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喪主挨拶

一年前の今日は、父の告別式でした。

長男なので喪主です。18日に亡くなり、本来なら翌日が通夜でしたが、友引ということで通夜が一日ずれたため、ゆっくりと別れの時間を過ごし、喪主挨拶も一日かけてかき上げることができ、私のこれまでのスピーチの中でも一番の出来のものになりました。

せっかくの原稿なので、どこかに残したいと思い、ここに投稿することにしました。

一年って、あっという間ですね。


喪主挨拶

父の病気は、6年ほど前に患った肺炎が悪化して、特発性肺線維症という国の指定難病とされている病気でした。

この病気は、呼吸をしても肺から酸素を取り込むことができなくなるというものです。
いくら体が元気でも、酸素が取り込めなくなるので生きることができなくなるのです。

通常、私たちが普通に生活しているときの酸素の量を100とした場合、父は安静時でも80~90程度の酸素しか取り込めない状態で、少し動くと70程度まで下がる、そんな状態で生活していました。
通常は、酸素量が80台にまで落ち込むと、いわゆる酸欠状態になるのです。
父にはそんな状態が日常でしたが、趣味の登山のお陰で体は強くて、こんな状態でも落ち着いて生活をしていました。

昨年の11/19に急に病状が悪化し、救急搬送されて以降、入退院を繰り返していましたが、最近は落ち着いて、散歩程度の外出もできるように回復していたのです。

ところが、11/15日(金)に少し体調がおかしいと言った翌日、自宅で倒れ救急搬送されました。
それでもこの時点ではまだまだ元気そうで、ゆっくり休んで治療をすれば、また家に帰れると誰もがそう思っていました。

しかしながら、お医者様からは父のいるところで、最悪の事態が突然起こりうる状態であると告げられました。

そして、11/18、当日の朝まで元気にしていたそうですが、昼過ぎに、容態が急変したのですぐ来るようにと病院から連絡がありました。
到着した時点で計器の酸素量は60台にまで落ち込んでいました。

医師は、この数値は通常意識を保てないレベルで苦しくて暴れて錯乱状態になるような状態だと仰いました。

見る間に、数値が50台、40台と落ちていく中、苦しそうに、必死に呼吸をしながらも、私たちの手を握りながら、最後まで戦い抜き、15:35、最後はそれまでの苦しみが嘘のように、家族全員が見守る中で静かに息を引き取りました。

今、父は、そんな苦しい最後だったことをまったく感じさせないような、これまでで一番の、優しく、穏やかな表情で眠っています。

父は、家庭では厳しく頑固な人でしたが、皆さんの前ではどんな人だったでしょうか?
皆さんに共通するのは「苦しむ姿や、弱い姿を見せて、周りの人を心配させたくない人」だったと思うのです。
だから、みんなが、父を「頼れる兄貴」のように思ってくださっていたのではないかなと感じています。

皆さんに訃報の連絡をした際に「葬儀は家族葬で行います」とお伝えいたしました。
通常はごく近しい身内だけで営むのが家族葬ですが、にもかかわらず、仕事関係の皆さん、昔からのご友人、山の仲間、こんなにもたくさんの方が来てくださいました。

皆さんが、父を、かきさんを、ひろちゃんを、街のフクロウさんを、家族のように大切な存在だと思ってくださり、家族として今ここに居てくださる、そう思っております。

人は、二度死ぬ、と言われます。

一度目の死は、誰もが避けて通れない死です。
二度目の死は、忘れられてしまうことです。
この、二度目の死はね、亡くなった人は悲しいんです。

皆さんの心の中で、父がいつまでも元気な姿で笑っていられるように、皆さんがどこかで集まるときには、たまに父のことを思い出して、その集まりの中で父の名前を呼んであげて欲しいなと思います。
そうすれば、父に二度目の悲しい死は訪れません。

今日は、たくさんの家族に囲まれ、父はとても喜んでいると思います。

さあ、山に行ってこよか♪
そう言いたくなるような、暖かく穏やかな今日、父はこれから山登りに出掛けます。

このあと、みんなで行ってらっしゃい、楽しんで行っておいでや♪と、笑顔で送り出してあげたいと思います。

突然のことにも関わらず、来てくださった皆様に、家族を代表し、そして、父に代わって、心より御礼申し上げます。
ありがとうございました。

令和元年 11月21日

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