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夜の夢こそまこと

  • この物語で書かれている「探偵小説史」は創作のため、史実と異なる部分が多く含まれています。

  • この物語において『殺してでもほしい本』のとある登場人物における重要な秘密が出てきます。

  • この物語は資料紛失等により「一部省略」されたまま発表しています。

◆開封されるプロローグ 

  ご遺族の方に案内されるまま、書斎へ通され、まず驚いたのがその本の多さと煩雑さであった。しかも、ざっと見る限り全てが古典ミステリーかそれに関する書籍だ。
「本格ミステリーの生みの親、エドガー・アラン・ポー」
「オペラ座の怪人、ガストン・ルルー」
「密室の帝王、ジョン・ディクスン・カー」
「ミステリーの女王、アガサ・クリスティ」
 当然、シャーロック・ホームズのコナン・ドイルに、アルセーヌ・ルパンのモーリス・ルブラン。
もちろん金田一耕助の横溝正史も、明智小五郎の江戸川乱歩も。実に壮観だ。確かに壮観だが……。
「この本は、ご祖父様の蔵書を、今回亡くなられたご主人様が受け継いだもの、ということですね? これ程の蔵書なら、もしかしたら価値のある希少本もあるかもしれませんね。」
 ミステリー小説専門の古書店を経営していることもあり、こういった遺品処理は初めてではない。その時はいつもこの問いかけをする事にしている。
 幾らぐらいになりそうかと喰らいつく人。
 思い出の品に値段を付けられたような、複雑な感情を心にしまい込む人。
 いくらでもいいから、さっさと持っていってくれという無関心な人。実にさまざまだ。
 そして、その反応から、亡くなられた方のおおよその人生も見えてくる。
「主人が祖父から受け継いだ持ち物なので、どうして良いかわからず、その価値がわかる方に引き取ってもらえれば、天国の祖父も喜んでくれると思いまして。」
「そうですね。ご主人様は、これらのご祖父様から受け継いだ本を読まれていたのでしょうか?」
「いえ。この部屋に入ることはほとんどありませんでした。ただ祖父から受け継いだものなので捨ててしまうわけにも行かず。そのまま部屋ごと閉ざしてありました。」
 なるほど。タイムカプセルのように保管されていたのか。だが、惜しむらくは亡くなられたご祖父様は蔵書家というよりは読書家だったようだ。どれも初版ものが多かったが、残念ながら本の保存状況は良いとはいえなかった。多くは平積みで、ヤケ・スレがあり、何より栞を挿むことをしない方だったらしく、本の角を三角に織り込んだドッグイヤーが多かった。個人的に興味のある本は多かったが、残念なことに商品として高値で売るには細いマニア相手に営業をかけることとなりそうだ。値が付きそうなものは正直少ないだろう。ただ、本棚に鎮座した平凡社の『江戸川乱歩全集』を除いては。
 
 ガラス戸ケースに守られ、本棚の一列を独占するように収まった平凡社の『江戸川乱歩全集』は、他の「謎」を貪るように読みつぶされた本の森の中では異例で、乱歩全集だけパラフィン紙に包まれて、一つ一つ丁寧に保存されていた。いや、展示されていたと言うべきか。
「これは見事ですね。ご祖父様は江戸川乱歩がお好きだったようですね。」
「ええ。祖父は江戸川乱歩の同じ本を何冊も持っていたようで、その日の気分で、まるでお守りのようにどこにでも持って行くような人でした。出かける時に江戸川乱歩の本を持ってくるのを忘れたと、わざわざ取りに帰った事もあるくらいです。」
 ふふっと何かを思い出したかのようにご婦人は答えた。
「そうですか。奥様も乱歩を読まれましたか?」
「とんでもない。わたくしはそのようなものは……。」
 
 『そのようなもの』
 
 無理もない。「ミステリー」が「推理小説」と呼ばれていた時代の、さらに前の「探偵小説」と呼ばれていた頃は、殺すだの、殺されるだのを書いた書物を読むこと自体が不謹慎極まりないものだった。雑誌の世界でも「不健全派」などと呼ばれていたほどで、電車の中で広げるには憚られるような、一人でこっそり隠れて読むような本だったのだ。ご婦人はご祖父様の趣味を否定こそしないものの、あまり良い趣味とは思っていないのも、世代的に無理はない。だがことばの端々からご祖父・ご主人を愛していたことを感じ取れたことは嬉しかった。
「拝見しても?」
「ええ、どうぞ。」
 僕は白手袋をはめ、ゆっくりと硝子戸を開けて中の本を手に取る。やはりどれも新品同様だ。多分未読。第十三巻の付録である発刊当日に発禁処分となった『犯罪図鑑』 はないが、それでも僕はこれほどまでの美品を今までに見たことはなかった。先程、「どこにでも持って行く」といった乱歩は、おそらく持っていく用、もしくは読む用が別にあったのだろう。この棚の全集は指一つ触れていないぐらいの美品だ。いうなれば、『読書家の唯一の蔵書』といったところか。
 
 ひと通り簡易的に査定をおこない、残念ながら保存状況により値がつかない本が多いことを伝え、その中でもこの乱歩全集はかなりの高値が期待できる事も正直に伝えた。
 ご婦人は喜ぶでもなく、どちらかというと懐かしむかのように、やや憂いをおびた目で全集を眺めていた。
「あれ、これは『The Red Redmaynes』(赤毛のレドメイン家)の原書ですね。随分と読み潰されているな。」
 丁寧に展示されている乱歩全集に混ざって、そこに英語で書かれたイーデン・フィルポッツ作の『赤毛のレドメイン家』の原書が一冊、明らかに他の本とは異なる、何度も読み潰された状況で保管されていた。奥付をみようと裏を返すとそこに知る人は知る有名な書き込みがあった。

 『うつし世はゆめ、夜の夢こそまこと 江戸川乱歩』

 「なるほど。これは確かにすごい。まさかこんなところに『うつしよ』があるなんて。ほら、ご覧ください。ここです」とゆっくりご婦人に本を手渡した。
「これは?」
「江戸川乱歩の直筆サインです。乱歩はいつもサインにこのことばを残しています。とはいっても、乱歩はあちこちでこのサインをしているので希少価値はそれほどないのですが、それでも筆跡からしておそらくこのサインも本人のものでしょう。『赤毛のレドメイン家』の英語原書に書いてもらった乱歩のサインとは、なかなか渋い。マニア垂涎の価値があることは間違いないでしょう。……しかし何故このような物が?」

◆展開されるキャラクター

 7月の中旬。そろそろ街も夏休みを迎えた子供たちで賑わいを見せ始めそうな初夏の日。赤信号で車が止まる度に、何度もマサキの携帯電話にコールをしているのだが、しばらく鳴ったあとに留守番電話録音サービスになってしまう。なかなか連絡が取れやしない。メッセージを録音せずに電話を切った。まったく、やれやれだ。妻のエツコに連絡しても、まだマサキは来ていないという。来客用の駐車場は確保しておいたが、その場所を伝えていなかった。メールでは少し説明しづらい位置なので何度も電話をしても出なかったが、やっと捕まえた。
「どうした、ジュン。」
「どうした、じゃないよ。電話にでろよ。メールは読んだ? 僕は仕事で遅れるけれど、まだ家についていないのか?」
「公園で一休みしている。」
「公園で一休み? 今日は車じゃないのか?」
「中学生のお誕生会でもあるまいし、飲むためのパーティに誘われたのに車で来いと?」
 何が誘われた、だよ。僕とエツコとの結婚記念日に勝手に入り込んできたくせに。
「好きなだけ飲んでいいから今夜は歩いて帰れ。」
 やっぱり邪魔しにきたとしか思えない。 勿体ぶったマサキの声を途中で遮って本題に入った。
「とにかく、僕は今仕事上がりで本を積んでいるから少し遅れる。先に飲んでいて構わないから。車じゃないなら駐車場はどうでもいいよね?」
「はいよー。酒があるなら帰って来なくてもいいよ。誰も文句は言わないからジュンは安心して働いておいで。」
 そう言うとマサキは一方的に電話を切った。でもまあ、良かった。電話があまりにつながらないから事故でも起こしたのかと思ったが、いつも通りだった。考えてみたら大酒飲みなマサキが飲みに来るのに、車で来るはずはいない。それぐらいの推理はするべきだった。

