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かくて救世への道を往く(5)

窮地


 四速での高速走行中、綾はハンドルをわずかに傾けると同時にサイドブレーキのレバーを思い切り引き上げた。彼女の車はリアエンジン・後輪駆動という極端なリアヘビーの車両特性を持つから、これだけで凄まじい勢いのスピンが始まってしまう。が、綾は車が制御を失う境をESPで見極めてレバーを解放、同時に二速へシフトダウン、クラッチを繋いでアクセルをベタ踏み。神業的な百八十度のサイドターンを決めると、背後に迫っていた追っ手――三台の車へ向かって猛然と走り出した。

 正面衝突まで、あと、コンマ数秒。

 その間に追っ手の運転手が気付いて、それぞれ慌てて急ハンドルを切った。が、生憎彼らはESPなど持ち合わせていない。無謀極まりない急転進によって二台が互いに衝突、大破。一台は急な方向転換にタイヤのグリップが耐えきれず横転を始める。

 綾は細かく、そして大胆に左右へハンドルを捌き、大破した車の間を縫って見事にすり抜けていった。

「これで、八台潰した……あと二台」

 三速から再び四速へシフト、時速百キロメートル弱の速度をキープしたまま国道一号線沿いに品川方面へ。行き交う一般車両を右へ左へと躱すうち、いつからか二台のスポーツカーが綾のワーゲンの左右を挟み込むように併走し始めた。

「排気量だけでもこちらの倍以上あるのに、二台も……。弱い者虐めね、全く」

 吐き捨てつつ右手側を走る車を睨む。開いたままのウィンドウから、ドライバーの手に握られたサブマシンガンの形がはっきり見て取れた。
 が、こちらに銃の狙いが定まるその刹那、綾がいきなり右へハンドルを切る。スポーツカーと激しく接触、その拍子にサブマシンガンは道路へ落ちる。

「瑤子、お願い」
「はいっ!」

 後部座席の瑤子が呼びかけに応じ、ワーゲンの天井、開けたままのラグトップへ手をかけ外へ飛び出し、スポーツカーのウィンドウへ足から飛び込んでいく。そのアクションに伴ってEXが発動、時間が止まった中で敵のドライバーに全体重を乗せた強烈なドロップキックが炸裂。時間が再び動き出す頃には、彼女の小さな身体は再び綾のワーゲンの天井、ラグトップを潜って元いた場所へ収まっている。

 実時間にして、わずか一秒弱。
 それでスポーツカーの片方は失速、置き去りにされていった。

「残りは、一台……」

 こちらは小細工などしなかった。仲間が囮になっている内に車の性能をフルに活かして急加速、あっさりワーゲンを追い抜くと、進路上に躍り出て急ハンドル、パワードリフトをかける。グリップ力抜群の太いタイヤが獣の咆哮にも似たけたたましいスリップ音を響かせ白煙を噴き上げる中、車体の側面が綾の視界を塞ぐ。
 もはや自滅覚悟、綾のワーゲンを己の巻き添えにしてでも足を止めるつもりらしい。

 敵ドライバーの覚悟を事前に感じ取っていた綾は、こうなることをおぼろげに予知していた。
 けれど、対応しきれなかった。
 ブレーキをかけつつ衝突まで時間を稼ぎ、わずかに車体を左右に振って逃げ道を探すも、向こうもレーサー並みの腕前があるらしい。カウンターを当てつつタイヤの滑りをコントロールし続けている。突破できる隙が見つからない。

 右には中央分離帯、左にはガードレールと路上駐車の一般車両。
 逃げ道は塞がれた。このままだと二台は衝突、頓挫せざるを得ない。

「なら、そのまま行くまでよ……!!」

 ハンドルは真っ直ぐ、衝突コースに乗せた。
 しかし衝突の寸前、綾は素早く二速へシフトダウン。同時にフルスロットル。エンジンの回転数をレッドゾーンに飛び込ませた。

 直後、ドリフトを続けていたスポーツカーのタイヤが一輪、極端な摩耗と熱膨張に耐えきれずバーストする。操作不能に陥って凄まじい勢いでスピン、綾のワーゲンと正面から向き合う。

 スポーツカーの車高は低く、フォルムも流線型。
 そこへ、急加速の直後で前輪に荷重のかかっていない小型車の鼻面が勢いよく乗り上げる格好になる。

 綾の狙い通りに――。
 相手をジャンプ台にしたワーゲンが、派手に火花を散らしつつ宙を舞う。

 たださすがに、着地まで鮮やかにはいかなかった。サスペンションが軋みタイヤが著しく変形、その煽りで車が跳ね、姿勢は乱れに乱れる。しかし、綾は絶妙のハンドル捌きとアクセルワークで不安定な挙動を強引に押さえ込み立て直した。致命的な損傷は皆無、その場から全力で走り去る。もちろん、敵のスポーツカーはもう少しも動けない。

「敵意の網から完全に抜けた……。無人ヘリは……離れていく? 久瀬さんがいないことにやっと気付いたのかしら」

 とにかく、進行方向に敵対者はいない。
 ごく普通の街並みが続くだけだ。

 綾は、詰めていた息を吐いた。

「瑤子、大丈夫?」

 結い上げていた髪を解いて風を入れつつ、後部座席に声をかける。

「な、なんとか、辛うじて生きてます」

 後部座席で横になり、四肢を伸ばして踏ん張っていた瑤子にも、特に怪我はなさそうだ。

「そのまま休んでいて。しばらくは静かなはずよ」
「休まなきゃいけないのは、綾さんの方じゃ……」
「あら、気遣ってくれて有り難う。でも、今は非常時だから。頭痛くらい我慢しないとね。先にやるべきことを済ませましょう」

 綾は車のスピードを落とし、環七通り手前の路側帯に停めた。エンジンはかけたまま、車を降りて後部へ回り、エンジンフードを開けて放熱を促す。

「あなたも私と同じ、か……傷だらけで焼き付く寸前。でも、よく頑張ってくれたわ、お疲れ様」

 愛車にねぎらいの言葉をかけた綾は、油温の低下を待ってからエンジンを切った。グローブボックスから懐中電灯を取り出し、前後フェンダーの内部とサスペンションを確認し始める。

「……ひなたセンパイは、無事なんでしょうか」

 点検の様子を見ていた瑤子が、車内から訊く。

「ええ、久瀬さんと仲良く麻布の上空を漂っているわ。何の話で盛り上がっているのかしらね、全く」
「えっ? 霞ヶ関か市ヶ谷に向かったんじゃ……」
「みつきのことだから、私の話をすっかり忘れているのかしらね。でも大丈夫、みつきと久瀬さんを狙っている敵意は今のところ一つもないし、地上でも私たちがあれだけ派手に立ち回ったのよ。混乱した現場を立て直して次の行動に移るまで、もうしばらく時間がかかるでしょう」

 その時、どこか遠くで交通事故の起こる音がする。図抜けて鋭い瑤子の耳がこれを拾い上げた。車を降り、はるか後方の夜空を睨む。

「……確かに、後ろの方でまだやってますね。事故に見せかけた道路封鎖」

 これに、綾が怪訝な表情を見せる。

「進行方向でなく後ろなの? それは不自然よ。いくら目的のために手段を選ばない連中でも……いえ、だからこそ、達成目標に対して無駄になるリスクやコストは決して払わない。それが連中の常道よ」
「でも聞こえるんです、音が。……あ、また」

