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第6章

 奥秩父、三峯。
 妙法ヶ岳、白岩山、雲取山の三山から成るこの地は、古くから山岳信仰の対象として人々の畏敬を集めてきた。ヤマトタケルが東征中に建立したと伝えられる三峯神社を中心に観光スポットも多数あり、参拝者や登山客らが季節を問わず訪れるが、立地の険しさ故に世俗化しすぎることがない。参道のすぐ側にも熊などの猛獣が徘徊した痕跡を容易に見いだせるし、絶滅したとされて久しいニホンオオカミの目撃情報も未だ絶えぬと知れば、ここを秘境と呼ぶのを躊躇う者はいないはずだ。
 まさに神々の棲まう聖地、あるいは、邪悪な妖魔どもが跋扈する魔境。

 ましてや今宵、この地へと集うのは、文字通りの剣呑な化物ばかり。

 初夏にもかかわらず吹き抜ける風はしんと冷え、山肌にはうっすらと霞がかかる。この地それ自体が意思を持って、人の世に在るべき一切を拒絶する文字通りの障気が、息苦しいほどに重く濃く漂っていた。
 足を踏み入れた者は、絶対に、生きては帰れない。

 だから、私は――源結女は。

「……絶対に、来るなと……言ったんだ……」

 折り重なる死屍累々を前に、呆然と呟くことしかできなかった。

 陸上自衛隊特殊作戦群の精鋭たち。生死の境を窺うほどの過酷な訓練を経て心身ともに鍛え上げられた現代戦のエキスパートが、ある者は真っ二つに引き裂かれ、ある者は頭部を噛み砕かれ、またある者は判別不能の病魔に冒され全身から血を流し、眼前にある渓流の岸辺で一人の例外もなく絶命していた。
 しかも、誰も彼も、手にした武器を使用した形跡がない。
 一瞬のうちに、一方的に、あの魔人どもに屠られた証拠だった。

「もういいんだ! やめてくれ!!」

 空に向けて放った絶叫は、立て続けに発射される七十ミリロケットランチャーの爆音によって掻き消される。機銃による支援射撃だけに徹すると約束していた陸自の戦闘ヘリが、追い詰められた味方の退路を確保しようと吶喊、私の頭上を跳び越えていく。

「退がれ! 退がれと言ってるんだ、聞こえないのか!」

 ロケット弾が山腹に着弾、幾つもの爆炎が夜空を橙色に染め上げ、爆音が神山の静寂をかき乱す中、私は手近の亡骸から無線機を取り上げてマイクの向こうに絶叫する。

「火力で圧せば対抗できるなどと考えるんじゃない! 奴らには人間相手の戦術など通用しないんだ! そんな武器を闇雲に使ったら……!!」

 だが、もう、遅かった。
 敵が存在すると思しき場所へ発射したはずのロケット弾が、何故か百八十度方向転換。戦闘ヘリの方へ飛翔していく。そして直撃。墜落して大爆発を引き起こす。

「もうやめろ! これ以上私に構うな!!」

 叫び続ける私の耳に、今度は戦車砲の砲弾が遠方から次々に飛来する音が届く。
 十式戦車。日本が誇る最先端技術を惜しみなく注ぎ込んだ最新鋭の純国産戦車が、数キロ先の峠道から狙撃に近い正確さで砲撃を続ける。モジュール化された複合装甲の堅牢さは米軍の主力戦車M1エイブラムスと同等以上と言われ、高低差が激しく複雑に入り組んだ日本の地形で戦うために最適化された本機は、こと国内の地上戦において比肩しうる物のない最強の兵器だった。
 だが、その十式戦車を以てしても。

「いたずらに被害を広げるだけだと何故わからない! 退がるんだっ!!」

 数時間前、武器の調達に訪れた陸上自衛隊朝霞基地で、私の応対に出た武官はこう言った。沖継様が不在となれば今こそ我々が立つ時でしょう、ベイブリッジの意趣返しだ、総力を挙げて魔人と戦う用意はできている、と。
 無茶を言うなと私は一笑に付した。君らがどれほどやる気でも、君らの上官や政府は決して許可できない。人ならざる者同士の戦いに身を投じよとは命令できない。魔人との戦いは諸官の任務の範囲外だ。影ながら支援をしてくれるだけで充分なのだと。
 だが、彼等はこう言った。自衛隊というのは曖昧な存在です。軍とすべき装備を持ちつつ軍ではない。自衛官たる我々もまた然り。厳密に言えば軍人ではなく公務員。もし我々が自らの意思で御前のため戦ったとしても、これを裁いて厳罰に処するべき軍法会議はありません。銃刀法違反、器物破損、行政処分で懲戒免職あたりが限界でしょう。この国の歴代の指導者は、かくあるようにと全ての制度を整えてきたのです。我々は、国の形がなくなるその瞬間まで、始祖であり親である御前の味方です――。

