文字のデザインについて
これは designing plus nine Advent Calendar 2023 12日目の記事です。
文字の面白さ
タイトルを「文字のデザインについて」とさせていただいたが、残念ながら文字のデフォルメやフォントについて言及しようというわけではない。僕が論じようとしているのは、世界中に存在する文字がどのようにデザインされてきて、それによって文字というものと文化・美術がどのように結びついてきたかについてである。文字をどうデザインするか、ではなくて文字がどうデザインされているか、である。
現代で使われている文字は、もう絵文字といった原始的形態をとらない事が多い。(多い、と言うことはまだ絵文字の形を維持する言語があるということでもある。下はその一例のトンパ文字。)
しかしながら、文字がその原始的形態から離れてただの記号となってからも、文字は「美しさ」と結び付けられ、さらには頻繁にアートの対象となる存在である。その一つの原因として文字が意味を持ちがちであることが挙げられる。そもそもアートもただの図形と線と色のコントラストの集合体に意味も見出すものであるから、文字とはその性質を同にしており、相性が良いのだ。ただ、ここでは「デザイン」ということで、文字がいかにその機能と美しさを両立した存在であり、どのように文字を扱うことがそれを活かすことにつながるのかについて考えたい。
近年の「デザイン」では文字ではなく絵や抽象的なシンボルを用いて直接心に訴えかけようとする手法が多く見られるように感じる。が、もう一度ここで強調しておきたいのは、文字こそ情報を伝達するためにデザインされてきた究極のシンボルであるということである。文字はそれ自体で既に美しいのだ、と。
文字の分類
日本語は漢字・ひらがな・カタカナと珍しい3種類の文字を取り合わせた奇怪な表記法をとるが、漢字とひらがな・カタカナは明らかにその根本的な性質を異にする。また、日本語でよく使われる文字はそれだけではない。ローマ字やアラビア数字もよく見る文字の一つである。
だが、例えばカタカナとアラビア数字と漢字はそれぞれで全く違う性質を持っている。カタカナは音しか表していないが、アラビア数字はシンボル的な意味を持ち、漢字は叙述的な意味を持つ。
もちろん文字の分類に諸説はあるが、今回はその中で最もわかりやすくて納得しやすいものを採用しようと思う。まずは、文字全体を大きく表意文字と表音文字に分ける。ただ、表意文字と言っても、シンボル的な1文字=1つの意味に対応しているものと1文字や1つの単語や形態素と対応(要するに発音とコネクションがある)しているものがある。後者を区別して表語文字と呼ぶ。
表音文字のほうが、現代の言語にはおなじみのものが多いだろう。我らがひらがなが代表する音節文字は、子音+母音といった1つのかたまりで1つの文字を構成する。
そして最後が、音素文字(アルファベット)である。やっといつものラテン文字だ、と思ったそこのあなた。アルファベットにも分類がある。狭義のアルファベットは「子音と母音を表す文字が両方あること」が条件なのである。
一方で、まず母音を表記せず子音だけで表記するタイプがアブジャドである。このタイプの言語は学習者にわかりやすいようだいたい母音の表記を表す点とかが後付けされているが、いざ現地の何かを見るとどこにも母音がない。単語と文法を知らないと正確に読むのはまず難しい文字で、文字だけかじってご満悦になる僕の天敵である。
そして東南アジアの文字に多い(気がする)アブギダがラストだ。これは基本が子音文字だけで、上下に記号を付加して母音を表す。サンスクリットがこのタイプだったせいであらかたの仏教国がそれを参考にして文字を作ってしまったのが東南アジアにこのタイプが多い原因である。この地域の文字は見た目も超魅力的なものが多い。
もちろん、どれに分類するか難しい文字もある。韓国語で使われているハングルがその典型である。
デザインされた文字
文字が面白く、見ていて楽しいのは、文字のその様々な背景を反映したデザイン性のおかげである。そして、その文字はさらに字体やカリグラフィによってその魅力を増大させる。
一つ目の要素は歴史である。例えば、ヒンディー語の表記などに用いられるデーヴァナーガリーは元がブラーフミー文字だと言われていて、時代と共にそれが装飾されたり複雑になったりすることで成立してきた。時間とともに姿を変えてきた文字が今の形になったのには、必ず歴史の長い流れが裏に流れているのである。先人たちの美意識や思想が文字には表れている。