  今日はエツコと二人で静かな結婚記念日にするつもりだったのに、と思っていた矢先にまたマサキから電話がかかってきた。
「そうそう、大切なことを忘れていた。いつだったか、カニだかホタテだかのマヨネーズ和えをシイタケに詰めて焼いたやつ? あれ美味しかったからお願い。あと、えっちゃんにもよろしく。じゃあ。」音声が途絶えた。今となっては何から何までもう、どうでもよくなってきた。
 悦子に電話して、例のしいたけ詰めはできるか訊いてみた。
「しいたけはあるわね。カニやホタテはないけれど、シーチキンで作れるわ。うん。作っておきます。」
「ありがとう。無理に作らなくてもいいから。」
「ジュンさんも名探偵マサキさんがいた方が楽しいでしょ?」といたずらっぽく言った。
 ああ、情報源はここか……。
 なんだか無理に自分だけが今日を特別な日にしようと空回りしていたみたいだ。エツコもマサキに会いたいだろうし今日は素直に飲み会にしよう。

 少し遅れて家につき、古本を積んだ車を駐車場に停めた。来客用の駐車スペースにはやはり車はなかった。
「ただいま。」
「おかえりなさい。また売れない本を買ってきたんでしょ?」エツコはエプロンで手を拭きながら玄関まで迎えに来てくれた。
「もしかしたら良い意味で売れない本かもしれないよ?」とジュンは笑いながら言った。
 リビングをみると既にマサキがソファにひっくりかえって、僕のことなど気づきもしないように足を組みながら、横溝正史の『まぼろし曲馬団』 を読んでいた。
「マサキ、もう来ていたのか。なぁ、荷物を運ぶのを手伝ってくれないか?」
 マサキは目も合わさずに「乱歩の稀少本あったろ?」とぶっきらぼうに言った。
「うん。ほか多数。って、なぜ分かった?」
 マサキはこちらの質問に答えもせず続けた。
「なぁ、ジュン。『犯罪図鑑』の美品はあった?」
「ない。」
 そう答えると、マサキは車に積まれているすべての本に興味を失ったようにぶっきらぼうに言った。
「なーんだ……。残念だが今は箸より重いものは持てないのだよ。」
「おい、その本は箸より重いうちの商品だぞ。勝手に読むな。」
「残念だが今は本より重いものは持てないのだよ。」
 こんなやり取りをみながら悦子はクスクスと笑う。
「ね。マサキさんも呼んで正解だったでしょ?」

◆開示されるプレイヤー 

 僕(純)の育った「村上家」はちょっと変わった一家で、家族全員が世界規模で離散して、それぞれが好き勝手にやっていた。だから大抵家族の誰かがどこかに行っているという状態が普通で、通常どこで何をしているのかもわからない。
 姉(涼子)が高校を卒業するまでは、父(義弘)も、母(菜摘)も、たまに一緒になることもあったが、大抵は僕と姉とお手伝いさんの三人暮らしだった。その姉も高校卒業と同時にカナダに留学してしまい、結果、暗黙のうちに僕はお留守番係になっていた。
 自分で言うのもなんだけど、それなりの資産があったし、気のいい老齢のお手伝いさんもいた。なので生活費はなんとかなっていたので、そのまま本ばかり読んでいて、大学受験もしなかった。
 だが、毎日本を読むこと以外やることもなく、何もしていなくても生きていける状態は贅沢な苦痛であった。結局僕も日本を飛び出してロンドンに行った。血は争えないというわけだ。
 いろんな国を周り、ギリシャからトルコへ入り、建築物の変化と共通点を見ているうちに、不意にこの国は歴史を知っていると、もっと面白い国に見えるのだろうな、というのを肌で感じ、無性に勉強がしたくなった。そうだ、大学に行こう。大学にいって勉強して、また世界を回ってみようと思った。なるほど、これが我が村上家の血なのかと、他人事のように納得した。
 とりあえず受験に関しては英語と日本語ができるのでなんとかなるだろうと帰国したが、相変わらず我が家には家族は居ず、僕がいろんな国を巡っている間、家を家として保ってくれていたお手伝いさんになんとも言えない感謝の意が込み上げてきた。
 大学で悦子と初めて出会った。僕と悦子は大学の四年間、半同棲的な生活を送り、二人で世界を周り、その後結婚した。
 そういえば、僕と悦子が結婚することを家族に報告するときもそうだった。僕が家族に電話する時の第一声はいつもこうだ。
「あ、僕です。今どこ(の国)?」これが我が家の挨拶になっていた。

 父(義弘)は、よくわからない分野の学会があるとかないとかでアメリカのフロリダにいた。結婚する旨を電話で伝えると一言、そうか、といって近況報告を続けた。
「おい、ほら、涼子のやつが全く結婚しないからさ、こういうのって初めてなんだよ。よくわからないけれど、結婚式って電報とか送ったほうがいいのかな?」
 
 母(菜摘)は、近所の付き合いで仕方ないのよ、とか言いながら北海道旅行中らしい。国内にいたことが驚きだ。ろくにこちらの話も聞かずに、「いつ結婚式をあげるの? 母さんが帰ってきてからでいい? 駄目よ、その日は仏滅じゃない。それより結婚式は海外であげなさいよ。そうよ、それがいいわ。」など結婚式のことばかり聞かれ、妻になる悦子については何一つも聞かれなかった。
 
 姉(涼子)は、もうやりたい放題で、インドへ悟りを開きにいくとか、カシミールで(真偽の程はともかく)傭兵をしていたとか、とにかく捕まらない。どこにいてもつかまらない。何通ものメールを送っても返さない。そして忘れかけたときに、やっと返事が来た。

件名:結婚するんだって? 
 おめでとう。こちらは今ファッションの中心地、イタリアのミラノにいます。やりたいことが、やっと見つかったので何年かはここで弟子入りするつもりです。しばらく帰れません。そうそう、私も去年結婚しました。付き合っていた日本人の彼に『イタリアに来て結婚するか、今ここで別れるか選びなさい』と迫って、無理やりイタリアに呼びつけてやりました。
P.S. 私が結婚していたことをついでに両親に言っておいて。