「……その気持ちだけで充分だと、言ったはずだ」

 誰も彼も、この調子だ。
 この国の成り立ちを知り、私たち夫妻のことを知った者は、皆、いつも。

「何が親だ! 勝手に祭り上げるな! お前たちが私の子供だというなら、一度くらい親の言うことを素直に聞いてみせろーっ!!」

 けれど、その声が届くことはなかった。

 十式戦車の砲撃が、唐突に熄んだ。

 後に残ったのは、鋼鉄の車輛が引き裂かれ、砕かれ、爆ぜる、おぞましい残響だけ。

「……頼む。もう……」

 こんな、戦いですらない戦いに、付き合う必要はないのに。
 私個人の執念から始めた悪あがきに巻き込まれて、死ぬことはないのに。
 私一人、気の済むまで戦って、その果てに死ぬ、それで良かったのに。

「もう、止めてくれ……」

 しかし敵は、哀しみに浸る暇すら与えてくれなかった。

 殺気が迫ってくる。
 複数の魔人の気配が、周囲を取り囲む。

 この周辺に展開した自衛官たちを殲滅し、残るは私一人と見たか。

 傷だらけの手の甲で涙に濡れた目元を拭い、痛めた足を引きずりながら手近の亡骸へ近寄って、使われなかった小銃や予備弾倉を可能な限り貰い受けていく。
 立ち上がって周囲を見渡し、地形を確認。迎撃に少しでも有利な場所を探して、そこに移動――しようとして、派手に転んでしまった。

「何だ……このくらいで、まだ……」

 けれど、もはや足が言うことを聞かない。疲労に耐えきれなくなった膝がカタカタと震えるばかりで立ち上がれない。身に着けた装備の重さに耐えきれない。

「くそっ……」

 仕方なく予備弾倉を破棄。ライフル一挺とナイフだけを持ち、文字通りの這々の体で、渓流の岸辺にある大岩の影へ身を隠すのが精一杯だった。

「さすがに、もう……限界か……」

 重傷を負って生まれ直した沖継を河守夫妻に預け、一人になってから、これでも必死で鍛錬を積んできた。本能的な制約を外すことで女の身体の限界を超える膂力を発揮する術を身に着け、殺気や敵意を感じ取るための第六感を磨き上げ、現存するあらゆる武器や兵器の扱い方を学んできた。刺客として送り込まれた魔人を返り討ちにしたことも一度や二度ではない。たとえ沖継が復活しなかったとしても、自分一人でこの国と可愛い子供たちを守っていく。その自信を確かに得たはずだったのに。

「沖継の、言う通りだったよ……」

 人間の知恵と野獣の肉体を併せ持つ人狼。無数の触手を自在に操り全方位から攻撃してくる蛸のような化物。空間をねじ曲げてあらゆる攻撃をはじき返す瞬間転移能力。味方の傷を瞬時に癒す回復役。そして奴らの司令塔は、実戦経験豊富で一度は沖継に勝利してみせた最強の魔人、堤塞師。互いを補い合って戦う奴らにはまったく隙がない。
 最初から防戦一方。体力は削り取られ、小さな傷や怪我がどんどん増えていく。自衛隊の精鋭部隊が割って入ってきたのも、私が嬲り殺される様を見るに見かねたからだった。

 勝ち目など、最初からなかったのか。

 もう、諦めるしかないのか。

 自分さえもっと強ければ、もう少し有利に戦いを進められたら。
 彼等が無駄死にすることは、なかった。

 何もかも、私のせいだ。

 二十年前、愛する夫を亡くしたことも。

 沖継なら勝てると根拠もなく思い込み、一人で戦地へ送り出して。

 全部、私のせいなんだ。

「…………」

 失意に項垂れた私の目に、一振りのナイフが映る。
 もう、終わりにしよう。
 三千年分の罪をこの身に負って、全ての決着をつけよう――。





 ――とまあ、そんなところかね。
 うちの愚妻が考えそうなことくらい、まるっとお見通しですよ。




「……っ、な……?!」

 首筋に押し当てたナイフが勢いよく引かれるその寸前、俺は結女の手を取り制止に成功。いやーヤバかった、マジで間一髪だよコレ。

「おっ、沖継、お前、どうして……!!」
「未来のGPチャンプに送ってもらった」
「……は?」
「リーダーが太鼓判押すのも頷けるよ、確かにあいつは天才だ。近いうちに間違いなく世界獲るわ。だってさ、こーんな曲がりくねった山道をこーんな速さでカッ飛んでくんだぜ? 赤信号とかも平気でガン無視しやがんの。本人はクルマの流れと車間距離を読んでるから絶対大丈夫だとか言ってたんだけどさ、クソ度胸とかのレベルじゃねえよ、ありゃもう狂気の沙汰だよ、バイクのケツに乗ってて生きた心地がしなかったもん……って、何だよ結女、どうかしたか?」

 うちの妻の顔が完全に般若なんですけど。

「何をしに来た。帰れ。今すぐに」
「あ、そういうことね。言われると思ってた」
「お前にはノッコを幸せにする義務がある。何故あの子の側を離れた。お前のような軟弱者など居ても居なくても同じこと、殺される前に即刻この場を……あ痛っ」