 確信のある瑤子の表情に、綾は一抹の不安を抱く。
 やむなく目を閉じ呼吸を整え、パッシブ・キャリバーを大きく解放、頭痛を堪えつつESPを発動させる。

 確かに、事故に見せかけた道路封鎖は今も続いていた。
 が、それは愚直に命令を実行しているのみ。
 指示を出している指令側の手がかりが全くない以上、命令の意図まで感じ取るのは不可能だった。

「あたしと綾さんを、都心から閉め出そうとしてるだけ、でしょうか」

 瑤子の分析だ。

「センパイとお兄さんが空に逃げたことを悟られていなければ、地上を探し始めるはずです。その時、あたしと綾さんを遠ざけておけば、かなりの人を捜索に回せます。いざ攻撃に移るにしても、あたしたちがいない方がやりやすいでしょうし」

 瑤子は元より頭の回転が早い。分析に破綻も感じなかったし、綾も納得してESPを閉じようとした。

「……いえ、待って」

 綾が目を見開く。顔が狼狽に歪んでいく。

「おかしいわ……こんなはずはない! 変よ!!」
「? 綾さん、どうか……」
「どこにもいないのよ! 狙撃をしてきた連中も、私たちを止められなかった連中も、次の指示を受けて移動を始めているみたいなのに……みつきと久瀬さんを捜そうとしている連中が一人もいない!」
「じゃあ、とっくに見つけられて……」
「だとしたら、二人が今までノーマークでいられた訳がない。さっきまで私たちを執拗に狙っていた理由もなくなってしまう。これではまるで……」
「あたしたちを分断することだけが目的だった?」

 二人が、顔を見合わせる。

 ――と。

 綾の車の後方、一区画離れた場所に一台のタクシーが停車、二人の客が降りてきた。手にした携帯電話で通話中の黒人女性と、料金を支払って運転手へ礼を述べるレスラーのような巨躯の白人男性。
 その黒人女性が、携帯電話を閉じて懐に入れると、いきなり綾と瑤子を睨み付けてきた。
 電話の相手から何かの指示があって、黒人女性が従った。そういう風に見えた。連れの大男もこれに気付き、去りゆくタクシーを見送った後で同じように綾と瑤子を睨み付ける。

 はっきりと、わかる。
 明確な敵意。

「足の運び方が普通の人じゃないです、あの二人。たぶん軍隊の……」
「いいえ。二人ではないわ」

 綾が言った直後、今度は前方にタクシーが停まる。ここから降りた三人の客が同じように敵意を剥き出しにして近付いてきた。さらに、道路の反対側になる歩道を走っていた三台のMTBが急停車。サイクルウェアを着た三人のライダーが、携帯電話につながるヘッドセットを外して道路を渡ってくる。

 都合、八人。

 周りを取り囲みつつ、距離を狭めてくる。
 一般の歩行者たちは只ならぬ気配に気付いて足早にその場を去り、あるいは集まってくる八人の誰かに突き飛ばされ追い払われた。

「コーヒーショップの連中と同じね。全員が拳銃とナイフを隠し持っているわ」
「数だけ集めても、って言いたいですけど……」
「前と同じようにはいかないわよ、瑤子」
「わかってます」

 瑤子は言いつつ、両の拳にハンカチを巻き付ける。

「それにしても謎だらけね。国家機関の連中が私たちを直接狙うなんて、まず有り得ない話だけれど……」
「でも、この雰囲気だと間違いありませんよ」
「ええ、今は降りかかる火の粉を払いましょう。……全く、面倒臭いこと」

 綾は視線を敵に向けたまま、後ろ手に車のドアを開けてダッシュボードに手を伸ばす。取り出したのは掌大の黒い箱、護身用スタンガンだ。動作を確認するため一度だけスイッチを押すと、放電端子から散った青い火花がバチッと音を立てた。

 それを合図に、瑤子が地を蹴った。

 走り出した彼女が向かうのは、こちらに最も近付いてきている黒人女性と大男の二人組。油断は微塵もない。いきなりEXを発動させるつもりで、潜在的な膂力を残らず絞り出す。小さな身体が人類最速と呼ぶべきスピードへ乗って、彼女は時間の流れという絶対の物理的な軛から解放される──。

 はず、だった。

 突然、瑤子の頭部に何かが触れてきた。

 その何かは頭蓋を通り抜け、脳髄へ入り込んでくる。形容しがたい不快感に背筋が震え、意識が嫌悪で満たされた。それで頭の中から何かを追い出すことはできたが、精神の集中が乱れてEXは発動しなかった。一瞬、無防備な隙が生まれてしまう。
 ただ、その隙は隙と呼べるものではない。瑤子の反射神経は常人の域ではないのだ。EXの発動に失敗する瞬間を感じ取ってあらかじめ行動を起こしておかない限りは間に合うものではない。

 ところが、眼前の敵はその隙を確実に突いてきた。

 瑤子がはっと気付いた時には、大男が体当たりを仕掛けてきていたのだ。視界を完全にふさいだ大男の巨躯はまるで熊か牛だ。まともに衝突すれば無事では済まない。瞬時に瑤子は身体を捻って横へ跳び、躱す。まさに間一髪。
 が、その瑤子の跳躍とまったく同時に、大男の身体がわずかに傾ぐ。
 躱したはずの体当たりが、大男の肩が、瑤子の胴をわずかにかすめてしまう。

「うグッ……」

 腹部を突き抜ける衝撃。激しい痛みと嘔吐感に気が遠退く。瑤子は宙でバランスを崩し、地面へ落ちる。受け身も取れなかった。
 が、それでも歯を食いしばって腕を突っ張り、地面へ落ちた反動を利用して撥ねるように立ち上がって距離を取る。相手に次の攻撃を許さなかった。
 それを見た大男が、ひゅう、と口笛を鳴らした。あれでよくもと感心した風に。

「こ……っ、この、人、っ……」

 額に脂汗を滲ませた瑤子の顔が歪む。
 痛みよりも、驚きと焦りのせいで。

 先刻、EXの発動を妨げた違和感。その正体を瑤子は知っていた。そして確かに見た。頭の中に入り込んできた何かを嫌悪で追い出した瞬間、遠くにいた黒人女性が雷に打たれたように全身を震わせ、頭を抱えてその場に頽れたことを。
 彼女は今も倒れたままだ。気絶しているらしい。
 その理由は、側で見ていた綾にも察しがついた。いや、綾だからこそ察しがついた。

「まさか、この連中……まさか」

 呆然と呟く綾の背後に、道路をわたってきたMTBライダー三人がナイフを手にして物も言わずに飛びかかる。これを察した綾はわずかに一歩立ち位置をずらして躱し、相手が手を伸ばしてくる場所にスタンガンを突き出そうとする。

 が、立ち位置を一歩ずらした時点で先が読めた。
 そこに敵の手が伸びてくることは、絶対にない。

 だから綾は、攻撃に用いるはずだった一瞬の間を使って逃げに徹する。
 相手との距離を少しでも多く取ろうとステップを切る。

 瑤子と違ってその動きはきわめて遅く、運動の苦手な女が不器用に身体を捌いているとしか見えないのだが、それは綾に襲いかかろうとする相手にとっては常に予想外の場所へ動き続ける絶妙のフェイントとして映る。自分の周囲にあるもの全ての流れを読んだ上で敵の動きを予知・予測し、その上で安全な場所へと逃げているのだから、これを追い切れる者などそうはいない。いないはずなのだ。
 しかし不完全ではあるが、MTBライダーは確かに綾の動きを追いかけてきた。三人が三人ともだ。