 もうめちゃめちゃだ。 
 両親に「姉はもう既に結婚していたみたいです」と報告した。
「お、おう」と父。
「ねぇ、結婚式はどこで挙げたの?」と母。

 こんな離散家族なので、僕と悦子が結婚したときは、僕の身内は一人もいなかったため結婚式は行わず、お互いの身内だけの食事会にした。こちらの参加者が僕だけなので、悦子のご両親も心配するほどだった。僕自身としてはもう妻の家族の養子になりたい気分だった。「ご職業は?」と訊かれ、「推理小説専門の古書店を営んでいます」と言ったときのご両親の心配そうな顔が今でも忘れられない。なんだか申し訳なく思った。「書籍関係の仕事をしています」くらいに言えばよかった。僕は今まで両親なんていないものだと思っていたが、こういうふうに集まるとなんだか家族っていいなと思えてくる。
 だが、その夜のことだ。
 何の前触れもなく突然「マサキ」から電話が来た。
「私の推理が正しければ、君はうるさい母に押されて大安吉日の今日に婚姻届を出したはずだ。どれ、ジュンの姫君とやらを拝みに行ってやろうじゃないか。祝ってやるからうまいものを用意して待っているがよい!」
 マサキとはもう何年も会っていなかったので、さすがに僕も驚いた。マサキは僕の好きなアドリア・ビアンコというイタリアのワインを赤白二本両手に持って本当にやって来た。すっかり飲みつぶれる勢いらしい。
「やぁ、久しぶり。驚いた? 友達もいないお前がきっと寂しがっていると思って仕方なく祝いに来てやったよ。それとも初夜を邪魔しちゃったかな? なんならしばらく駅前の居酒屋で呑んでくるから、事が終わったら電話ちょうだい。三人で飲もうよ。」
 昔からマサキはそうだ。僕がひとりで古い本ばかり読んでいると、突然どこからか手土産の酒を持ってやって来て、勝手に自分で飲んで、勝手に酔い潰れて、勝手に帰っていく。それが面倒なことよりも、少しだけ嬉しさが勝っていることが、余計に腹立たしい。
 しかも「ジュン、君の探しものは、お手伝いさんが本当に知らないというのであれば、春にクリーニング店に預けたカーキ色のコートのポケットにあるはずだ。クリーニング店に電話してごらん」とか、勝手に僕の身の回りにある「謎」を解いて、そして勝手に新たな「謎」を残して帰っていく。
 今日もきっと勝手に飲み散らかし、そして勝手に新たな「謎」を残して帰っていくのだ。まったく迷惑な話だよ。

◆香りを放つミステリー 

 じっとりと汗をかきながら何とか荷物を運び終えて、細かい査定が必要な本だけを入れたケースを倉庫に運んだ。これでよしとリビングに入るや否や、突然マサキは手元の本を閉じ、言い出した。

「君の事だ。私が何を言いにきたのか、わかるだろう?」
 いきなりかと思いつつも僕はニヤリと応えた。
「お前の事だ。オレが何と答えるか、わかっているだろう?」
「手を引く気はないのだな?」
「あり得ないね。」

 二人のやり取りに、エツコは一体何が起きているのかわからない様子。突然芝居がかったセリフを言い出し、何故かふたりとも一人称が私とかオレになったことに違和感があった。
「条件は?」とジュン。
「ジュンが帰ってくるまでの間に、ここで何があったのか説明し、その証拠を探し出す事。質問は一回。告発も一回。」
 マサキはそのままキッチンに入っていくと、勝手にお湯を沸かし、どの茶葉にしようかと考えながら紅茶の缶を見比べていた。
 一方、ジュンは何も言わずに玄関へと向かいしゃがんで靴を調べている。
「あの、マサキさん? いまのはなんですか?」
 エツコが不思議がるのも無理はない。僕とマサキにとってはお約束みたいなもので、謎を提示する側が仕掛ける台詞の言い回しだと説明した。
「探偵シャーロック・ホームズと宿敵ジェイムス・モリアーティとの有名な台詞なんだ。問題を出す側がモリアーティ。解く側がホームズ。まぁ、ゲーム開始の合図のようなものだね。」
 そんな事は気にもせずジュンは小さな証拠を集めて家中走り回っている。
 
 突然マサキが大きな声で言いった。
「お湯が湧いた。制限時間はこの紅茶が飲み頃になるまでにしよう。」
 そう言うと、マサキは紅茶の缶を手に取った。
「しかし、まぁ、ベノアのダージリンに、マリアージュフレールのアールグレイとは、またどれも豪華な茶葉だな。けれどまぁ、今日はこのデカフェのスリジエで桜のような香りを楽しむか」とやはり勝手に未開封の茶葉の缶を開けた。
 
 僕はまずこの家の玄関を観察した。見慣れない新品のスニーカーがある、マサキの靴に間違いない。結び目は右利き。底部にまだ新しい泥。駅からうちまでは舗装道路のみ。

【公園で一休みしているところ】
【来客用の駐車スペースにはやはり車はなかった】

  次にリビング。見たところ変わりなし。ゴミ箱。変化なし。ソファの前のガラステーブルに『まぼろし曲馬団』がおいてある。これは間違いなく書庫にあったうちの商品だ。壁の気象計。「気温:25.5℃ 湿度:49%」を示している。
 マサキはティーポットを温めたお湯を捨て、薬剤師のように無味乾燥に、しかし正確に何種類もの茶葉を調合すると、今度は逆にバラ園に愛情を込めながら水をやる老練の庭師のような面持ちでゆっくりとお湯を注ぎ込んだ。人の家の茶葉だと思って、遠慮もなしに未開封のスリジエを贅沢に使いやがる。あれは眠れない夜のためにわざわざ探してきたカフェイン抜きのスリジエだぞ?
 ダイニングへ。広いテーブルの上にラップをかけた今日の料理。つまみ食いの形跡なし。大量に並べられた缶ビール。全部で9本。全てまだ冷たいが結露していない。エツコは僕の様子を見てクスクスと笑っている。つまり「答えを知っている」のだ。あたりに紅茶が織りなす桜の香りが広がる。 

【先に飲んでいて構わないから】
【気温:25.5℃ 湿度:49%】
【全てまだ冷たいが結露していない。】

  最後はキッチン。マサキは紅茶の香りが立ちのぼるのを待ちながら、冷蔵庫に寄りかかってニヤニヤと挑発的にこちらを眺めている。勝てないゲームではない。だが「何か」が引っかかりうまく頭がまわらない。
 今までのところビールの空き缶なし。飲んでいない。ならシンク。濡れている。マサキの紅茶。ポットを温めるのに使ったお湯を捨てると見せかけて、シンクにある何かの証拠や痕跡を流すためのミスディレクション? いや違う。ああ、そうか。紅茶なんてはじめからどうでも良くてキッチンに入りたかった。そう、自然に「そこ」に立ちたかったからだ。

【マサキは勝手にキッチンに入りお湯を沸かしながら】

「質問だ。」僕はマサキに挑戦した。
「どうぞ。」
「マサキ、お前、病気か?」
「ああ、そうきたか! でも残念。」マサキは、クスクスと笑いながら続けた。
「怪我や病気は一切しておりません。健康だと先日言われたばかりでございます。どうぞお引取りを」マサキは嫌味な執事のように慇懃無礼な態度で質問に答えた。
「途中からタクシーで来たのか?」
「質問は一回と申し上げましたが、お忘れでしょうか?」
「くっ……。」
 おかしい。ビールを飲んでいない理由がわからない……。
 
「さあ、紅茶が出来た。ジュン、答えをどうぞ。」マサキは氷をたっぷり入れた水差しに濃い目の熱い紅茶を注ぎ込みアイスティーを作った。氷の溶けて崩れ落ちるカリッカリンという音とともに桜に似たスリジエの香りが満たされていく。
「告発だ!」
「どうぞホームズ君。だが証拠不十分で君の負けだ。」
  僕は大きく深呼吸をし、そして説明を始めた。
 