 デコピン一発、見事に炸裂。
 そして俺は、結女の目を真正面から見て。

「俺の口真似は止せ。古臭い男言葉はお前にゃ似合わん」

 結女、絶句。
 そんな呆けた顔でもちゃんと可愛いんだから困っちゃうよな。

「喋り方をいくら真似ても俺の代わりにゃなれねェよ。それとも、俺の口真似で寂しさをごまかしてるうちにクセになったとか? でなきゃ……」

 俺に少しでも昔のことを思い出して欲しくて、一生懸命俺の真似をして、俺のように考えて俺のように振る舞って、そのうち引っ込みがつかなくなって、中途半端な男言葉で喋る黒髪ロングの大和撫子っていう変なキャラを押し通すハメになった、とかね。

「むしろ昔のお前のままでいてくれたら、俺も昔の記憶を取り戻しやすかったのに……って、もういいや、間に合っただけで良しとする。あの時と同じだ」
「? あの時……」
「このシチュエーション、そっくりだろ? ほら、二千七百とんで三年前」

 結女が小さく息を呑む。だよな、やっぱお前も憶えてるよな。

 これでもう俺たちの使命はおしまい、夫婦でいる理由もなくなった、後は好きにしろ、って言った後。俺は隠遁先で自堕落な生活を送りつつ無駄に歳食って静かに死のうとしてたんだけど、結女はその間、何をしていたか。

 一人で都に留まり続けてたんだ。

 歳を取ることを拒絶し、権力欲に憑かれて暴走しがちな為政者どもを宥め、内紛を押さえ込み、善行を為す者に恵みを与える祈女の役を続けていた。大陸から使者が来て、この国を支配下に置こうとした時も、結女はあの手この手でやんわりと断り、あるいは無視をし続けて。そのうち大陸からの絹も金銀宝石も入ってこなくなり、一部の豪族からは蛇蝎の如く嫌われ、恨まれ、粗末な屋敷でボロを着て暮らすことになって、日々の糧を得ることにすら困ることもあったらしい。
 しまいにゃ天神の不興を買い、魔人率いる軍勢が海を渡って来ちまった。

「お前もホントに、あの時はつまんない意地張っちゃってな」

 話の流れで、軽く言ったつもりだったんだが。
 結女の目つきが、変わる。

「……つまらないとは何だ」

 俺の胸元に掴みかかってくる。

「あの時の私が……今の私が、どんな気持ちで日々を過ごしていたか、お前には未来永劫わかるものか。いいや、わかって欲しいとも思わない。お前などにわかるはずがない。わかってくれたのは、私の気持ちを察してくれるのは」
「……俺だけだよ」

 胸元を掴んでいた手を、やんわりと解きながら。

「お前の夫の、俺だけだ」
「たかが十八の若造が戯れ言をほざくな! お前に私の何が――」
「男ってのは、ほんとダメだよな」

 結女の言葉を途中で遮って。

「理屈ばっかで考えて、大事なことをすぐ見失う。大昔のあの時もそうだったな。果たすべき使命。お前との関係。それを両立できなくなった時、俺は考えに考えて前者を取った。お前を遠ざけて、疎んで、だんだん嫌いになっちまって、しまいにゃお前に三行半を突きつけた。でもさ、逆なんだよな。優先すべきことがそもそも違ったんだ」

 あれは、昔の俺の過ちじゃない。昔も今もあるもんか。
 頭ばかり先走るこの俺が、いかにもやらかしそうな過ちだ。

「それを忘れたばっかりに、また似たようなミスをやらかすところだった。……堤塞師が間違っているとは思えない、でも結女には死んで欲しくない。その二つが衝突した時も、俺は前者を取った……取ろうとした。そっちの方が世界のためになる、大勢の人たちのためになる、絶対に正しいはずだって」

 本当に、危ないところだった。
 取り返しのつかない過ちを、犯すところだった。

「そんなところに、守るべき正義はねェよ。あってたまるか」

 言い切って、傷だらけの結女の手の甲に軽くキス。
 だけど、いまいち結女の反応が鈍い。どうにも信じられないって感じ。

「何だよ、昔はずっと俺のこと待っててくれただろ。あの時みたく感極まって泣き崩れてもいいんだぞ? 今も気持ちは同じだよな? 本当は心のどこかで俺が駆けつけてくるのを待っててくれたんだよな? な?」
「……お、まえ……お前は……」

 結女の手が、微かに震えていた。

「お、きつ……ぐ、なのか……? 本当に……?」
「ああ、俺は俺だよ。こんなアホな男がそこらにゴロゴロ居てたまるか」

 結女の手からライフルをブン取って、空いた手元に、腰のところにぶら下げていたコンビニの袋を押しつける。

「? これは……」
「来る途中に買ってきた。ゼリータイプの栄養食とマルチビタミンサプリ」
「?」
「一つ残らず腹の中に流し込め。それからほんのちょっとだけ若返りだ。多少の怪我は修復されるし、体力の消耗もほぼパーペキ防いでくれるから。俺の身体で実験済みだから安心しろ。ほんと俺らの身体ってよく出来てるよ」
「あ、っ……そ、そう、なのか……?」
「あ、あとさ、結女。お前さ、俺が近付いてることに気付いてたか?」
「? そう言えば、全く……」
「そっか。なら、敵もまだ、俺が来たことには気付いてねェな。多分」
「いや、そんなことは不可能……」
「って俺も思ってたんだけど、ほとんど超能力者クラスの俺の第六感をごまかしやがったヤツが居たもんでさ。あのアホに出来るなら俺にだって出来るはずだろ」

