸にしたんだな、と墓地でバラを投げるデイジーを見て思った。
 デイジーは死んでいた。

 彼女はもう王女になる夢は見ないし、「気紛れデイジー」なんて呼ばれないし、『瀕死の白鳥』を踊ることも、アンナ・パブロワのバレエをすてきだと思うこともないだろう。


・トム:鳳月杏

 原作でのトムのイメージは、すべてを計算している人。あらゆることが自分の都合のいい結果になるように人を操れる人。

 2022年版のトムから一番感じたのは、「不安」だった。
 まず、『アメリカの貴族』の歌詞自体が不安という感情から歌われているように聞こえた。
 あまりにも露骨な選民思想的な歌詞だし、前後のトムの台詞からも、いつか誰かから追い込まれ、害されるのではないかという強い不安を感じているのだな、と思った。それに気づいていないというより、気づかないようにしているようだった。
 今まで上手に生きすぎたせいで、逆に迷子のようになっている人だと思った。
 かなり愛情に飢えていて、愛することも愛されることも知らない。金や力があるが故に、さらにそれが深刻になっていってしまっているようだった。
 愛は金で買えると思っていて、本当の愛には気づけないタイプ。デイジーのことを愛しているのに、自分がデイジーを愛していることには生涯気づかないのではないかと想像したりする。
 面白い。すごく人間味のあるトムだった。

 『神は見ている』のトムは圧巻だった。あのナンバーを聴きながら、心底トムが鳳月杏さんでよかったと思った。生身の人間の脆さと強かさを感じた。
 人間は強かだ。だから哀しいし、怒りを覚えるし、美しいし、愛おしい。
 第10場、トムは裁かれる側ではなく、裁く側に身を置いているのが面白い。妻の罪を突然現れた横槍に被せることは、彼にとってはごく自然で正しいことなのだ。単なる保身というだけではなく、そう考える道しか用意されてこなかった人生だったんだな、と思う。
 それが私には少し、哀しく、寂しく思えた。

 彼はこれからも自分の信ずるままに生きていくのだろう。
 でも、トムが優しく倫理観に溢れた夫になった日には気持ち悪くて仕方ないから、それでいい気がしてきた。

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