「僕が家につくまでに何度もマサキに電話をしたが応答がなかった。やっと電話に出た時は公園で休憩していると言っていた。玄関にあった新しいスニーカーに土。駐車場には車がなかった。駅から家までの通り道はすべて舗装されているので公園に立ち寄ったという証言に間違いない。ではなぜ公園で休憩していたのか。疲れていたから? 道に迷ったから? 答えは多分『両手に荷物を持っていたから』ですね?」
「根拠は?」
「携帯電話で話すためだ。何度電話してもでなかったのは両手がふさがっていたから。折り返し電話をするために、荷物を置けるベンチが必要だったのでは?」
「素晴らしい。そこまでは正解だ。では何を持っていた?」マサキはさほどの関心も無いように答えた。
 僕はまだそのお宝が何か分からないでいる。話しながら気づくのに賭けるしかない。
「テーブルの上の9個の缶ビールがあった。どれも冷たいが結露がなかったので冷蔵庫から出されて間もないものだ。リビングにもゴミ箱にも空き缶は一つもなかった。つまり飲んでいない。飲むために出したのではない。ではなぜ冷蔵庫から缶ビールを9本も出したのか? それは『持ってきた荷物をしまうスペースが冷蔵庫になかったから』だ。」
 この時点で「冷蔵庫に空き缶も一緒に隠した」可能性も頭に浮上し一瞬言い淀んだが、わざわざそうする必要もなく、結局なぜ飲まなかった? の疑問が頭に中に残滓となって、ことばに引っかかりが生まれた。それでも続けた。
「答えは冷蔵庫の中にある。でも僕にそれを見つけられては困るので、台所に自然に入るために紅茶を淹れるという口実で冷蔵庫の前に立ち、捜索を邪魔した。」
「OK. そこまで正解。では最後の問いだ。この冷蔵庫に何が入っている? それがわかればホームズ、君の勝ちだ。答え給え。」
 それがわからない。なぜビールを飲まなかった? なぜあのマサキがこの暑い日に冷えたビールを飲まなかった? この暑い日に冷蔵庫から出されたビールを、飲むためにわざわざ車でこなかったマサキが飲まないはずがない。なぜ飲まなかったのか。それは、おそらくは…、『ビールよりも良いお酒があったから』と考えると? ビールより貴重で熱に弱く、冷蔵庫に入れるお酒……。
「答えは、ヴィンテージワイン……」
 多分、間違っている。なぜ間違っているのかわからないけれど、正解でないことは、なんとなく分かっている。なぜビールを飲まなかった?
 マサキは深い溜め息をつくと言った。
「ああ、もうバカだ、バカだ。ガッカリだ。ワインで両手が塞がるか? 『9本の缶ビール』でなぜ気が付かない? なぜ、9個の缶を一直線に繋いだ? 缶が9個なら3缶x3缶で考えるのが自然だろ。」
 マサキはなんだか本当に怒っているようだった。僕は先程までの推理の高揚感などとっくに醒めてなんだか逆に申し訳ない気持ちになった。
「日本のビール缶の直径は何センチだ?」
「6センチ……」
 なんでそんな事を知っているの? とでも言いたげにエツコは二人を眺めた。
「つまり、9個のビールを正方形にならべると、縦横18センチ。このサイズに覚えは?」
「……ああ、もしかして、『6号』の……」
「今日が特別な日だということを、お前が忘れてどうする。両手がふさがっていたという事実に至ることができながらも『両手で持たなければいけないもの』がなにかという推理に行かなかったのが君の敗因だよ、ホームズ君」
 マサキはニヤリと笑って、ゆっくりと冷蔵庫を開けた。
「答えは、直径18センチ、『6号サイズのお手製ケーキ』でございます。」
「うわぁ、それ、お手製ですか? マサキさんが作ったのですか? 箱の中みてもいいですか?」
 エツコはそう言って冷蔵庫に駆け寄った。
「もちろん、ご欄なさいませ、お嬢様」とマサキは長年勤めている執事のようにケーキの箱をゆっくり開けて、見栄えも美しい今回のケーキに使ったフルーツやこだわりポイントなどを細かく説明しているが僕の耳には届かない。
 ああ、そうだ。大事なことを失念していた。マサキは有名なホテルのペイストリーシェフであることをすっかり忘れていた。
「僕の、敗けだ……。」
 そしてエツコはケーキを見ながら言った。
「ね。マサキさんも呼んで正解だったでしょ?」

◆胸に秘めたるモノローグ

 食事が始まり、純さん謹製のパスタを食べながら会話は進みました。でも、やはり純さんは釈然としない様子です。まだ推理合戦に敗けたことを気にしているのかしら。少しことばが少ない。でも、解らなくても無理もないと思うの。だって、柾樹さんが高級ホテルのペイストリーシェフをしているなんて私も初めて知ったし、思いもしなかった。もし純さんがそれを知っていたとしても、あれだけのヒントで、答に行き着くほうが普通じゃないと私は思うわ。試合に敗けても、勝負には勝っていました。
 柾樹さんは純さんの作るパスタを満足気に食べ終わると、言いました。純さんのパスタは店を出しても通用するぐらいの味だと。そして、一緒にレストランをやらないか、という、いつものお誘いの言葉。そう言ってはいつも純さんを困らせます。でも、純さんのパスタと、柾樹さんのドルチェが一緒になったら、確かに素敵なお店を出せるかも。
 柾樹さんは、先ほど淹れたアイスティーをゆっくりと堪能しています。今日はまだビールを飲んでいないようです。純さんもその点にこだわるのだから、やはり車で来たのかしら。では何故、車で来たことを秘密にする必要があるのかしら。それに来客用の駐車場には車がなかったのですから。
 私も気になって柾樹さんにビールを勧めてみようとしたけれど、さすがは名探偵さん。私が何かを言う前に全てを見通して言いました。「今日は紅茶の気分なのでね、こんな希少なスリジエの茶葉があるなんて思いもしなかったよ」と満足げに紅茶の香りを楽しんでいます。いつもそう。柾樹さんは全ての意図を見透かして、はぐらかし、全てを謎にしてしまう。ここだけの話、少し憧れてしまいます。少しだけですよ。
 純さんは相変わらずケーキの謎が解けなかったことをまだ気にしているのね。ちょっとだけ、柾樹さんの真似でもしてみようかしら。私だって柾樹さんほどでなくても純さんの心なら読めるのですから。
 キッチンに行って、私の左ポケットに『状況による』というメモを、右ポケットに『名探偵の定義による』というメモをこっそりいれます。
 私は柾樹さんの特製ケーキを切りわけながら、二人に、「シャーロック・ホームズと明智小五郎ってどちらが名探偵なのですか?」と問うてみました。
 純さんは『事件による』と即答しました。
 ほら。純さんはいつだって些細なことでも真面目に答えてしまうのね。私はクスクス笑いながら「そう言うと思いました」と左ポケットのメモを渡しました。『状況による』、少しズレましたが及第点ですね。
 純さんは考えるまでもなく「もう片方のポケットには何て書いたの?」と仕掛けを見抜いてしまいました。私は残った方のメモを渡しました。純さんは一言「なるほど……」といってテーブルの上にメモを置きました。
「お前さぁ、空気読めよ。せっかくえっちゃんがこの殺伐とした空気を少しでも何とかしようと、ちょっとしたトリックをわざわざ実演しているのだからさ。それにジュンは最初から敗けていたんだぞ? このトリック、普通なら『純さんならシャーロック・ホームズを選ぶと思っていました』と『純さんなら明智小五郎を選ぶと思っていました』の二枚を用意するトリックだ。でもメモ書きをみろよ。『状況による』と『名探偵の定義による』だよ? 完全に読まれているじゃん。」
 純さんは紅茶を飲みながら「そうだね」とひとこと言っただけでした。
「まったく、えっちゃんはこの男の一体どこが気に入って結婚したの?」
 またこの質問。そしていつもこのように答えます。もちろん純さんがとても真面目な人だからです。そんな真面目な人から『幸せにする。だから結婚しよう』と言われたら信じざるを得ないじゃないですか。そのように何度も同じことを訊かれると、恥ずかしいです。
 柾樹さんはよく私に訊いてきます。『この男のどこが気に入ったの?』と。純さんの前でも何の躊躇もなく訊いてきますから他意はないのでしょうが、まるで純さんに間接的に問うているようにすら感じるときがあります。
 
「くどいようだが、ジュン。君には人の心があまりわからないようだね。『もっとも優れた探偵術は人間の心理の奥底を見抜くことである。』というだろう。」
「『D坂の殺人事件 』に出てくる明智小五郎の台詞だね。僕は『しかし私の場合、まったく先入観を持たず事実の示すまま素直に進んでいきます』だから。」
「『ライゲートの大地主』に出てくるシャーロック・ホームズのセリフか。ジュンにはもったいないセリフだよ。」
 