 結女が目をぱちくり。

「独り言だよ。気にすんな。さ、ぼちぼちおっぱじめようぜ」

 手にした銃を操作し、初弾をチャンバーへ送り込みつつ立ち上がる。

「お、っ……沖継、お前、本当に奴らと戦うつもりなのか?!」
「たりめーだろ、何のためにここまで来たと思ってんだ」
「無理だ、そんな、お前だって言っていただろう、奴らは……!!」
「ここに来るまで、策を練る時間は充分あったんでな」

 段取り通りに上手く運べる自信は微塵もねェが、それでも俺は不敵に笑う。ただの強がりだけど、それで結女の不安が吹き飛ぶなら安いもんだ。

「同じ相手に二度負けるってのは性に合わねェんだ。絶対勝つぞ」

 力強く言い切った。いやあ、ハッタリでも気持ちいいね。
 と、その言葉を聞いた結女が突然、自分の服の前身頃を開け始めた。自衛隊で借りたらしい迷彩柄の戦闘服を着てたんだけど、その懐から――。

「……お前、持ってたのかよ、それ」

 稜威雄走がこぼれ落ちてきた。
 さらに腰のポーチを開けると、予備のマガジンが二つ出てくるというね。

「べ、別に……その、お前が、本当に来ると……信じていた、訳では……」

 ばつが悪そうに結女が言う。今度はツンデレ攻撃かよ俺を萌え殺すのも大概にしろ。やっぱお前、心のどっかでひょっとしたら来てくれるかもって期待してたんじゃ――いや待てよ、別れた夫の形見みたいな感じでお守りにしてたって解釈もあるか。もし後者だったら切なくて泣いちゃうかも。訊かないで黙っとこ。
 俺は小銃を結女に返してから、稜威雄走と予備弾倉を受け取る。動作を一通り確かめて、つくづくいい武器だなって改めて実感。

「……いいな、うん。やっぱコレだよ」

 鬼に金棒ってヤツだ。本格的に勝てる気がしてきたぜ。
 稜威雄走を握り直し、予備弾倉をズボンの尻ポケットに左右一つずつ突っ込んで。

 俺は岩陰から出る。

 そうして最初に目に入ったのは、身に着けた武器をほとんど使いもせずに命を落とした戦士の亡骸だった。自衛隊の精鋭部隊、中央即応集団の特殊作戦群に所属していた一等陸曹。まさか今日こんなところで死ぬなんて、ほんの数時間前までは露ほども思ってなかったろうに。
 ありがとう。結女を守ってくれて。俺がギリギリ間に合ったのは、あんたらのお陰だ。そして本当にごめん。あんたらが命を落としたのは他でもない俺のせいだ。俺があんたらを見捨てようとしたからだ。自分に自信がなくてブレちまったせいだ。許して欲しいなんて思わない。遠慮はいらねェよ。恨むなら俺を恨んでくれ。
 でも、こんなことはもう二度とない。誓うよ。
 何万年だろうと、何億年だろうと、戦って戦って戦い抜いてやる。

「さあ、行くぜ。バケモノども」

 気合いを入れ直す。闘志も怒りも全身からダダ漏れだ。
 その途端、敵も俺の存在に気付いたらしい。徐々に近付いてきていた殺気が怯み、一度動きを止めた。でもすぐに気を取り直し、改めて間合いを詰めてくる。
 この感じだと、どうやら――正面の森には人狼、左手側になる渓流の下流からはイカタコもどき、右手側の上流からは人体標本って感じか。女魔人はその三匹より少し後方、様子を見ながら適時支援って感じだろう。

 堤塞師は?

 自衛隊の戦車を黙らせた魔人は多分あいつだろ。まだこっちに戻って来てないのか。距離を詰めてきちゃいるが、慌てた様子は一切ない。俺から見て背後側にある対岸、山の斜面を登ってるようだけど、この周辺を見下ろせる崖の上に向かってるのかね。

 さてはあの野郎、呑気に高みの見物を決め込むつもりか。

 まあ、そりゃそうか。戦力的にも部下の四匹で充分だと踏んだんだろう。学校ではそれで俺を圧倒できたんだし、さっきまでの結女も同じく。ならば自分が直に手を下すまでもない、大ッ嫌いな虫魔人の姿にはなるべく変身したくないし、まだ若い部下どもに御使いとして戦闘経験を積ませてやろう、なんて思ってんのかも。