 その答えは、ただ一つ。

「この連中、全員が訓練されたESP能力者……!!」

 しかし結果として、綾はMTBライダーを振り切って瑤子の側まで逃げおおせた。彼女の身体能力やヒールのあるブーツというハンデを考慮すれば、ESP能力者としての格は綾の方がはるかに上だと結論していい。
 しかし、問題なのは相手の数だ。

「あ、綾さん、これ、どういうこと……」

 綾と背中を合わせつつ、瑤子が訊く。

「研究所が壊滅した後も、どこかの情報機関かその系列組織が断片化したデータを元に超能力研究を継続していたんでしょう。噂にすら聞いたことはなかったけれど、それ以外に考えられないわ」

 そう考えれば、これまで起きていた全てのことに説明がついた。
 連中が久瀬の命を狙っていたことも、道路封鎖の意味も、何もかも。

「隠された真実はいつもシンプルなものだって、どこかの名探偵も言っていたけれど」
「ど、どうすればいいですか。どうやったら……」
「どうしようもないわ。これでは絶対に勝てない」

 それは、避けられない未来──予知。

 喩えるなら、チェス盤の上で勝負の行方を読むようなものだ。駒の配置からゲームの展開か推測できるように、人の感情のゆらぎやエネルギーの流れを感知できれば、近い将来にどういう結果が出るのか予測が可能になる。この中でも特に確実性が高いものを[予知]と呼ぶのだ。
 その意味では、綾と瑤子はビショップやルークに喩えられる強力な持つ駒であり、二人を取り囲む敵は八個の非力なポーンと言える。一対一なら負けはしないが、これだけ駒の数に差があればやがて追い込まれて詰まされるだろう。逆転を望むのなら、もっと強力なクイーン級の駒を味方につける──いや、チェス盤をひっくり返してゲームそのものを無かったことにできる絶対的な力に頼るしかない。

(……みつき、聞こえる? みつき!)

 綾は思念波を収斂して外部へ発振、都心上空を漂うみつきに向かってテレパシーを送り込む。自分たちが危機に陥っているから大至急助けて欲しい、そう伝わりさえすればみつきは必ず駆けつけて、自分たちを取り囲む敵を一蹴してくれるはずだ。
 そして、テレパシーは確かにみつきの元へ届いた。意思疎通は完了した。そういう感触があった。

 しかし、みつきは動かない。上空に留まり続ける。

「どっ……どういうこと?! みつき、みつきっ!」

 慌てた綾は再度テレパシーを送るが、途中で断念せざるを得なかった。自分たちを取り囲む敵が一斉に動き、綾と瑤子の元へ殺到してきたのだ。

「……ッ、瑤子、逃げなさい! あなた一人なら逃げ切れるわ! 早く!」

 だが、そんな指示を瑤子が聞き届ける訳がない。

「えっ……でも、こんな大勢に綾さんだけじゃ」
「二人まとめて連中の手に落ちるよりマシよ!」

 その言葉の途中、敵の手が綾のところへ伸びてきた。綾はこれを甘受するつもりだった。
 しかし、瑤子は咄嗟に綾の前へ身体を滑り込ませ、敵の手を捻って投げ飛ばす。

「……ああ!」

 綾が嘆きの声を漏らす。

 これで、チェックメイト。

 そう思った瞬間、綾の脳裏に一つのイメージが像を結んだ。放置された愛車の姿と、歩道の隅に転がるスタンガン。そして、アスファルトの上に残った血痕。これは自分のもの、いや、それとも瑤子だろうか。それを、何も知らずに行き来する歩行者たちが踏みつけていく。そこにいるべき自分たちがいなくなっていることに誰も気付かない。
 それは、ESPを元に描き出された未来。絶望的なほどに鮮明な未来予知図。

「一人一人は、大したことないっ……これなら!」

 自分を守ってくれた瑤子の元気な姿は、綾にとって敗北の象徴でしかなかった。



 一方、東京上空。

「今、狙われているのは、本当に俺なのか?」

 その至極真剣な久瀬の言葉に、みつきは失笑を返してきた。
 至近距離で見ると実に腹立たしい。

「……何だ、その顔は」
「いやー、ここまで疑り深い人も珍しいなあって。久瀬さん、ホント近いうちにハゲちゃいますよ?」
「茶化すな」
「そんな怒らなくても……。ていうか、そんなの疑問に思うとこじゃないでしょ。襲ってきた人たち、間違いなく久瀬さんを殺そうとしてたし、その理由もありますって」
「それは確かなんだが、しかしな……」

 久瀬が言いかけた時、急にみつきが顔をしかめた。

「おい、どうした? 身体、震えてるぞ」
「……この感じ、綾?」
「は?」

 何のことだと訊ねる気持ちを久瀬は目に込めたが、みつきは無視をした。

「気持ち悪いな、もう。人の頭ん中にいきなり土足で入ってきなさんな、危うく拒絶するとこだったよ。ユニゾンしてる訳でなし、少しは考えて……」

 虚ろな目で独り言を呟き始めたその姿は、気でも触れたように思えなくもない。ただ、何が起きているのかは久瀬にも想像できたので、黙って待ち続ける。

「何よ、合流したいの? 久瀬さんどうすんの? は? 嫌だって、やだやだ。この人は無傷できっちり送り届けるの、そう決めたの。無理って何よ、わけわかんな……ん?」

 ふいに、みつきの目の焦点が合う。

「……何だったんだ?」
「綾からのテレパシー。でも切れちゃった。切羽詰まった感じだったけど……あれ?」

 突然、みつきが左右に首を振り始める。

「今度は何だ。またテレパシーか」
「違うの、誰かに見られてるような、ヤな感じ……」

 その言葉尻は、空気を裂く音にかき消される。

「ひ、ひえっ?」
「何だ……?」

 ――ヒュンヒュン、ヒュン、ヒュヒュン。

 二人のすぐ側を、凄まじい速度で飛翔する無数の小さな物体が通り過ぎていく。本能的な恐怖は感じるが、その物体が何なのかは目で捉えられない。

「ちょっと……まさか、これ」

 みつきが顔色を変え、久瀬を抱く腕に力を込めた。
 そのわずか後、飛翔する何かが収束してきて二人を直撃する。正確には、みつきが周囲に張り巡らせた直径二メートルほどの〝絶対に守る〟というイメージ──サイコキネシスの障壁に阻まれているのだが。

「な……何だ、この火花……」

 飛翔する物体が障壁に跳ね返される際。花火に似た小さな光が障壁の前面でいくつも弾け、その光と同じ数の甲高い金属音が耳朶を刺す。

「これ……跳弾か?! 銃撃されてるのか?!」

 風の音が邪魔をしているのか、それとも相当な遠距離から攻撃しているのか。銃声は全く聞こえないが、すさまじい数の弾丸が襲ってきているのは確かだった。

「どっちだ! どこから狙われてる!」
「あ、あっちの方……だと、思う……けどっ」

 みつきの額へ、みるみる脂汗が浮き上がってくる。息苦しさに顔も歪む。
 障壁を張るというのは、銃弾の威力に拮抗するアクティブ・キャリバーを連続して生み出しつつサイコキネシスとして宙に固定する作業だ。極大の破砕波を連続して放った方がはるかに楽なくらいだから、それだけ精神力の消耗は急激、かつ深刻である。
 もし、疲労で集中力が途切れようものなら、最悪、二人揃って墜落死だ。