 毎回驚かされます。まるで二人共手元に本があるかのように言いたいことに合わせた引用を引き出していくのですから。純さんはミステリー専門の古書店ということもあるので引用の多さも頷けるかもしれませんが、柾樹さんは一体どこまで本に対して造詣が深いのでしょうか。もしかして、私を驚かせるために予め打ち合わせているとか? ふふ、それはそれで可愛いです。
  その時、柾樹さんが突然言いました。
「じゃあ今日のところはこうしよう。えっちゃん が問題を出す。その問題を、行動から巧みに心を読み取る『プロファイリング』と、事実からあらゆる可能性を推察する『アブダクション』とを、それぞれのアプローチで先に解いたほうが勝ちということで良いかな?」と柾樹さん。
「問題にもよる。でも、それでいいよ。」と興味がないような素振りをしながら、引かない純さん。
 本当にこの二人は仲がいいのか悪いのか解らなくなる時があります。問題を出さなければならない私も困ってしまいます。しばらく考えてから、以前友人から聞いた話を問題にしてみようと思いました。
 
「それでは、あのね、これはデンマークの病院で実際にあった話なのですが……。」
 今、アイスティーをグラスに注いでいた純さんの手が少しだけ止まりましたわ。純さんも興味はあるようね。手の動きから心を読み解く。もしかしたら私、柾樹さんみたいに行動から巧みに心を読み取る『プロファイリング』の方が得意なのかしら。
さあ、ゲームの開始です!

◆勝算のないギミクリー 

「では、ゲームの開始です!」
私はゆっくりと問題を提示していきました。

「病院の待合室に置いてあるクマのぬいぐるみがとても可愛いので、病院に来た子どもたちが持ち帰ってしまうことがありました。そこで、病院は『ある工夫』をしたら、それ以降持ち去られなくなりました。その『ある工夫』とはなんだか判りますか? 質問にはイエスかノーで答えます。」

「電気を使わずに使える工夫?」と純さん。
「イエス」
「子どもたちは自分たちが患者として病院に来ていた。」と柾樹さん。
「イエス」
「クマのぬいぐるみに触れられない状況だった」と純さん。
「ノー」
「子どもたちは自分のお気に入りのぬいぐるみを持っていない」と柾樹さん。
「ええと、分かりません。」
「子どもたちはクマのぬいぐるみを持って行こうと思えば持っていけた。」と純さん。
「イエス」
「良い質問だね。お陰でチェックメイトだ。子どもたちはクマのぬいぐるみをかわいそうに思ったんだね?」と柾樹さん。
「イエス、です。あの、やっぱりこの程度じゃつまらないですよね……。」
「そんなことないよ。今回のテーマに即したとてもよい問題だと思う。そしてジュンは女心も、子供心もわかっていない。だからジュンは未だ真実に到達していない。ジュンもつまらない大人になってしまったな……。」
「いや、大体わかっているって。」むきになって答える純さん。なかなか見られない珍しい反応です。
「わかっていないさ。試しに君の答えにつながる質問を3つしてごらん。」
 熟考しながら、ゆっくりと純さんは質問しました。
「工夫の変化は見てわかる?」と一回目。
「イエス」そして沈黙。
「等身大のクマのぬいぐるみに代えた。」と二回目。
「ノー」柾樹さんの失笑が漏れました。「自分で言っていたじゃないか。【クマのぬいぐるみを持って行こうと思えば持っていけた】って。だからジュンは鈍いんだよ。」と柾樹さん。
「クマは工夫をする前から同じクマ?」と最後の質問
 私より先に柾樹さんは質問の返答をしました。
「イエスだ。論理的に全く意味のない質問だ。さあ、答えは?」
「う……、」
「ほら、やっぱり君の負けだ。このマーク・ブレンドン」と柾樹さん。
 言葉に詰まる純さん。
 純さんを追求する柾樹さん。
「マーク・ブレンドン」が何かわからない私。
 柾樹さんは紅茶を飲みながら続けました。
「場面は小児科だ。ジュンの視点は『子どもの視点』が欠けている。クマしか見ていない」そして柾樹さんは答えます。
「答えは『クマのぬいぐるみに包帯を巻いたり、絆創膏を貼ったりしてクマを患者さんにした』だね?」
 私は小さな声で答えました。
「イエス…。正解です。」
 ああ、やっぱりすごいわ、柾樹さん。
 
 柾樹さんはゆっくりと最後の紅茶をグラスに注ぐと、まるで探偵ドラマの告発シーンのように一気に解説を始めました。
「病院の待合室にあるぬいぐるみ。子どもたちとくれば場面は小児科。つまり子どもたちが患者だ。親と一緒でもきっと不安な気持ちで一杯だったろう。だからこそ、そこにクマのぬいぐるみが置いてあったんだ。不安な気持ちを一杯に抱えた子どもたちが、もし仮にクマのぬいぐるみを持って行ってしまうとすればそれは何故か。おそらく欲しいからじゃない。不安で一緒にいて欲しかったからだとは思わないか? それとも、そんなのは事実から外れた憶測だと判断する? いずれにしても、工夫のあとも子どもたちはクマのぬいぐるみを持って行こうと思えば持っていけた。ならばどう考えたって『物理的にではなく心理的に持っていけなくした』と考えるのが普通だ。場面は病院。子どもたちは、自分たちと同じように、怪我をして病院に来ているクマもこれから医者に診てもらうように工夫した。ぬいぐるみが医者に診てもらう前に、たとえ不安であっても連れて帰ってしまうことは、同じように不安な子供の患者には可哀想で出来なかった。子どもたちは思うだろう。『クマさんも同じように怪我や病気をしているんだ』かな? ひと目で怪我をしていると判りそれでいてかわいい見た目の工夫。もちろん破れていたり、血まみれになっていたり、腕がもげていたら子どもたちの不安を煽るだけだ。では他には……。それが『包帯を巻くとか、絆創膏を貼る』とかだよね。くどいようだが、ジュン。もう一度言うよ。君には人の心があまりわからないようだね。」
 柾樹さんはどこで息継ぎをしているのかわからないほど、一気に状況を説明していきました。そして、そこまで言われてしまっては純さんも言葉を返せません。本日は調子が悪いというわけではなく、やはり柾樹さんにはかなわないのだという雰囲気が、手に取るように伝わってきます。そして柾樹さんは何かに怒っているかのように、今度はゆっくりと続けました。
「ホームズのように、客観的事実から可能性を羅列し、最も可能性の高いものから検証してゆく『アブダクション』に徹するでもなく、明智小五郎のように、あらゆる対象の心理面にアプローチし、追体験をしながら行動を推察する『プロファイル』に徹するでもなく、始終、大人の視点、男の視点、自分の視点でしか考えられなかったことが敗因の一つだ。もう一つは手段に溺れて目的を見失った事。それぞれのアプローチで、先に解いたほうが勝ちという事に囚われて、相手の質問を活用出来なかったね? まったく、聡明なえっちゃんがなぜ君のような愚鈍な男と結婚したのかが本当に不思議だよ。えっちゃん、今ならまだ間に合うからもっといい男を探したまえ。」
 ああ、やっぱりそうなのね。先程の柾樹さんの告発で私は今、全てが解りました。
 そして、柾樹さんは気づいています。私が真実に至ったことに。
 そして、柾樹さんは少しだけ怒っています。純さんが真実に至らないことに。
「正解です。」柾樹さんは突然にまだ言葉にもしていない私の考えている事を突然答えました。まるで、純さんにはもう少し考えてもらいたいから内緒にして欲しい、というような無邪気な笑顔で。
 私はそんな柾樹さんを、少しだけ羨ましく思いました。