 ナメやがって。上等だ。その傲慢をあの世で後悔させてやる。今度こそ。

「……私にも、何か……その」

 俺の後に続いて岩陰を出た結女が、背中越しに話しかけてくる。
 何を躊躇っているのか、一呼吸も二呼吸も間があって。

「手伝える……ことは、ありませんか。お願いです、手伝わせて下さい」

 突然、敬語になった。
 いや、違うか。こっちの方が本来の結女なんだ。

「もちろん手伝ってもらうさ。俺の策は、お前がいることが前提だからな」

 結女が今夜、初めて笑ってくれた。それだけでテンション爆上げ。もう勝った気分。

「で、早速だけどさ。いきなりムチャ振りで悪いけど、三匹まとめて相手できるか?」

 結女が息を呑み、驚いた気配があった。

「相手をしてくれりゃいいんだ。勝たなくていい、負けなきゃいい。俺はほんの少しだけ、あっちの人体模型を潰すのに集中したいんだよ。ほんの五分、いや、三分でいいや。その間だけ邪魔が入らないように牽制してくれ。……やれるか?」

 ほんの僅か、沈黙があって。

「できます」

 力強い答えが、返ってきた。

「旦那様がそれをお望みなら、やってみせます」

 ――ダンナサマ、ですってよ。

 俺の胸中に湧き起こるのは、気恥ずかしさと懐かしさと、そして何より嬉しさだった。
 結女が、改めて、本当の意味で、この俺を、自分の夫と認めてくれた。

 そう思ったら、身体が勝手に動いていた。

 結女の方に振り返り、歩み寄り、武器を持たない左手を伸ばして、抱き寄せて。

「えっ? あ……」

 唇を、重ねる。
 驚いて身を強ばらせていた結女だけど、すぐに力が抜けた。両手で抱えるようにしていたライフルを片手に提げて、空いた手を俺の背中に回し、しがみついてくる。
 身体が溶け合うほどに、強く、強く、抱き合って。

「……っ、ん」

 絡み合っていた舌が解け、唇が離れる。
 二人の唇の間に、細く光る唾液の橋がかかっていた。

「結女、一つだけ憶えていてくれ」

 恍惚として俺を見上げる結女の、目だけを見つめて。

「この先何があっても、俺はお前の夫だ。お前の味方だ。怒る事があっても、喧嘩することがあっても、傷つける事があっても、俺はいつだってお前の幸せだけを願い続けるよ。絶対に忘れないでくれ」

 そうしたら、結女は、小さく頭を振って。

「大切な言葉を頂くのは、一度だけで充分です」

 嬉しそうに笑う。

「忘れたことなんて、ありません。これまでも、これからも」

 俺たちは、互いに微笑み合って。
 もう一度、口づけを交わそうとしたんだけど。

 無粋なことこの上ない褐色の砲弾が、俺たちの間を裂こうと飛来する。

 俺は左腕に結女を抱いたまま、森の方から音もなく襲いかかってきた人狼の方へ右手の稜威雄走を無造作に向けて発砲、速射。二発のうち一発が命中。人狼は蹴り飛ばされた野良犬のような「ギャイン!」という鳴き声を残して森の茂みへ押し戻される。
 間髪容れず、水際からイカタコもどきの無数の触手が襲いかかる。稜威雄走の銃口は森の方を向いたままだったが、俺の腕の中で素早く身体を反転させた結女がライフルを斉射。鉛玉の雨霰を食らった無数の触手が引きちぎられ吹き飛ばされた。
 でも、人狼もイカタコもどきも致命傷じゃない。あの女魔人がいる限りはダメージゼロも同然だ。開戦を告げる鬨の声以上の意味はない。

「しょうがねェ、続きは終わってからだな」
「そのようです」

 一度は破棄した武器類や予備弾倉を拾い集めて身につけつつ結女が応える。口調は敬語のままだけど、その声音には静かな怒気がアリアリと。男言葉で逆上されるよりよっぽど怖ェよコレ。

「じゃ、ここはよろしく。三分だけだからな、ホントに無理はするなよ」

 最低限のことだけ言い残し、俺は上流の岩場にいる人体模型の方へ走り出す。

「わかっています。旦那様もご武運を」

 時代劇なんかで侍や岡っ引きが仕事に出る時、その妻が玄関先で厄除けのために火打ち石を打つシーンがよく出てくるけどさ。愛妻の銃火を背にして出かける夫はさすがに俺くらいのもんだろな。なかなか心強くてオススメなんだけど、多分流行んねェな。うん。

 漂う薄霞を切り裂きながら、俺は走る。

 一切の迷いを振り切った俺の身体は、自分でも驚くほどに軽かった。やがて土の地面がなくなり、いかにも山間の沢らしい身の丈を越える大きな岩ばかりが視界を埋め尽くすようになっても、俺の移動速度は衰えるどころか増す一方。義経の八艘飛びよろしく岩から岩の間を跳躍し、人体模型の発する気配との距離を確実に詰めていく。