「だ、めだ……ごめん、久瀬さんっ」

 みつきは防御を諦めた。障壁を張り巡らせるよりも高速で空を飛ぶ方が容易いから、機動力で狙いを外して回避しようと考えたのだ。
 その際、みつきの身体は余すことなくサイコキネシスの影響下にある。急加速・高機動回避で発生するGや空気抵抗などの物理的な障害はほぼ無視できる。
 しかし久瀬はどうか。彼を抱いているみつきの細い腕は、サイコキネシスによって鋼鉄並みの強度を得ていると考えていい。この状態で激しく飛び回れば――。

「……っ、が……うぐあっ……!!!!」

 久瀬の肋骨は過負荷に軋み、四肢の関節は引きちぎられんばかりに振り回され、上下の感覚は喪失して嘔吐感と目眩に襲われることになる。拷問も同然だ。
 そうなることは、みつきも重々わきまえていた。だから障壁を消す前に一言謝ったのだし、多少なりと加減はしたつもりだった。
 けれど、みつきが思うよりも、生身の久瀬ははるかに脆かった。

「ご、ごめんなさ……わわっ、大丈夫ですか?!」

 慌てて回避運動を中断するも、久瀬は苦しそうな声を上げるばかりでなかなか応えが返ってこない。
 こればかりは彼を責められない。みつきの方が異常なだけなのだ。

「ど、どうしよ……どうしたら……っ、うわっ!」

 戸惑っている間に再び銃弾が襲いかかる。慌てて障壁を張るが、これもそう長くは続けられない。どこに敵がいるのかわからない以上、安易に地上へ降りるのも躊躇われる。

「ど、どうしよ、どうしよ……どうしよっ……」

 サイコキネシスに必要な集中力を絞り出しながら、みつきは耳から煙が出そうなほど必死で考えた。

「まずは、銃を撃ってる奴を黙らせればっ……」

 状況を変えるには攻撃あるのみ。みつきは自分の首に回された久瀬の腕を一旦引き離すと、身体をずらして彼の頭を胸の中に抱え込む。

「……っ、んなっ?!」

 久瀬が驚くのも当然だ。いきなり柔らかな胸の谷間が顔に押しつけられたのだから。

「久瀬さん、しっかりしがみついてて! ずり落ちないように服とか握りしめて!」

 久瀬の方には考えている余裕などない。言われた通りにみつきの背に腕を回しす。

「できるだけ自分も空を飛んでるイメージをして! それが無理なら、私と身体が融け合って一心同体になるとかでもいいから! しんどいと思うけどちょっとだけ我慢して、すぐ終わらせるから!」

 言うや否や、みつきは高速移動に移る。弱い障壁を進行方向に維持しつつ、銃撃が来る方角へ猛然と向かっていく。本当に真っ直ぐ飛べば直撃を受け続けてしまうから、多少は左右に身を振って回避運動を取る。久瀬の頭を胸に抱いたのは、彼の首が不必要に揺さぶられるのを防ぐためだ。

 けれど、久瀬の身を思いやっていては、とても銃撃を避けきれない。
 ほんのわずかながら、砕けた弾丸が障壁を突き破ることもあった。

 だからみつきは、そうした破片をすべて自分の身体で引き受けた。今の体勢でわずかに上体を丸め、斜め上後方へ飛び続ければ、久瀬の身体が射線に晒される面積は最小限に抑えられる。あとは防御のため本能的に割り振られるサイコキネシスに任せたのだ。
 当然、これには多少の衝撃と痛みが伴う。服も背中から肩にかけて引き裂かれる。弾丸の破片は相当な熱を持つから、少なからず火傷も負うことになった。が、耐えるしかない。我慢するしかない。

(こうでもしなきゃ、久瀬さんが死んじゃうっ……)

 みつきの頭を占めていたのは、その思いだけだ。

 しかし、本当に辛いのはむしろ、久瀬の方だった。

「お、おい……日向っ……」

 みつきの胸に抱かれて、守られて。見上げた先にある彼女の顔、仄明るい月明かりが見せるその表情は、苦痛に耐えて歯を食いしばっていた。

「っく……!! ひ、っ……」

 震える口元から苦痛の声が漏れる。轟々と鳴る風の中でも、その声は久瀬の耳に届いてくる。
 いくら超能力者と言えど、銃弾が当たって尚も平気な訳がない。こんな状況でいつまでも保ちはすまい。もう止せ、こんな無茶は今すぐやめろと衝動的に叫びそうになる。

 しかし、彼女が今、危険を冒してでも自分を守ってくれているのは何故か。久瀬隆平という男にはそれだけの価値があると、そう信じてくれているからではないのか。

 彼女の気持ちを無にするような言葉を、迂闊には吐けなかった。

 だから久瀬は、みつきに言われた通り一心同体になるイメージを真剣に持ち続ける。しがみつく腕に力を込め、目を閉じ、余計な事は何も考えずに。

 幸いなことに、その久瀬の覚悟は確かな力となってみつきに還元された。
 動かぬ他人を強引に引っ張っている意識が薄くなって、アクティブ・キャリバーが容易にサイコキネシスへと転化していく。そうなれば障壁も厚くなるし回避行動も機敏になり、被弾率は一気にゼロへ近付く。

 時間にして一分強。自分に身を委ねてくれた久瀬に感謝しつつ、みつきは数キロメートルの距離を一気に詰めた。背を向けて飛んでいるために敵との間合いは視認できなかったが、機関銃の銃声としか思えない破裂音と、ヘリのローターと思しき機械の駆動音が鼓膜を破らんばかりに強く響き始めた。
 ヘリに乗った敵が、大型の銃でこちらを銃撃していると見た。音だけでここまで識別できるなら敵はすぐ近くにいるはず。パッシブ・キャリバーが教えてくれる漠然とした敵の殺気も、その推測に裏付けを与えてくれる。

「……うっしゃあっ、今度はこっちのターンっ!」

 みつきは一旦急上昇、宙に静止して身を翻した。幾多の騒音と殺気を見下ろす形で敵の姿を視認するためだ。あとはサイコキネシスで敵の銃身をねじ曲げるなり、狙撃を可能にしているスコープなり暗視装置なりを破壊するなりすればいい。

 しかし。

「へっ?」

 みつき、素っ頓狂な声を上げ、絶句。

 久瀬も追って目を開く。
 みつきの胸の中から顔を上げ、凍り付いている彼女の視線の先を追った。

「な、っ……」

 呆然、戦慄、驚愕。
 そして同じように、絶句。

 二人の目に映ったのは、米陸軍の主力戦闘ヘリコプター、AH-64Dアパッチ・ロングボウBlockⅢ。通称、空飛ぶ戦車。あるいは世界最強の戦闘ヘリとも言われる。たった一発で人間を粉微塵に粉砕する30ミリ弾を毎分650発も発射するチェーンガンを固定装備し、機体両翼にあるハードポイントには装甲車すら吹き飛ばす七十ミリロケットランチャーポッドを四つもぶら下げている。