◆インターミッション 

山積みになった埃まみれの古書の中から、唯一「保管」されていた乱歩全集。そこで見つかった乱歩のサイン。

『うつし世はゆめ、夜の夢こそまこと  江戸川乱歩』

「これは江戸川乱歩の直筆サインです。乱歩本人のもので間違いないでしょう。」
「江戸川乱歩の、サイン?」
「ええ。乱歩はいつもサインと一緒にこのことばを残しています。古書屋の間では乱歩の『うつしよ』と呼ばれるほど有名です。多く流通しているものなので希少というほどのものではありませんが、その殆どが色紙に書かれています。また、販売促進で新刊を購入された方にサインをするといのもあるのですが、その際は名前だけで、いわゆる「うつしよ」は省略されている事が多いです。」
 まったく意味がわからない、といった顔をしながら、御婦人は話を聞いている。
「でも、なんで『赤毛のレドメイン家』の英語の原書にサインなんだろう?確かに『赤毛のレドメイン家』は乱歩が一番称賛していた作品ではあるけれど。」
 正直、査定に困った。通常、乱歩の『うつしよ』は乱歩の著書に書かれていることが殆どだ。当然ファンが乱歩にサインを貰いに行くのなら持っていくものは彼の著書か色紙となるはずだ。だが今回見つかったこの本はイギリスの推理小説家、イーデン・フィルポッツの本だったからだ。
「この本も、江戸川乱歩の書いた本ではないのですか?」
「いや、イギリスのミステリー作家の作品です。ですが全く乱歩に縁のない本というわけでもないんです。乱歩は1947年にとある雑誌で『類聚ベスト・テン』というエッセイを書いていまして、そのベストテンミステリーの1位がこのイーデン・フィルポッツの『赤毛のレドメイン家』なんです。ご祖父様はわざわざ自分が一番好きな乱歩の本ではなく『乱歩が一番好きだった本』にサインをしてもらったようですね。」
「祖父もこの本が好きだったから、でしょうか?」
「そうなんですか? ご祖父様は英語が堪能だったのでしょうか?」
「いえ、そんな事はないはずです。英語は全くできませんでした。でも、大切に保管されていたようですので。」
「それはおそらく違うと思います。奥様も先ほどおっしゃったようにご祖父様はいつでも『乱歩の本』を常に持っていたんですよね?」

【あの人は江戸川乱歩の本を、どこにでも持って行くような人でした】

「そうですね、確かに……。おかしいわね。確かにおかしいわ。あの人ならきっといつも持ち歩いていた江戸川乱歩の本にご署名をいただくはずだわ。でも何故読むこともできない英語の本を持っていたのかも変だわ。」
「このサインを貰った『赤毛のレドメイン家』もかなり読み潰されています。同じような本の状態であればいつも持ち歩いている乱歩の本にサインをもらうと思います。あくまでも想像ですけれど。」
 皺の寄った目をくりくりと丸くしながらご婦人があれでもない、これでもないと考えている姿を見て、僕はとても微笑ましい気分になり思わすに微笑んでしまった。
「どうされましたか?」
「いえ、すみません。奥様がとても優秀なワトソンだったものですから、きっとご祖父様も幸せだったに違いないと思いまして。」
「わとそん?」
「シャーロック・ホームズに出てくる助手、というか親友の医者です。」
 ご婦人は、なぜ? どうして? その疑問に対して理路整然とした解答を求めている。探偵小説ではなく、推理小説を楽しめる素養は十分あったし、きっと亡くなられたご祖父様もそのことを楽しんでいたに違いない。
「あの、もしよろしければですが、ご祖父様の読まれていた本、幾つか読んでみませんか? 確かに目を覆うようなシーンもある不謹慎な本でもありますが、中には心あたたまる物語もあります。『シャーロック・ホームズの冒険』などはいかがでしょうか? ご祖父様のお持ちの本は昭和十八年のものなので訳が堅いかもしれませんから、もしご迷惑でなければ僕の持っている最近の新訳を差し上げますよ。この中の『赤毛連盟』と『エメラルドの宝冠』と『青いガーネット』は名作三原色と言われていますし、特に『まだらのひも』は子供の頃、初めて読んだ時は、被害者の寝室にある呼び鈴の紐が、真夜中に突然動き出すのではないかと思って怖くて寝られなかった程です。『ぶな屋敷』では女性に冷たい態度を取る反面、ずっとその依頼人を心配しているホームズに親近感を覚えるかもしれません。僕の好きな話の一つです。」
 僕はそう言って、スーツのポケットから2010年度版の角川文庫『シャーロック・ホームズの冒険』を出し、興奮を抑えながらもなかば無理矢理ご婦人にお渡しした。きっと理知的な冒険に胸をときめかせて貰えると思った。
「どうぞ、この本を差し上げます。きっと楽しく読めると思いますので。」
「これは、頂いても良いのでしょうか?」
「ええ、もちろんです。」
「ですが……。」
「是非とも。これは僕の私物なので。つまり、その……。」
 少しはにかみながら、僕は言った。
「僕も、実はホームズの本をお守りのようにどこにでも持って行くような人でして……。」 

◆固く巻き付くヒストリー

「なるほど。そうやって乱歩のサイン本を500円そこらのホームズを渡してまんまと抜いてきたのか。なかなかやるな。」
「人を詐欺師みたいに言うなよ。失礼だな。ちゃんと然るべき値段をつけて買い取るよ。」
 とはいっても、これはどうしたものか……。 
 マサキはこちらの考えていることをまるで読み取ったように訊いてきた。
「然るべき値段って、いくらにするのさ?」
「実は困っている。サインは本物だと思う。ただ本が英語原書の『The Red Redmaynes』だ。しかもかなりの回数読み潰されたものだ。よくみると文の下に線が引かれている場所まである。ドッグイヤーはない。」
「で、『緑衣の鬼』は確認したのか?」とマサキも、本の来歴よりも、小さな謎として興味を持ったようだ。
「もちろんしたよ。新品同様にまっさらだった。」
「この本、もしかすると……とんでもないモノかもしれないぞ?」というマサキの目はどこか遠くを見ているよう。
「あの、『緑衣の鬼』というのは?」エツコは僕に訪ねた。
「この『赤毛のレドメイン家』は江戸川乱歩が一番好きだったイギリスの探偵小説なんだ。そして、その本をもとに日本版の『赤毛のレドメイン家』を改変して書いたのが『緑衣の鬼』というわけさ」とジュンは説明したが、反応はなかった。
 しばらくの沈黙が流れた、エツコひとりだけ、続きを待っていたが、そのまま時が止まっていた。
「え? えっと、勝手に日本版を書いちゃったと言うんですか? 翻訳ではなく、同人誌の二次創作みたいに、江戸川乱歩が……?」
 エツコの丸くなった目が可愛くてジュンは話を続けた。
「ベルヌ条約以前までは、そういうのが当たり前だったんだよ。特に洋書とかは、むしろ大衆からは喜ばれていた。」
 そして、マサキが付け加えるように言った。
「ベルヌ条約というのは、一言でいうと、勝手に著作物を翻訳してはいけない、という条約で、この条約が施行される前に翻訳してしまえという風潮から玉石混交の……」
「マサキ、それ以上は歴史的解釈の問題だ。今回の話とはズレている。」
「そうだな、探偵小説史についてジュンと話しだしたらきりがない。面白くなってきたが、えっちゃんに悪いので省略するよ。」
 マサキは少し残念そうに笑って説明を続けた。
「『緑衣の鬼』は『赤毛のレドメイン家』の『翻案』だから、『緑衣の鬼』の方にも何かあるんじゃないかと思った、という話さ」
 エツコは「翻案」という言葉を初めて聞いた。
「つまりこの本は乱歩が一番好きな本なんですよね? だったら江戸川乱歩のファンとして、『The Red Redmaynes』を読むために必死に英語を勉強した、それで『The Red Redmaynes』読み潰したし下線もある、とかはどうでしょうか? そういう事情の本こそ乱歩のサインを貰うのに相応しいのではないでしょか!?」エツコも一緒になって謎解きに夢中になった。
「慧眼だね。その仮説は、なかなか蓋然性が高い。でも旦那さんは結局のところ英語ができない。まぁ、出来ないの水準によるけれど」
 マサキは目を閉じて頷きながら言った。
「ちょっとまとめていい? 予想も含めて」と、エツコは紙とボールペンを持って言った。