「……っ、ととっ」

 とある岩の上で急停止。常人には気付きもしない違和感が、俺の立つ岩の周囲を取り囲む。正面、右、左、そして背後も。

「……ヒヒッ。相変わらず、勘がいいねェ」

 遠くから声がして、周囲の違和感が消え失せ、景色がほんの少しだけ変わる。

「そこからちょいと足を踏み出せば、楽に死ねたんだけどねェ」

 渓流を挟んで、十数メートルほど離れた岩の上。
 片膝を立て、余裕綽々の態で座っている人体模型の姿が、そこにあった。

「悪いけど、お前に殺される気は微塵もねェよ」

 俺は仁王立ちのまま、無造作に稜威雄走を構え、魔人に向けて一射。
 けれど、その弾丸が発射された直後、人体模型の姿は俺の姿と置き換わる。
 俺は俺自身を撃ったことになり、稜威雄走の十ミリ特殊弾が顔めがけて飛来するも、それを甘んじて食らいはしない。首をひょいと曲げて自分の放った弾丸をやりすごす。大抵の魔人を一撃で屠る強烈な一発が背後で炸裂する音がした。

「どうして来ちゃったのかなァ。キミ、前に、学校で、思い知ったはずでショ?」

 遠くの岩に立つ俺の姿が薄れていき、座ったままの人体模型が再び見えてくる。

「キミは、ボクには、絶対、勝てない」

 その言葉が終わるか終わらないかのところで、俺はもう一射。
 さっきと同じように弾丸が返ってきて、同じように紙一重で躱す。

「無駄、無駄、無駄ってば、わからナイの?」

 相変わらず、人体模型は座ったまま。
 変わったことと言えば、ヤツの周囲に漂う薄霞が少し濃くなったことくらい。

「ましてや、ここ、見てヨ。地形。ボクの力にうってつけ」

 ケタケタと、嬉しそうに笑いやがる。

「どこもかしこも、ボクは罠を仕掛け放題。キミはそこから動くこともできな――」

 俺はまた、直立不動のままで一射。
 結果は同じ。俺に向かって弾丸が戻ってくるだけ。

「――っ、わっかんないかナァ。何度やっても無駄なんだってば」
「不思議だったんだよナァ。ボクチン、どーにも腑に落ちなくてサァ」

 人体模型の口調を、わざと真似してから。

「お前の能力、確かに凄いと思うよ。ワープだの瞬間移動だのは今の科学じゃ実現不可能って話らしいしさ。どんなオーバーテクノロジーを使ってんのか俺なんぞにゃ想像もつかねェよ。天神だか主だか未来人だか知らんけど、敵のボスはお前のことをよっぽど信用してんだな。そんだけの超能力を与えるに値すると思われてんだろうし」
「そう。その通りヨ!」

 座ったまま、ヤツは両手を広げて。

「ボクのポテンシャルはネ、ミスター堤と同等以上なの。次世代の御使いを導くエリートとして、偉大なる我らが主に期待されてるの。数千年前のポンコツに等しいキミなんかとは格がちが……」

 また、稜威雄走を一射。

「……っ、また無駄なコトを。何発撃ってもネ、キミの攻撃は……」
「でも、そんなに凄い能力にも、いろいろと制限はあるんだろ?」

 余裕綽々だった人体模型が、ほんの少しだけ顔色を変えた気がした。

「例えばさ。俺がお前の能力を持ってたら、お前が立ってるその足元を今すぐに上空一千メートルと直結するよ。そうすりゃお前は何もできずに墜落死、南無阿弥陀仏」
「…………」
「つーかさ、お前、ガッコで俺と初めて出くわした時、何でそれをやらなかった? そこがネ、ボクチンはネ、どーしても腑に落ちないんデスヨ」
「…………」
「答えにくいなら言ってやろうか。お前の能力じゃそんなことはできないんだ」
「…………」
「何もない空間Aと、何もない別の空間Bを繋げることしかできない。さっき、この地形は自分に有利だと誇ってみせたのも、その制限があるからだ。なら、俺がここを一歩も動かない限り、お前は俺に一切危害を与えられない。だよな?」

 そしてまた、稜威雄走を一射。
 結果は同じだけど、でも。

「……で、ソレが何なの?」

 人体模型は苛立ちを隠そうともせず、座っていた場所から立ち上がる。

「それでもネ、このボクの力は圧倒的さ。キミはボクに勝てない、キミの弾丸がボクに当たることはない」
「お前、最終学歴は? 高校は卒業したか?」

 何を言われたのか理解できないらしく、人体模型が戸惑う。

「真面目にガッコ通ってりゃ習っただろ。熱力学の第一法則。エネルギー保存の法則とも言うけど、独立した系におけるエネルギーの総量は変化しないってヤツ。それと第二法則、エントロピーの法則だ。エネルギーは高い方から低い方へ流れ、その逆は絶対に起こらない。油が燃えれば熱になり、熱は必ず冷えていく。そして、冷えた空間から熱を作ることも、熱から油を作り出すこともできない」