 そんな剣呑な相手が、なんと五機。
 扇状の見事な編隊を組んで飛んでいた。

「あ……あは、あははははっ、はははははっ」

 急に、みつきが笑い始めた。

「あは、あははは。ねえ見て久瀬さん、でっかい変な虫がいっぱい飛んでるねっ!」
「落ち着け日向、正気を保て」
「えーと、一応訊くけど、これ、夢だよね?」
「残念ながらクールな現実だ。さっきそう言ったのは君の方だぞ」

 くだらない話をしている場合ではない。急上昇したみつきと久瀬を再び射界へ捉えるべく、五機のアパッチ・ロングボウは素早く散開、機首をこちらに向けてくる。ゾッとするほど機敏な動きだ。同時に機首下部のチェーンガンが細かく動いて狙いを定め、即座に発砲。二人に再び砲弾の群れが襲いかかる。

「うわわっ」

 みつきは反射的に回避、全力で横へ飛ぶ。

「うがあっ! うぎゃあっ!」

 咄嗟の動きについていけない久瀬の悲鳴。

「あわわわわわっ、く、久瀬さんごめんなさい!」
「い、いちいち謝るな! そんな暇があるならさっきのバリアみたいな防御をしろ!」
「げっ、そそそそうだ、忘れてた!」

 久瀬に言われて障壁を張り巡らせた端から、機関砲の弾体が障壁を直撃し始めた。

「俺らはずっと、こんな目に遭ってたのかっ……」

 アパッチが活躍したイラク戦争のニュース映像を思い出し、久瀬の背筋が凍りつく。
 装甲車程度なら蜂の巣に変えてしまう攻撃なのだ。チェーンガンの弾丸たった一発でも昨日の松永泰紀が放った破砕波の威力に匹敵するし、事実、防御一辺倒のみつきに余裕は皆無だった。

「あああっ! ひゃー! ひいっ! きゃーっ!」
「パニクってる場合か! 日向、何とかしろ!」
「な、何とかしろって言ったって……」

 反撃することは容易い。みつきの破砕波ならアパッチの装甲も貫けるだろう。しかしここは東京上空。地上には何も知らない人々が今も日常生活を送っている。迂闊に墜落させれば何十、何百という人命が消し飛ぶ大惨事になる。
 何とか搭載兵器だけ壊せないかと一瞬考えるも、これだけ正確な射撃が続き弾幕が形成されている中では正確な狙い撃ちなどとても望めない。ロケットランチャーがうっかり誤作動、暴発、あるいは落下でもしたら、やはり大惨事である。

「あーもう! 一体どーすりゃいいのよぉ!」
「こ、こら日向、手を離すな! 自分の頭を抱えるくらいなら俺の頭を抱えてくれ!」
「ああもううっさい! こんな時に細かいことをゴチャゴチャ言うなあああっ!」
「とにかく海の方に向かえ! これじゃ流れ弾が下の街に落ちる!」
「あ……そ、そか、さすが久瀬さん、頭いいっ」

 みつきは暗く広がる東京湾へと一目散に逃げ出した。当然、アパッチも追いかけてくる。

「は、速い……早すぎるよ、このヘリ……」

 少なくとも久瀬を抱えている現状では、最高時速三百五十キロメートルを越えるアパッチの方が確実に速かった。五機はその優速を活かし、みつきの進路を妨害して湾上へ出さないよう巧みな戦闘機動を取る。もちろん、その間もチェーンガンによる攻撃は続く。上へ下へ、左へ右へ目まぐるしく位置を変えつつ繰り広げられる、死に物狂いの鬼ごっこ。

「う、っ……! ぐ……ッ……」

 久瀬の顔が苦痛に歪むが、今のみつきにはどうしようもない。久瀬もそこはわきまえていて、歯を食いしばってひたすら耐え続けている。

(いい加減、底力が出たっていいのにっ……!!)

 底力というのは、昨夜、松永泰紀を黙らせた時の圧倒的なサイコキネシスのことだ。あれだけの力を飛ぶことに集中させればアパッチを振り切れるはずだ。
 が、残念ながらそう簡単には底力を絞り出せない。これはみつきの脳神経組織が持つシステム的な問題でもあって、彼女が理論上は人類史上最強と呼ばれていることとも関係している。

 簡単に言えば、一定の条件が揃わないと底力は出てこないのだ。

 みつき自身は、その条件はすなわち[怒り]だと思っている。いっそ[癇癪]と言い換えてもいい。決して自分のためではない、他の誰かのために心の底から湧いてくる激しい感情。以前に読んだ心理学の本でも、人間は自分一人だけではなかなか本気を出せないようにできているという記述を見たことがあって、なるほど人間の意志を力の源にする念動力ならそれも当然だと合点がいったものだ。

 しかし、そうわかっていても、感情を自分で制御するには限界がある。
 意図的に怒り狂ってみたところで、それは演技未満の真似事でしかない。

 みつきはふと、久瀬の腕が一本や二本吹き飛んで死にかけてくれれば思う存分逆上できるのではないかと縁起でもないことを考えた。
 が、それは手段と目的を取り違えた話だし、久瀬に対しても失礼極まりない。自分の能力を本当の意味でコントロールしきれていない非を最悪の形で転化しているだけだ。

「せめて、久瀬さんがもうちょいかっこよかったら気合いが入っ……じゃないでしょ私のバカ! ごめんなさい久瀬さんほんとにごめんなさい!!」
「日向? おい、何を一人でぶつくさ言って……」
「ほっといて独り言だから!」

 ただ、ひとつだけ。
 百パーセント確実に底力を引き出す方法も無くはない。
 ただそれは、綾が、瑤子が、あの二人が側にいなければ取れないオプションである。

(今できる範囲のことで、何とかしなきゃ……)

 当たり前の結論だが、迷いを経て腹は据わった。

「うし、こうなったら、最後の手段っ!」
「何だ、妙案でも浮かんだのか?!」
「死んだフリ!」
「……はあ?」

 あんぐり口を開けた久瀬に構いもせず、みつきは素早く周囲を確認、その場で急停止。取り囲むヘリ群に向かってアクティブ・キャリバーを収束、破砕波以前の衝撃波を放った。五機はそれぞれ大きく機体を揺らしたが破損らしい破損はなく、すぐに体勢を立て直し、三倍返しとばかりにこれまで以上の激しさで二人に銃撃を加えてくる。

 いや、銃撃だけではない。
 最も後方にいた一機が、とうとうロケット弾を発射してきた。

「う、うわあああっ!」

 久瀬がこの日二度目の走馬燈を経験している中、

「挑発に乗ってきたっ、狙い通り!」

 みつきは渾身の力を込め、直径十メートルはあろうかという巨大な障壁を張り巡らせる。これで何とか全ての機関砲弾とロケット弾の爆発を防ぎ切ったが、炸薬の爆発が生む熱量は障壁を越えて空気を伝播し、痛いほどにみつきと久瀬の肌を焼いてきた。

