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パラワン島の赤い卵

前回に引き続き大江ちゃんとの思い出のお話を投稿させていただきます。

大江ちゃんとの一番の思い出、それはフィリピンのパラワン島での思い出です。パラワン島はフィリピンの西側にある鉛筆のような細長い形の島です。
日本ではあまりなじみがありませんが世界自然遺産などもある自然豊かな島です。

パラワン島に行くきっかけは20年程前に遡ります。

当時仙台青葉ロータリークラブで私や大江ちゃんと仲良くしていた土屋照明君(残念ながら数年前に逝去しました)を通じて、フィリピンのパラワン島にあるオイスカ(海外での農業支援団体)の研修センターからオートバイを寄贈して欲しいという要望がありました。

土屋君は若い時にはオイスカの一員として海外での支援活動をしていたようです。その繋がりで土屋君を通じて仙台青葉ロータリークラブへの要望が来たのでした。

クラブ内でどのように対応しようかと話し合いが行われ、その結果まずは現地を訪問してオイスカがどのような活動をしているのか、オートバイがどのように使われるのか確認してみようということになりました。

もちろん土屋君と仲の良かった私や大江ちゃんそしてもう一人の仲間、早坂君の4人を含めた9人の仙台青葉ロータリークラブの会員が現地に行くことになりました。

どうせフィリピンまで行くのなら何か奉仕活動ができないか?      現地のオイスカとの打ち合わせの結果、オイスカ研修センターのある地区の山の中にある小学校に文房具用品を寄贈して、海のそばの小学校の生徒たちとマングローブの苗木を植えようということになりました。

日本を出発してマニラに1泊(なぜか大江ちゃんと私はいつも同じ部屋)、大江ちゃんは朝4時ごろからカチャカチャと音を立ててそばを茹で始めます。・・・確か2回目のパラワン訪問の時、そばを茹でるコンロが壊れて朝早くにたたき起こされ「伊勢ちゃん、アンダは英語が喋れっからこのそばをホテルで茹ででもらってきてけろ、そしてや少し芯が残るくれに茹ででもらってけろ」・・・私にそんな微妙な英語力はありません、でも大江ちゃんは納得しません。私は仕方なくそばをもってホテルのフロントへそして一言「Boil the soba」、茹ででもらったそばを持って帰ると、大江ちゃんはそばを食べながら「うん!この茹で方だなぁ」大江ちゃんのいい加減さ・・・それからは大江ちゃんの頼み事は少しいい加減に扱うようになってしまったような気がします。

話を戻します。翌日はパラワン島の州都プエルトプリンセサまで飛行機、そこから乗り合いのバス(?)で3時間ほどかけてオイスカ研修センターのあるアボラン地区まで向かいました。

その時のった乗り合いのバス(?)が次の写真です。

キャプチャ

今ではとても無理ですが、その時は平気で車に屋根に乗ってました。道中はまさに悪路で土埃、車もガタガタ揺れっぱなし、仲間の一人はおかげで腰を痛めてしまいました。(現在は信じられないほど良い道路になっています)

アボラン地区に着いて、まずはオイスカの研修センターへ(写真)

パラワン3

パラワン9

オイスカでの歓迎を受けたのちに、山の中にある小学校へ向かいました。途中、車のタイヤがやっと乗るような木の橋を渡って行った記憶があります。

山の中の小学校に着くと、日の丸の旗を持った沢山の子供たちに大変な歓迎を受けます。

その時の写真が次の写真です。(トップの写真はその時の集合写真です)

パラワン4

2パラワン

その日はアボランのバンガローのようなホテルに1泊(写真)

パラワン5

次の日は海の近くの小学校の生徒とマングローブの苗木の植樹です。写真はその時のマングローブの林です。ちなみにマングローブの木が減少したのは日本の商社が日本向けに炭を作って輸出したのが主な原因だそうです。

パラワン8

翌年も同じ活動を行いました。その時はオイスカの職員さんがアボランの現地で日本企業が作ったエビの養殖いけすを案内してくれました。(養殖いけすを作るためにも沢山のマングローブの木が伐採されたそうです)その養殖いけすは日本企業が撤退してもう使われてはいませんでした、そのため海水が淀んでヘドロのような状態、悪臭も放っていました。

そしてその脇には日本企業に雇用されていた現地の方たちの家(小屋)が建っていてそこで生活をしているのです。

私は尋ねました。「日本の企業が撤退したのに、なぜこの人たちはこのような最悪な環境で生活しているのですか?」 「何か仕事はあるのですか?」

オイスカの職員さんは「こちらの人たちは自ら環境を変えようという考えがないんですよ」「仕事はほとんどありません、最低限の生活です。」と教えてくれました。

大江ちゃんが凄さを発揮するのはこういう時です。現地の人たちの家は高床式で、家の周りで排泄物を処理するためにも豚を飼育している家が多かったのですが、大江ちゃんはそこに目をつけました。オイスカ研修センターに養豚場を作れば現地の人たちに養豚の技術を教育できる。そうすればもっと生活が豊かになるのではないだろうか・・・

大江ちゃんはパラワン島にあるのロータリークラブと協力して2年後にはオイスカ研修センターに養豚場を完成させました。

これで何とかなる・・・はずでした。

しかし期待は外れ・・・豚が成育して出荷するには最低1年はかかりますが、現地に人たちはそれが待ちきれずに豚を食べてしまうのだそうです。

しかし、大江ちゃんはあきらめません・・・それならば養豚事業と並行して養鶏事業も行えば・・・鶏なら3か月で収入になる。

そう考えた大江ちゃんは、なんとオイスカの研修センターに養鶏場も作ったのです。

これが見事に成功!

現地の人たちやパラワン島のロータリーの方たちにも大変感謝されました。もちろんオイスカの方々にも!

やはり大江ちゃんはすごい!!!

その後のパラワンの状況を確認したのがあの大震災前、その後オイスカの研修センターも廃止されて今はどのような状態なのか?コロナが収まったらぜひもう一度訪問してみたいと思っています。

ところで、その時のエピソードをもう1つ・・・写真は州都プエルトプリンセサのナイトマーケット・・・そこで大江ちゃん達と珍しい卵を見つけました。(写真右は土屋君、左が大江ちゃん、中央が私です・・・皆若い)

パラワン6

なんと赤い鶏の卵です。お店の人は珍しい卵だよ、おいしい卵だからと勧めてきました。私たち4人は卵を購入してホテルで食べてみようということになりました。生のままでは怖いから、茹でて食べることに・・・大江ちゃん持参の蕎麦ゆでの鍋で卵を茹でていると、なんとお湯がだんだん赤くなっていきます。そして遂に卵は白い普通の卵になってしまいました。(白い卵に赤い色をつけていただけでした。)

4人で大笑いしたことが昨日のように思い出されます。

良い思い出のきっかけを作ってくれた。ツッチー(土屋君の愛称)ありがとう。(合掌)

本当に友人たちに恵まれている私の人生です。




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