 俺はまた、稜威雄走を人体模型に向けて撃つ。
 これで六射。
 予備弾倉を除いた残弾は、あと二発。

「これまで発見された科学上の法則って、ほとんどは暫定真理なんだよ。それが真理かどうかは実のところわかんなくて、仮説通りに実験したら辻褄は合ってるからとりあえず真理ってことにしときましょうって代物だ。だから、後に研究が進むと、根本から否定されて書き換えられたりする。でも熱力学の第一法則と第二法則は違う。こいつだけはどうやら真理と見なしていいんだとさ」
「そ、っ、それが何だと……」
「俺が持ってる健康と長寿の能力もそうだった。魔法みたいな超技術で万事よろしく処理されんのかと思ったら、若返りの際には体力をゴソッと消耗しちまう。俺という個人、閉じた系が持ってるエネルギーで処理されてる証拠だ。神のごとき万能な存在が授けた超能力でも、その根っ子の部分では、物理的な法則を完全に無視してるワケじゃないんだ」

 俺は稜威雄走を構え直す。
 両手で持ち、人体模型に照準を取り直す。

「狙い、つけづれェな。お前の周りにモヤみたいなのがいっぱいだ」
「…………」
「今、そこそこ風が吹いてんのにな。さっきからお前の周りだけずっとそんな感じだ。それ、自然に出来たモヤじゃねェだろ。ガッコでお前と初めて会った時も、お前の周囲にだけ白いモヤが不自然に漂ってたもんな」
「…………」
「瞬間転移の能力を使う度に、何かしらエネルギーを消耗してる証拠だ。そうやって冷却しないとお前の身体が保たないんだろ? 並みの魔人なら六人くらい優に死んでる攻撃をさ、超スゲー特殊能力だけに頼って躱し続けたんだからさ、今はさぞ消耗してるんだろうな、もう身動きすんのもしんどいんじゃねェか? そうそう、お前のグロテスクなその見た目も。防御力ゼロ、子供に殴られただけでも即死しそうなその格好もさ、ひょっとしたら効率よく身体を冷やすために仕方なくそうなったとか……」
「何をしている! いつまでモタモタやってるんだ!!」

 突然、人体模型が大声を張り上げる。
 俺に向けて言ったんじゃない。仲間の魔人に向けたんだ。
 その証拠に、俺の背後にあった三匹の魔人の気配が一斉に動く。慌ててこっちへ駆け寄ろうとする。人体模型のピンチを察して助太刀に来ようとしたんだろう。

 けれど、その刹那。

 銃声、そして炸裂音。それも二つや三つじゃない。複数の武器が同時に火を噴く音が夜陰を切り裂く。三匹の魔人どもは揃いも揃って足止めされ、助けを求める人体模型の方へは一歩も近づけない。

「クソッ、たった一人の小娘相手に手間取って……!!」
「ばーか。何を勘違いしてやがる」

 今度は、俺が勝ち誇る番。
 向こうで戦ってんのは、たった一人の小娘なんかじゃない。

「うちのカミさんは千手観音だぞ。三匹同時に相手するくらい屁でもねェよ」

 そしてまた、稜威雄走のトリガーを引く。
 これまでと同じように銃弾の軌道がねじ曲げられ、俺の方に戻って来たけど、こいつは別に躱さなくても良かった。俺の側をかすめただけで勝手に外れていった。

「どうしたよ? ご自慢の能力に狂いが出たか?」

 その俺の声を聞いたかどうか。オーバーヒート寸前のエンジンみたく白煙を噴きながら、人体模型が泡食ってその場を逃げ出そうとする。

 この時ばかりは、俺も、堤塞師に同意せざるを得なかった。
 お前、調子に乗って喋りすぎなんだよ。

 ――ガアンッ。

 最後の一発を発射。稜威雄走のスライドが後退位置で停止してホールドオープン。
 弾丸は戻って来なかった。人体模型の頭部を粉微塵に吹き飛ばし、首から下だけになった身体が渓流へ落下。焼け石を水に放り込んだように大量の水蒸気が柱となって立ち上り、その中に、絶命した魔人の身体が分解されていく際に生じる光の粒子がキラキラと輝いていた。

「ワンマグ使い切っちまった……予想より粘りやがったなあの野郎」

 でも、一番厄介なヤツは片付けたぞ。

 ここからは早さの勝負だ。

 いくら結女が多数を相手に戦うのが得意でも、屈強な魔人を三匹も向こうに回して牽制以上のことが出来るとはさすがに俺も思っちゃいない。少しでも戦いを有利に進めるためには、堤塞師が戦闘に加わる前に一匹でも多く殲滅させる必要がある。
 でも、俺が空になった弾倉を捨てて予備弾倉を装填している僅かな間に、これまで微動だにしなかった堤塞師が動き出しやがった。その気配が間違いなくあった。
 さすが状況判断が的確だよ。彼我戦力比が変わって戦局がこっちに傾きつつあるのを察しやがった。もうちょい油断しててくれりゃ楽だったのに。

 俺は風になって、岩場を疾る。

 目一杯急いでるし、来た時よりもはるかに速く移動してるはずだけど、しょせん人の身だということを痛感。堤塞師の移動速度には完全に負けてる。それでも俺の方が距離の上で優位にあるから、ヤツが結女の背後から急襲をかけるよりもほんの少し先に――ちっ、堤塞師がさらに加速しやがった! 森の木とかの障害物を避けながらあの急斜面をこのスピードで突っ走れんのかよ?! どうなってんだよあいつの足は!