  1. 旦那さんは英語ができないのに『The Red Redmaynes』の原本を持っていた。

  2. その本の最後に乱歩のサインがあった。

  3. 旦那さんは乱歩の本を必ず持ち歩いていた。

  4. 英語ができないのに、『The Red Redmaynes』の原本は何度も読んだ形跡があった。

  5. 乱歩は『赤毛のレドメイン家』に触発されて『緑衣の鬼』を書いた。

エツコはこれらのメモを見ながらずっと考えている。ちょっとした論理パズルだ。
1:に関してはご夫人の証言ですがご祖父は英語が全くできなかったんですよね?
「そうだね。ご夫人の証言でしかないけれど『The Red Redmaynes』が読めて他の洋書がなければその可能性は高いね。」
 マサキはまるでひとつの回答をすでに掴んでいる様子で言った。

【英語は全くできませんでした】

2:に関しては、本物のサインだったのでしょうか?
「ジュンがみる限りではそうらしいね。その真贋に関してはジュンはそこそこの目はあるはずだ。だろ? なぁ?」
 ジュンは何も言わず、ぶつぶつ言いながらに頷いた。

【筆跡からしておそらく本人のもの】

3:「あの、ご祖父は乱歩の本を常に持ち歩いていたんですよね?」
「そうだね。それも夫人の証言にすぎないが、今の段階でそのような嘘をつく理由がないから本当である可能性は高い」

【あの人は江戸川乱歩の本をどこにでも持って行くような人でした】

4:乱歩の著書ではなく、乱歩が最も称賛していた『赤毛のレドメイン家』にサインを書いてもらたんですよね?
「そこが問題となっているところだね」とマサキさんは言った。
「サインを貰った本を敢えて読み潰すとか不自然ですよね?」
「人による」とここで僕が言うと、マサキは何も聞こえていないように無視して「かと言って、読み潰した『The Red Redmaynes』を偶然持っていた、というのも不自然だよね。英語ができないんだから。」と続けた。

5:「あの、この本は日本語に翻訳されているんですか?」
「もちろん。1936年が最初だったかな? まあ、それくらい。ここの古本屋の商品にも端が焦げた本が、確かあったはずだ。なあ、ジュン。」
 ジュンは何も言わず独り言を言っている。マサキは構わず続けた。
「ちなみに、英語の原本は1922年に出ている。」
「はぁ……。」とエツコ。
「もし乱歩が1922年の英語の原文で読んでいたなら、これほど惚れた本だ、乱歩も自分で翻訳したかっただろう。でも、翻訳権がなかった。」
「ベルヌ条約!」エツコはつい大きな声を出してしまった。
「そう。でも、ベルヌ条約には抜け穴がある。『翻訳はおもふに任せざれども、翻案は、相変わらず絶えざるべし』つまり翻訳は出来ないが翻案は可能と言う人もいたんだ。」 
「あの、さっきから出ている『翻案』(ほんあん)というのは具体的になんですか?」先ほど聞きそびれたことを尋ねてみた。
「翻案は一言で言うなら『ネタのパクリ』だね。実際、乱歩自身が「緑衣の鬼」を出したのは1936年。『赤毛のレドメイン家』の『翻案』として『緑衣の鬼』という翻案物語を書いたんだ。」
「少し頭がこんがらがって来ました」エツコはおでこに手をあてて言った。
「じゃあ年表を書いてみよう。」

『赤毛のレドメイン家』
1922年:英語原本 (イーデン・フィルポッツ)
1935年:初翻訳本、(井上良夫)
1936年:緑衣の鬼、(江戸川乱歩)
1939年:第二次世界対戦
1950年:戦後翻訳、(井上良夫)

「いったん井上良夫は置いといて、乱歩が英文の原本を読んでいたのか、翻訳本を読んでいたのかは、分からないんだよね。原本を読んで訳したかったが権利がなかったのか。それとも初翻訳本を読んで感銘を受け、翌年「緑衣の鬼」として翻案したか。多分年月の問題から、井上良夫の初翻訳の日本語本を読んで感銘を受け、翌年「緑衣の鬼」を書いたんだとは思う。」とマサキは持論を展開する。もうジュンは考えすぎて何も聞こえていないようだ。

「でも乱歩は英語ができたんですよね?」
「できた、できた、そこはすごいよ、英米の推理小説を読みたいがために、新着の輸入ミステリーを辞書片手に読破し続けたんだからすごい。初めて海に飛び込んで溺れながら泳ぎを覚えたようなもんだからね。」
「そこで『The Red Redmaynes』と出会った可能性はありませんか?」
「うーん、それも可能性はあるけれど、じゃあ10年以上何をしていたの? ってな話になってくるよね。」

「もう一つ質問です。乱歩は『赤毛のレドメイン家』が大好きだ、ということは読者の間に知れ渡っていたのでしょうか?」
「知れ渡るも何も、横溝正史の『本陣殺人事件』の評論文で、「本陣殺人事件」とはまったく関係ない『赤毛のレドメイン家』の話を持ち出しているくらいだし、雑誌にもいかに『赤毛のレドメイン家』が素晴らしい話かを書いて投稿しているし。うーん、というか、この話は一旦やめよう。説明するほどにわからなくなると思う。ごめんね、訳の分からない話ばかりして。今度ジュンにでも訊いてよ」
 マサキさんにしては珍しく歯切れが悪い。それでもエツコの好奇心の火は消えななかった。

「最後に一つだけ。そもそも、英文・日本文どちらを読んだか、というのは一体なにが問題なんですか?」
マサキはめずらしく言い淀んだ「それはまだ言いたくないんだよ。がっかりさせてしまうかもしれないから。でも、それもジュンから説明があると思う。」とマサキは水差しに残った紅茶を飲みながら言った。

 ジュンは相変わらず独り言を言っている。 
 なんとも気まずい空気が当たりを満たしていく。ジュンを傍から見ていると、いろんな意味で怖い。
「そうそう、乱歩といえばね……」マサキは雰囲気を変えるために続けた。
「乱歩はお酒が全然飲めなくて、その分かなりの甘党だったんだ。今でも池袋にある、『三原堂』というお店で、乱歩の好んだ当時と同じ饅頭を売っているんだ。」と柾樹が言うと同時に、ジュンは言い出した。
『ああ、そうか。すべてが逆なんだ……。飲めなかったんだ。』

「乱歩はお酒が全然飲めなくて」

【ビールを飲んでいない理由がわからない】 

【今は箸より重いものは持てないのだよ】 
 
【今日はこのデカフェのスリジエで……】
 
【健康だと先日言われたばかりでございます】 

【見慣れない新品のスニーカーがある】 

【大人の視点、男の視点、自分の視点でしか考えられなかった】

【女心も、子供心も分かっていない。だから未だ真実に到達していない】

 Quod Erat Demonstrandum 

「あ、ああ! くっそ、そっちか! あはは、あはははは」
 突然、純が叫んだ。そして、うつむきながらクスクス笑っている。
「ねえ、えっちゃん……。ジュンっていつもこんな感じなの?」
 悦子は何も言わず首をブンブンと横に振った。
「あ、でも、以前古書に関する事件に巻き込まれたとき、古書を両手に持って、あはは、あははーと同じように笑っていたことはありましたけれど……。」
「えっちゃん、こんな男の一体どこが気に入って結婚したの?」
 いつもとは違う意味で、いつもと同じセリフを聞いた。

 突然に純は立ち上がり「紅茶が切れた」とキッチンへと向かった。
 静かに流れる時間。悦子は遠慮がちに尋ねた。
「あの、さっきの話、と言うより、ことばにする前に私が思った事ですが……、本当に『正解』なのでしょうか?」
「誤解を恐れずに言うなら『正解』です。」とマサキは小声で答える。
 悦子は両手で口を押さえながら、顔を少し赤らめた。
 「ジュンにはまだ内緒ですよ? ジュン自身に解いてもらわないといけない理由も分かりますよね?」と耳元で囁いた。 