第二に、文化だ。実は、文字の形はその土地の気候や植生といったものに大きく影響されている。例えば、暖かい地域では文字をヤシの葉に書くことが多かったために丸みを帯びた文字の形をしていることが多い。南インドのタミル語、ミャンマーのビルマ語、スリランカのシンハラ語などが典型で、漏れなくうねうねしている。
三つ目は、その意味である。文字には、その文字が本来表している以上のものを表すというシンボル性が備わることがある。もとから表意文字である漢字やヒエログリフのような文字はもちろん、音素文字であるアルファベットさえ、である。例えば、AやZ・Xのようなラテン文字にはその文字が表す音素以上の何かを感じることが出来るだろう、と言ったらわかりやすいだろうか。イーロンマスクも何かをXに感じたのだろう。
四つ目は、その構造である。文字は、さまざまに複雑な構造をしているように見えて実はそれをデイリーに使っている人から見ればある程度見分けるために特徴というものをつかんでいる。多少崩したり、デフォルメしたりしてもその言語を母語としている人ならわかるのはそのためである。この特性は、カリグラフィやフォントといった文字をさらにデザインするときに重要なものとなってくる。
文字の書き方
見てきた通り、文字はみなその歴史・文化を背景にデザインされてきたものであり、それをさらに美しくor見やすくor書きやすくするために様々にデザインされている。それが表れているのが書き方(パソコンで打ち込むならばフォント)である。
繋げて書く文字は、そのデザイン性が他の文字に比べて際立ってエレガントさを引き立たせる。アラビア文字やモンゴル文字などは元から繋げて書くタイプの文字であるため、それが特に顕著に表れる。
もともとが繋げて書く性質を持っていなくても、書く上で繋がっていることはペンを置かずに書き続けることが出来ることに他ならない。ラテン文字の筆記体や日本の行書体などはその利便性から生まれたものだが、同時に上に示したような美しさを追求して進化してきた。
逆に、ずっしりとした重厚感を持たせるために装飾をつけたり分厚い線を使用したりすることで独特の魅力を持つ書き方もある。元から繋げて書く文字にはマネ出来ないやり方だ。
あえて昔の字体を使ったり、それを彷彿とさせる書き方をすることは、
文字の裏にある歴史や伝統を思い起こさせる有効な方法だ。
近年のトレンドは、タイ語のゴシック体で見たように、文字の特徴だけを取り出して絵やシンボルのように書くことな気がする。
文字を愛そう
最近は、何事も明確に定義することを嫌う気がする。みんな違ってみんな良いよね、の延長なのだろうか、金子みすゞも急に墓から起き上がって「いやみんな違ってみんな良いって言ったけどみんな違うってことを隠せとは言うてないねんけど」と言い出すことだろう。
言葉にすると、現象が明確に定義されてしまう。意味を言葉で表さなければならなくなってしまう。「はっきり言わなくたっていいじゃない、相手が傷つくかもしれない」「言葉で定義できないこともあるよね」「一つの言葉で表現されることも、皆ほんとは違うよね」。すると、言葉を書き表す文字も、結果的に忌避されるようになる。最低限の文字だけにして、それも絵やシンボルとして溶け込ませようとする。
人間にとって、文字は素晴らしい発明であった。多くの人に、自分の子孫に、後世の人に、自分の言ったことやったこと考えたことを伝える。そのために作り上げられ、現代まで練り上げられた知と美の結晶である。なのになぜ、それをかなぐり捨ててラスコー壁画に戻ろうとするのだろうか。歴史は繰り返す、とは誰が言った言葉なのか知らないが、まさかそれを初めて言った人もそんな大きなサイクルで人類が歴史を繰り返したいとは思いもしなかっただろう。
人類は、伝える営みをやめてはいけない、と思う。それは、人類がここまで歩んできた道のりそのものであり、ここまで繁栄した1つの理由でもあるからである。文字から逃げるのではなく、言葉から逃げるのではなく、向き合って洗練させて行くのが我々の仕事ではないだろうか。
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