 が、次の瞬間、それよりも深刻なことが起きる。

 瞬発的に使える力をほぼ出し尽くしたみつきは、一種のオーバーヒート状態に陥り、気を失いかけて、ゆるやかに墜落を始めたのである。

「ひ、ひひひひ日向あっ! 落ちてるぞ、落ちてるんだよ! ひなたっ、ひなたあっ!」

 泡を食った久瀬が、みつきに向かって絶叫すると。

「……だいじょぶ」

 ぽつりと、静かに、目を閉じたままのみつきが答えた。

 とは言え、何が大丈夫なのか久瀬にはさっぱりわからない。墜落先は人の気配も灯りもないベイエリアの一画、埠頭を基点にして大きく広げられた埋め立て地。震災で生まれた大量の瓦礫や廃材を処分するために作られたものだが、そこへ向かって二人で真っ逆さまに落下していく現実は何も変わっていないのだから。
 高度三百から二百、百。海が視界に入らなくなった。土が剥き出しの地面が迫る。さらに高度は落ちる。八十、五十、三十。名も知らぬ雑草が揺れる様まで見えてきた。三十五、三十、二十。そしてとうとう、墜落死まで残り十メートルを切る──。

 しかし、ぎりぎりのところで。

「……っしゃあ、回復完了! ふぅるぅぱぅわぁ──ッ!!!!」

 わずか十数秒の休息でオーバーヒート状態から立ち直ったみつきは、久瀬を庇いつつ急制動。地上まで残り数メートルのところで落下を食い止めつつ、地面へ極大の破砕波を放つ。大爆発が巨大な大穴を穿ち、舞い上がった土煙が巨大な煙幕を形成。落下地点からかなり遠くにあった埠頭のコンテナ群やクレーン、波打ち際へ張り巡らされたフェンスまでもがその煙幕に呑み込まれていった。

 みつきと久瀬は、大穴の中心、擂り鉢状に窪んだ場所の中央へ安全な着地をする。

「ばあちゃん、悔いばかり残る人生だったよ……」
「久瀬さん、死んでないよ? ちゃんと生きてるから。惚けてないで。っていうか誰がばあちゃんだこら。これでも十八の乙女だっつーの」
「ああ、日向だったのか……。そうか、俺と一緒に死んだのか、可哀想に……。しかし、あの世はずいぶん煙たいんだな、咳き込みそうだ……」

 もはや説明の余地なし。
 みつきは無表情のままで久瀬の頬に往復ビンタを食らわせる。

「……痛いだろ、こら!」
「もう、足りない頭を振り絞ってあの一瞬で必死に考えた作戦なんだから、無駄にしないで早く逃げて。こんな土埃、ヘリが一機でも下りてきたら吹き飛んじゃうよ? たしか、ずっと向こうに埠頭があったはずだから、コンテナとかの陰にでも隠れてて」
「は……? おい、君はどうする気だ」
「何とかしてヘリ全部、海に突き落としてくる」
「一人であんなのとやりあう気か?!」
「だいじょぶ、頑張るし。何とかなるよ。多分」
「無茶言うな! 逃げるんだったら一緒に――――」
「ああもう、逃げるばっかじゃどうにもなんないって思い知ったばっかでしょ! やるしかないの! 攻撃は最大の防御! 大丈夫、力押しは超がつくほど得意分野だから!」
「…………」
「ね、きっと無事に久瀬さんを連れ帰ってあげるから。死なせたりしないから。信じて待ってて。すぐ終わらせるよ、だから、早くっ」

 みつきは久瀬を立たせ、背中を強く押す。が、あれだけの経験をした後だ。久瀬の膝は小刻みに震えていて力も入らず、大穴の中央から地上まで落差五メートルほどの坂道にすら足を取られる。転ぶ。

「早く立て! 走れ! 男でしょ! 根性出せ!」

 叱りつけられ、久瀬はまた立ち上がって走り出す。
 視界は全く利かないが、半ば自棄だ。大穴を抜け出した後も足を無理矢理動かし続ける。

 しかし、頭上からヘリのローター音が少しずつ近付いてきた。
 まだ音は遠く、土煙も揺らいでいないが、その音だけでも久瀬の恐怖を呼び起こすには充分だった。振り向いてもすでにみつきの姿は見えなくなっている。自分一人ではいとも容易く殺されてしまう。死にたくなければ走るしかない。

「糞ったれ……! だいたいお前らいちいち予算使いすぎなんだよ! 情報機関だろうか何だろうがお前らも俺と同じ宮仕えだろうが!! こんな無駄遣い、上司にどうやって言い訳する気なんだっ!!」

 絶叫。
 そして、ふと──気付く。

「……お前ら、だって……。宮仕え……」

 自分の言葉を反芻するうち、埠頭のコンテナ群を目前にした久瀬の走りが歩みに変わっていく。

 とうとう、立ち止まった。

「そ……うだよ、そうなんだよ……」

 今までの違和感が、確証に変わった。

 この状況は、あまりに異常すぎる。有り得ない。

 いや、街中での銃撃や戦闘ヘリの出現そのものは、異常ではあれど有り得ない話ではない。責任の取れる誰かが判断を下せば済む話なのだ。わざわざ超法規的措置という言葉を持ち出さずとも、国家権力の行使、すなわち行政には、常に正邪合わせた無数の選択肢が存在している。
 ここには他国への宣戦布告、つまり戦争すらも含まれるのだから。

 では、何が異常で、何が有り得ないのか。

 作戦立案から実行までがあまりに早すぎるのだ。

 久瀬も中央官庁の官僚として、その仕事に迅速さが求められたことはあった。国の危機という意味で言えば、大災害後の復興計画策定と、致命的な情報漏洩に際し軍すらも動かすという二者は、早急な事態解決のためあらゆる手段を模索しなければならないという根源において全くの等価だ。
 ならば過去、久瀬は有事に際して戦闘ヘリを即時飛ばすような、性急かつ乱暴な判断をしたことがあるか?
 あるいは、そういう判断をした同僚や上司を見たことがあるか?

 ある訳がない。

 内閣官房も防衛庁も諸外国の情報機関も、それが国の行政機関であることに変わりはない。そこには予算や人員を考慮し法案なり作戦案なりを作る役人がいて、それを承認する上司がいて、最終的に全責任を負う政治家が必ずいる。この流れを無視して決まることなど何一つない。通常はどんなに急いでも、その意志決定ルートが一つの判断を下すのに数日前後の時間はかかってしまうのだ。
 役所は腰が重いなどと批判される所以であるが、ただでさえ綺麗事ではすまない現実の中、現場に近いレベルで独断専行が続けばどうなるか。システムは破綻し、秩序は崩壊、権力の所在は不明確となり、世の中は混沌として収拾がつかなくなるだろう。これは小さな独裁者が横行することと同義だ。

 だから現場の役人は、政治家が責任を取ってくれない限りは動かないし、動けない。
 これが行政という権力システムの鉄則なのである。

 故に、久瀬のミスに端を発して戦闘ヘリの出動まで視野に入れた抹殺計画を立て、即時実行へ移すなどは論外。よしんば作戦の発案者が辣腕で、関係諸官の反論をことごとく論破し説得しうるとしても、説明や根回しにどれだけ時間がかかることか。

「無理、だ……無理なんだよ、どう考えても……」

 呟く久瀬の頭上で、空気が激しく動き始めた。
 アパッチが、もうすぐ近くまで下りてきている証拠だった。

「こんなのが、すぐに出てこられるなんて、俺を殺しに来るなんて、できっこない……」

 しかし、現実にヘリはここにいる。何故か?