純はティーカップに今度は温かいコーヒーをもって戻ってきた。
「コーヒーを淹れてきた。もちろん『デカフェ』だ。つまりこれが……、答でいいのか?」
「慧眼、とまではいかないが、ご明察。」
純は深くため息を吐くと、ゆっくりとマサキに言った。
「おめでとう、姉さん。まだ先だろうけど出産予定日はいつ頃かい?」

◆収束してゆくストーリー

「おめでとう、姉さん。まだ先だろうけど出産予定日はいつ頃かい?」
今回ばかりは僕の負けだ。なんというか、身内という事もあったが完全に客観性を失っていた。
「おおぃ、『姉さん』とか呼ぶな、気持ち悪い。」
 そう言いながらも涼子は少し恥ずかしそうに髪をかき上げて言った。
「やっと気がついたか、この三流探偵。でも、名誉挽回のチャンスをあげる。私が妊娠しているという解答に至ったプロセスを説明して。」
  僕は大きく深呼吸をし、先程の涼子がしたように息継ぎもしないかのように説明を始めた。

「ずっと引っかかっていたのはやっぱりお酒を飲まなかった事。しつこいようだがありえない。健康上の問題と思った。でも違うと言った。僕は最初から考察しなおした。そして気がついたんだ。まずは玄関。いつも履いている靴は車を運転する時以外はローヒールパンプスだったよね。でも車じゃない。気がつくべきだった。『なぜスニーカーを履いているのか』って。転倒防止のために安定した靴にしたんだ。スニーカーは新しかった。つまり最近妊娠したことを知ったんだ。つぎにリビング。姉さんは言ったよね。箸より重いものは持てないって。あれは重い本を運ぶ運動は避けたかったからだ。」
「あれは本当にめんどくさかっただけ。」
「でも、僕が仕事帰りということは知っていたんだから、きっとどんな掘り出し物があるかは気になっていたと思うんだ。でもそれ以上に優先すべき事があった、と推理するのは行き過ぎ?」
「相変わらず行き過ぎた推理だけど、まぁ、悪くない。」涼子はクスっと笑いながら答えた。
「他にも日本の実家に自分の車があるのに電車で来た事。これは『イタリア生活が長いから日本の道路で走るのが不安だった』から。疲れて公園で休んでいたこと。もちろんビールを飲まなかった事。そして紅茶もカフェインの入っていない茶葉や女性ホルモンを促進するため好ましくないハーブティーを避けて使っていた事。」
「他には?」
「他というか質問だけど、なぜタクシーを拾わなかったの?」
「それは偶然。なぜか知らないけれど、駅前のタクシー乗り場がとても混んでいたんだ。それだけの理由。」
 
 姉の柾樹涼子(旧姓・村上涼子)は幼い頃から一緒にお留守番係だった。一緒にミステリーを読みながら推理を披露したり、お互いクイズを出したり、実際の事件の犯人像を割り出したり、そんなことばかりして育った仲だ。姉が高校を卒業後、一家離散家族の血が騒いだのか単身カナダに留学。その後世界を転々としながら何年か前に突然イタリアでパティシエールの修行をすると言って職人のもとで弟子入り。和のセンスが評価されたのか、それなりに有名になり、それを機に付き合っていた彼氏をイタリアに呼びつけて結婚したそうだ。旦那さんも旦那さんだ。結婚するから来いと言われて仕事も捨ててイタリアに行くなんて大した度胸の持ち主だと思っていたが、今日知ったことだが旦那さんの職業はミステリー作家なので場所を選ばないということらしい。なるほど。そんなこんなで、自分たちの結婚式なんて気にもとめない姉が、僕達の結婚を祝うためにわざわざイタリアから、僕の好きなイタリアワインを持って日本に駆けつけてくるとは思わなかったから本当にびっくりした。
 そして、なんだかんだでやっぱり嬉しかった。
 
 その後僕たちはイタリアでの話や、日本での最近のミステリー事情などを話しながらしばらくお茶を楽しんだ。そして、夏の長い日が陰り始めた頃、不意に涼子は言い出した。
「さて、そろそろお暇致します。」
「あれ、泊まっていくのかと思っていた。」
「そこまで無粋ではありませんよ。そうそう、さっきのレストランを出す話、あながち冗談じゃないの。もし良ければ連絡してね。」
「連絡したって出ないくせに。」
「あはは、確かにそうね。」
 そう言いながら涼子はスニーカーの靴紐を結んでこちらに向き直り言った。
「解答に至らなかった理由はわかる?」と涼子はいたずらっぽく言った。
「僕が悦子の気持ちから、無意識のうちに目を背けていたから。」
「なんだ。分かっているじゃない。なら今日は尚の事長居は無用ね。私の子は名探偵に育てるつもりだからアンタたちも早く子どもを授かってライバルの名探偵に育てなさいな。それじゃあね。」
 そう言うと、玄関から出て行った。僕は駅まで車で送ろうかと提案しようとするが早いか否か、涼子は振り向きもせず僕の提案を聞くより前に「大丈夫だよ、ありがとう」とことばを遮って駅へと歩いて行った。
「ね。柾樹さんを呼んで正解だったでしょ?」と悦子はいたずらっぽく微笑んだ。

◆ちょっと古風なエピローグ

某月某日、池袋の喫茶店にて小生が夢中になって江戸川乱歩の探偵小説を読んでいる時の事で御座います。向かいの席に座られていた男性に不意に声をかけられました。
「ほう、探偵小説をお読みになりますか。」
小生、夢幻の世界から我に帰り、公衆の面前で不謹慎な書物を広げた事を謝罪致しました。
その男性は笑いながら仰いました。
「不謹慎、結構。寧ろ話しかけて夢から醒ましてしまつた事をこちらが謝らなければなりませんな」
 話してみると、その方も探偵小説に興味がお有りのようで、海外の探偵小説に至るまで読み込み、目を見張るほどの深い知識の持ち主で御座いました。小生は歓喜いたしました。隠れるように読んでいた探偵小説について、今までこれほど深く共に語り合える仲間がいなかったからです。ですがその方は江戸川乱歩の小説は読まないとおつしゃいました。
 小生は江戸川乱歩の文学が如何に素晴らしいかを熱く語っていました。
 その方は多くを語っては下さいませんでしたが、ただ小生の熱弁に対し熱心に耳を傾けてくださいました。
 失敬ながら名刺交換を申し出たのですが、何分名刺を持たぬご職業との事。それならば、と本日持つてきた乱歩の『孤島の鬼』を取り出しました。 是非読んで欲しいと半ば押し付けるようにお渡しいたしました。この日に乱歩の傑作とも言われている『孤島の鬼』を持つてきた事も何かの縁。如何に乱歩の世界が素晴らしいか、貴方こそ読むべきだ。ご迷惑とは思うが是が非でも、と本を押し付けました。
「いえいえ、例え枕を同じにして寝たとしても、果たして同じ夢を観られるかどうか」とその方も御遠慮なさつてはいましたが、仕舞には小生の不躾な迫力に憐憫を感じたのかとうとう本を手に取って頂けました。それで良いのです。造詣の深い貴方こそ、真に乱歩を読んで然るべきなのです。
「それでは、本の交換といきましょう。これは私の最も気に入つている物語でして」と、その方も懐中より海外の本を取り出し、最後の頁に一筆したためると、インキが乾くのを確認し、ゆつくり本を閉じました。
 元々日本語しか出来ない小生は英語が読めず、物語を読むことは難しいだろうと少々残念に思いました。それでも探偵小説仲間が出来たことがとても嬉しかつたのです。
「くれぐれも家に帰ってから開けてください。『探偵小説』ですから。」
その方は読み潰された『The Red Redmaynes』という外国語の本を小生に手渡して下さいました。

【もしかしたら良い意味で売れない本かもしれないよ】


 


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