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妻の実力

こんにちは、前回は予定を変更して思わず新型コロナの事についてお話をさせていただきました。

今回は、開業当時の事に話を戻させていただきます。

私の38歳の誕生日のすぐあとの昭和62年2月8日に仙台市中心部商店街の一角、サンモール商店街のムツミヤボタン店の2階にリブルマルシェを開業させていただきました。

それまで大手流通会社では部長職、お店の店長の経験もあり、長年主に販促・企画を担当していた私は自信満々、失敗することなど微塵も考えていませんでした。

月商最低300万円、年間4000万円を目標に8坪のお店を開業しました。

当時のスタッフは私と従業員の女性が1人、あとはアルバイトのスタッフが1人、そして私が仕入れの時などには時々妻に手伝ってもらっていました。

開店して最初の2か月間ぐらいは知人や友人、サラリーマン時代の取引先の方々にもよく来店していただき、何とか最低目標は達成していましたが、2か月目ぐらいから徐々に売り上げは下降線、3~4か月目には月商200万円にも届かなくなってしまいました。

家賃とスタッフの給与、それにもろもろの経費を差し引くと、私の手元に残るのは月平均15万円程度、1家6人(当時は娘2人の他に私の両親も同居していました)で暮らすにはとても足りませんでした。

そこで私は、お店は妻に任して、昔のつてを活かして、ジャスコ(現イオン)や長崎屋さんなど、大型店の臨時店頭販売や各地の輸入雑貨の展示販売会の出張販売に出歩きました。

その頃は、輸入雑貨のブームという事もあってそれなりの売り上げがありましたが、自家用車のトランクや後部座席はもちろん助手席にも目いっぱい荷物を積んで、汗まみれで会場の準備や商品搬入をしたことが今でも思い出されます。(ほどなくワンボックスカーを購入しましたが・・・)

1家6人、特に子供たちには不自由なく生活させたいという思いから頑張れたと思っています。

私が、そのような行商のような出張販売を始めてから2か月目ぐらいから、お店の売り上げの数字が毎月ぐんぐん伸びはじめました。

出張販売を初めて1年ぐらいして、妻からは「お父さん、もうお店の売り上げだけで何とかやっていけるよ」と言われました。

妻に任せてからの、お店の売り上げは右肩上がり1年後には年商5000万まで伸びていました。

何が、私と違ったのか、会計事務所のパートをしていてそれまでも殆ど経理畑の経験しかない妻が・・・

1つ目は、仕入れのきめの細かさ、私のように見た目やデザインだけで判断するのではなく、使う立場で使いやすさを判断したり、色ごとの仕入れもきちんと売れる色とそうではない色にメリハリをつけたり、ガサツな私にはまねのできないものでした。(もちろん経費の使い方や、店の管理上の事にも活かされていました)

2つ目は、接客の上手さです。穏やかにゆったりした話口でお客さんとの会話が出来るのは、私には到底まねができませんでした。(妻は今でも他のお店に出ていると、その頃のお客様にお声をかけられることがあります)

そして3つ目、陳列技術です。妻はそれまで全く商売の経験がありません。しかし、妻の商品ディスプレーは天下一品、天性のものだと私は思っています。

どんな商品でも、どんな状況でもきちんと素敵なディスプレーができる技術は本当に目を見張ります。(その技術は今でもお店で活かされています)

妻にこんな才能があったとは本当に驚かされました。(もっとも本人が一番びっくりポンかもしれません)

でも一番の妻の実力、それは私の経営者としての経営判断のよき理解者であり、よきアドバイザーであるという事です。

東日本大震災の時には、迷っている私に「お父さん、私たちは何にもないところからここまでやってこれたんだから、私たちの財産がゼロになるまで従業員にできるだけのことをやっていきましょうよ」この一言が、どれだけ励みになったか・・・そして、その後のわが社の継続・発展に繋がったか、はかり知れません。

妻に感謝です。

今日は、珍しくまじめに記事を投稿させていただきます。(これでオチをつけたら今夜の我が家は大変ですから・・・)

七夕

写真は開業当時の仙台七夕での店頭販売のワンショットです。今年は仙台七夕はコロナの影響で中止です。残念です!(ノД`)・゜・。

次回は、その出張販売の時のエピソードをお話しさせていただきます。

まさに穴がったら入りたい状況のお話です。





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