 もし、何らかの別の目的を持つ作戦の案があって、あらかじめ準備が行われていたとしたら。
 そのための根回しも関係諸官への説得もとっくに終了していたとしたら。
 そして、その作戦のために、久瀬が今夜やらかした失敗が利用されたのだとしたら。

 久瀬の抹殺など、真の目的を達成するためのおまけでしかないとしたら。

「……日向あっ!!」

 久瀬は振り返り、あらん限りの声でみつきを呼ぶ。
 その瞬間、周囲を漂う土煙が一気に吹き飛ばされた。

 元よりアパッチ・ロングボウに装備されているミリ波レーダーに対し、多少の煙幕などは全く障害にならない。久瀬の姿もみつきの姿も上空から丸見えだったのだ。五機はすでに戦闘態勢を取っている。正三角形の編隊を組んだ三機が攻撃目標を中央に捉えて地表すれすれまで降下、残る二機はわずかに高度を取って援護の構えを取っていた。

 これらの攻撃目標は、埠頭にいる久瀬ではない。
 空き地の大穴で一人敵を睨んでいる、みつき。

「日向っ、ひなたあっ! 聞こえないのか!!」

 アパッチ五機分のローターが放つ轟音と、叩きつけるように吹き荒ぶ下降気流の中では、久瀬の声がみつきの元へ届くことはない。が、危機に際して研ぎ澄まされていたみつきのパッシブ・キャリバーが、久瀬の視線と自分に向けられた思念を拾い上げた。

「くっ、久瀬さん?! ちょ、あんた何やってんの! 逃げなさいって言ったのに!」

 振り向いて言うが、その声もやはり久瀬には届かない。
 しかし久瀬は、みつきが振り向いてくれたことで自分の声が届いたと信じ、叫び続ける。

「違うんだ、俺じゃない! 連中が狙っているのは俺じゃないんだ!! お前なんだ!!!!」

 久瀬は悔やむ。もっと早くに気付いていたのに。

 瑤子は言った。先進諸国の情報機関でそれぞれ思惑が違っていて、中には自分たちを殺したいと思っているところもあると。
 ならば、そういう連中がいつまでも三竦みの状態を良しとするはずがない。あらゆる方法で各国政府や情報機関に働きかけ、彼女らの抹殺を総意とすべく外交努力を続けるはずだ。
 そして、久瀬の――情報調査室のミスが発覚し、彼女らの管理能力が日本政府にないとなれば、これを口実にみつきらの抹殺を実行に移すだろう。その判断を世界も支持するだろう。特に、政治・文化・経済・軍事すべての面で共依存の関係にある先進国が足並みを揃えてくれば、日本政府も黙って従うしかなくなってしまう。

 その可能性は、考慮してしかるべきだったのだ。

「早く逃げろ日向っ! 逃げろ、逃げるんだっ! このままじゃ嬲り殺しにされる!」

 久瀬はみつきに駆け寄ろうとするが、ヘリの下降気流による凄まじいまでの風圧に阻まれる。髪が乱れ、引きちぎられんばかりに背広がはためき、身体を後ろへ押し戻す。それでも足を前に出す。

 超能力があることを除けば、みつきはただの女の子だ。身を挺して自分を守ってくれた恩人でもある。そして、決して報われなかった自分の過去を嘆き憤ってくれて、励ましの言葉までかけてくれた。

 その彼女の身体が、銃弾やロケット砲でズタズタに引き裂かれるなど──。

「頼む……逃げろ、逃げてくれっ! 日向あっ!!」

 けれど、その久瀬の声も想いも、届かない。

「このヘリ、まだ久瀬さんに気付いてない……? 急がなきゃ、何とか引きつけて……」

 みつきは今も、久瀬のために一人で戦う気でいる。海上へ向かうべく大穴を離れ、宙へ浮き上がる。

 だが、もう遅い。

 みつきを取り囲むアパッチ三機は、すでに攻撃準備を終えていた。使用するのは、機関砲でもロケット砲でもない『第三の兵器』。
 今までは空気抵抗を減じるために小さく畳まれていたが、この三機の機体底部にはいかにも後付けの増加装備が施されていた。久瀬が叫んでいる間にガチャガチャと金属的な作動音を響かせながら展開されたそれの見た目は、兵器らしからぬ八角形の金属板。可動台座で上下左右に向きを変えるようで、レーダーの一種と思えなくもない。
 それが、みつきに向かって真正面を向くよう微調整を続けて、停止する。

 と同時に、音もなく、唐突に、攻撃が開始された。

「え……ッ、う、あ……! うわああああっ!!」
「な……なんだっ?! ぐ……ああっ!」

 軽い耳鳴りがしたかと思った直後、肌に無数の細かい針が突き刺さり、骨が砕けるような耐え難い激痛が襲ってきた。みつきは頭を抱えて大穴の中に落下、久瀬も膝が折れて身体を丸める。

「ど、どうなってるんだ、何だこれはっ……!!」

 多少なりとアパッチから離れている久瀬には、そう言うだけの余裕があった。が、みつきは違う。

「うあああ……があああっ! ぐ、う……ぎゃああああっ……あああッ!! ひ、ぐ……ぐあああああああッ! うああっ、がああああああッ!!!!」

 地面でのたうち回り、獣のような絶叫を上げる。

 金属板の正体は非致死性兵器、あるいは『人道的兵器』と呼ばれるものの一つだ。昨今は敵兵といえど過剰に殺戮すれば世論が黙っていないから、先進諸国は相手を殺さず無力化する兵器の開発に力を注いでいる。このタイプに限って言えば、金属板から放射された一種の電磁波が人体を通過する際に痛覚神経を刺激、戦意を奪うという仕組みなのだが――。

 これのどこが『人道的』なのか。

「ひああっ! うあ……あが……ぎゃあああっ! うぎゃあああ────ッ!!」

 止めどなく流れる涙。女の口から出る声とは思えない断末魔のような絶叫。こぼれ落ちる涎が砂埃や泥を含み彼女の顔を汚していく。手足はもう、あまりの苦痛で痙攣を引き起こしていた。逃げ出したくても痛みのあまり身動きも取れない。黙って電磁波を受け続けるしかない。

「じょ……冗談じゃないっ、対超能力者用の兵器だとでも言うのかよっ……!!」

 実際、そういう意図で開発中のものが持ち込まれたのだ。電磁波は熱の伝播などと同じで実体を持たないからサイコキネシスでは防ぎようがないし、みつきを気絶させ生け捕りにできる可能性もある。彼女の存在をもってして軍事資産と位置づけられるのなら、亡くすことなく捕獲できるに越したことはない。
 今の久瀬なら、その程度の背景は察しがついた。

「と、止め……させないと、こんな……」

 久瀬は歯を食いしばって痛みを堪え、立ち上がる。しかし歩けず、転ぶ。ならばと必死で地面を這う。
 みつきの側へ辿り着いても状況が変わるはずがない。何の力もない自分に何ができるというのか。だがそれでも、何もせずにはいられない。

 その、必死の久瀬の姿が、みつきの視界の片隅に映る。

(な、に……やって、っ……の、っ……)

 ひと思いに殺された方がましだと思える苦痛に耐え、今もみつきが懸命に意識を繋ぎ止めている理由。言うまでもない、すぐ近くに久瀬がいるからだ。

(こ、な……いで……ころ、されちゃ……)

 溢れる涙で歪む視界の中でも、彼が自分を助けようとしていることは理解できた。

 場違いだとは思うが、嬉しかった。本当に。

 仮にこのまま死んでしまうとしても、これも運命かと受け入れるのは簡単だった。過ぎるほどの力を持って生まれた超能力者として、研究所に幽閉されて実験や訓練の連続する日々を過ごしながら、こんな最期が来る日を想像しなかったかと言えば嘘になる。誰かを助けようとついつい身体を張ってしまうのは、みつきの心のどこかにそういう自棄な部分があるからなのかもしれない。自分はもともと、普通の人間ではないのだからと。

 けれど久瀬は、そんな自分を助けようとしてくれる。
 嬉しくない訳がない。

(で、も……それ、ぎゃ、く……だって、ば……)

 世の中に必要なのだ。久瀬隆平という人間は。きっと自分よりもずっと多くの人を幸せにしてきたはずだし、これからも、ずっと多くの人を幸せにできる才能があるはずなのだ。

「……ッ、ギっ……」

 奥歯を噛み締める。出せる限りの力を振り絞る。痙攣する手足に活を入れ、精神の集中など望めないこの状況で、それでもみつきはサイコキネシスを発動すべくアクティブ・キャリバーを収束させていく。

「……うおんどりゃあああああああああああっ!!!!」

 上体を起こし、絶叫。三百六十度の全方向へサイコキネシスが解放される。物理的な圧力が地を疾り、突風と化してアパッチに襲いかかった。

 が、アパッチを破壊できるような威力は、ない。

 風に煽られて一時的に大きく姿勢を崩しはしても、操縦者の卓抜した技術に加えて自動姿勢制御が働いて、地面への接触は確実に回避してみせた。防弾性の高い装甲にも傷一つない。通常のヘリでは考えられない運動性と耐久性だ。
 しかし、姿勢が乱れたことで非致死性兵器が発する電磁波は焦点を失った。久瀬とみつきを苛んでいた痛みは嘘のように引いていく。

「ひ、日向っ……」

 久瀬は何とか立ち上がる。アパッチ三機のローターが生む下降気流に身体を押され、ふらつきながら、大穴の坂道を駆け下り、みつきの元へ向かう。

「……ふーッ、ふーッ、ふーッ……」

 みつきは荒い息を継ぎつつ、立っているのが精一杯。
 それでも、憔悴しきった顔で、虚ろな目で、近付いてくる久瀬の方へ一歩を踏み出す。

「く、ぜさ……はや、く……にげ」

 言いかけたところで、意識が途切れた。白目を剥きつつ目が閉じられ、倒れ始める。すんでのところで間に合った久瀬は、慌ててみつきを抱き留めた。

「しっかりしろ! 逃げるんだよ、日向っ!」

 大声で呼びかけながら肩を揺するが、みつきは目を覚まさない。一片の力も感じられない手折れそうな細い腕がだらりと垂れ下がる。
 そこにはただ、気絶した若い娘の弱々しい肢体があるだけだ。

「嘘だろ、おい……こんなっ……」

 呟いて、ふと、顔を上げる。

 真正面にいたアパッチと、目が合った。

 昆虫の複眼を思わせるキャノピーが鈍く光り、獲物へ食らいつく口元にあたる機首の複合センサーがこちらを真正面から捉える。機体底部の非致死性兵器も位置合わせを終えて動きを止めた。

 ぶううん、と、低い唸り声。モーターの駆動音。
 チェーンガンへの給弾か、非致死性兵器の起動音か。
 久瀬はそこに冷徹な攻撃の意志を感じて、絶望する。

「……南無三っ……」

 目を閉じ、唇を噛み、みつきを強く硬く抱きしめる。
 圧倒的な暴力を前に、膝を折るしかなかった。

 ――しかし。

 覚悟した最期の瞬間は、いつまで経っても訪れない。

 おそるおそる久瀬は顔を上げ、首を巡らせる。

 アパッチの位置は微動だにしていない。久瀬とみつきを中心として低空で正三角形を描く三機は非致死性兵器をスタンバイしたまま、上空に待機する二機もチェーンガンの狙いをつけている。しかし、連中は一向に攻撃をしてこない。その様子もない。
 よくよく目を凝らすと、正面のアパッチに登場しているパイロットとガンナーの姿がキャノピー越しに見えるが、彼らは身振り手振りを交えながら何かを話し合っている。

「な、んだ……? どう言うんだ……」

 暫し迷ったが、このままじっとしていて事態が好転するはずがない。
 久瀬はみつきの足と背中に手を回して抱き上げる。意外と軽い。無理なダイエットでもしていなければいいがと場違いな不安を抱きつつ、ともかくその場から走り出ず。実際には早足程度だから逃げ延びられるとは思えないが、少しでも時間を稼いでみせて、別行動を取っている綾と瑤子が駆けつけてくれることに望みを繋ぐしかない。

 けれども案の定、アパッチは二人の逃走を許さなかった。
 もう少しで大穴を脱するというところで上空にいる機体の機関砲が火を噴き、久瀬の進行方向にすさまじい量の銃弾が降り注ぐ。地面が穿たれて砕けた小石や土塊が飛散する。

「う、うわっ! くそっ!」

 その音と威力に驚いて、久瀬は腰を抜かしてその場にへたり込む。抱えたみつきを腕から落とさないよう気遣うので精一杯だった。

「は、外れた……違う、当てなかった……?」

 着弾の跡を見て思う。非致死性兵器をあえて使わなかったことも含めて「これ以上危害を加える気はない、だから動くな」という威嚇だと受け取れる。

 それは事実上、敵の勝利宣言。
 アパッチの主目的がみつきの捕獲にスライドした、何よりの証拠だった。

「まさか……」

 想像したくもなかったが、すでに綾と瑤子も敵の手に落ちたのか。いきなりテレパシーが途絶えたというみつきの言葉を思い出し、久瀬の全身から一気に力が抜ける。

 久瀬は、自分の腕の中にあるみつきを見る。

 彼女の上着。肩口の大きな裂け目。アパッチ五機の生む激しい下降気流にバタバタと煽られているそこから、白い肌が露わになっている。
 これを不憫に思った久瀬は、みつきの下半身を地面に下ろし、負担にならないよう上体を抱え直す。その上で自分の背広を脱いで肌が隠れるように着せてやった。そして、非致死性兵器の苦痛に耐えられず暴れた際に歪んでヒビの入ってしまった眼鏡を外し、土埃を吸って泥になった涙と涎で汚れている顔をシャツの袖口で優しく拭う。

「こんなに、なるまで……。俺なんかのために……」

 この後、みつきはどうなるのだろうかと、考える。
 決まっている。いずれ捕獲専門の部隊なり工作員なりがここへ到着するはずだ。生身の人間から安全かつ確実に意志力を奪い続ける方法なんてそう多くはないだろうから、みつきには何らかの薬物が投与され、眠りに等しい状態を強いられ、連れ去られ――。

「……冗談じゃない」

 どうにかしてみつきを助けたい。何とか彼女を守ってやりたい。
 そのために、何か自分にできることはないか。その一心で久瀬は考え続けていた。
 こんな状況下にあっても取り乱さず、絶望せず。

 ――そう。

 久瀬はまだ、思考を続けていた。

 勝てるなんて思わない。状況が覆る可能性もない。何をしても無駄な足掻きに終わるに決まっている。自分だっていつ殺されることか。八方塞がり。万事休す。四面楚歌。

 だが、それでも。
 久瀬は決して、考えることを止めなかった。

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