「クソッタレがっ、このままじゃ間に合わねェ……!!」

 と、思ったんだが。

 突如、堤塞師の進行方向に、迫撃砲らしき攻撃が降り注いだ。

 ドン、ドドン、ドガン。山肌で爆発が連続し、森が炎に包まれる。さらに機関銃と思しき銃撃が続き、さすがの堤塞師も急停止、進路変更。結女と三匹が戦う場所へ直行するのを諦めたらしい。地形を利用して大きく迂回、結女の射線を避けるルートを取った。

 そりゃまあ、どんなに移動速度が早くても、直線的にしか動かない相手を狙い撃ちするのは簡単なんだけどさ。そこそこ強い魔人を三匹相手にしながらそれを正確に成し遂げられるかっつーと、うん、俺には無理。とても出来る気がしない。

「……すげェな、千手観音」

 感心してる場合じゃねェな。こっちも頑張らないと。
 結女が稼いでくれた時間は数分あるかないかと見た。でもそれで充分。三千年生きた女が千手観音になるんなら、三千年生きた男は仁王様くらいにゃなってるはずだ。楯突いてくる餓鬼どもなんぞ鎧袖一触で片っ端から殺っつけまくってやる!

「ぅうぅうぅおぉぉおぉりゃああぁぁあぁあッ!!」

 雄叫びを上げながら目前の崖を跳躍。落差はざっと十メートル、三階建ての屋上から飛び降りるくらいはあったんだけど、これが最短距離なんだから仕方がない。

 眼下に結女の姿が見えた。

 さっき別れた場所から全く移動していなかったんだが、これは俺の要請通り防衛戦に徹していたためか。左右の手にライフルを一挺ずつ持ち、背中にはリボルバー式のグレネードランチャー。他にも拳銃、手榴弾、予備弾倉をいくつもぶら下げていて、その全てをほとんど同時かつ効果的に使い分けている。
 よく考えたら、俺、結女がガチで戦う姿を見るのは初めてなんだけど、どうやら銃器類の運搬に使う肩掛けベルトを最大限に活用する技術が肝らしい。喩えるなら、そう、フラフープ。自分の体幹を軸にして複数の大きな輪を同時に回すアレみたいな感じで、複数の武器を瞬時に持ち替えながら戦ってる――って言われても理解できねェよな。結女様はマジ千手観音なので手が何本もあって色んな武器を同時に使うことが出来るので超スゲくてめっちゃツエーのです、とかテキトーに表現した方が絶対早いわ。

 でも、そんな結女でも、三匹の魔人相手には防戦一方。

 俺の差し入れで一度は傷を治して体力も回復させたはずだけど、着ている戦闘服はあちこち避けて血が滲んでる。人狼とイカタコもどきの波状攻撃を躱しきれなかったんだろう。額から頬にかけても血が流れ、結い上げていた長い髪も解けてしまっている。

 と、崖を蹴って宙に舞ったコンマ数秒の間に、そこまでの情報を把握した刹那。

「危ない! 避けて!!」

 俺が戻ってきたことを認識した結女が叫んだ転瞬、渓流の水面から無数の触手が一斉に飛び出し襲いかかってきた。その先端はどれもこれも硬質かつ鋭利。数十本の槍をまとめて突き出されたようなもんだ。
 宙に浮いた俺に、その槍衾を躱す手段は、ない。

 ――とか思ったから、イカタコもどきも全力で俺を攻撃してきたんだろうけどさ。
 甘いんだよバカ野郎。俺がこの展開を予想してないとでも思ったか。

 俺は手足を大きく振り、体操選手よろしく身体をきりもみさせて、襲いかかる槍衾を一本残らず回避。そして、延びきった触手の一本へ腕を絡め脇に抱え込む。ぬめぬめした粘液に覆われた触手はツルツルと良く滑ること。抱えた触手をガイドレールにした俺の身体は落下加速度を殺がれることなく、凄まじい勢いで渓流の水面へと突っ込んでいった。

 んで、水中に居るのは言うまでもなく、イカタコもどきの本体。
 心底アホだなこの野郎。自分で俺をゼロ距離へ呼び込んでくれやがった。

「はい、ご苦労さん」

 水中で喋ったその言葉がイカタコもどきに通じたかどうかは知らない。そもそも俺に顔面をモロに踏んづけられてるし、一瞬後には眉間っぽい場所に押しつけられた稜威雄走の連射を食らったんだから。
 梅雨時の渓流は水かさも増していて流れもキツかったけど、岸の方へちょっと泳げば川底に足がついた。水面から顔を出してイカタコもどきが居た方を振り返ると、突き出された無数の触手がまだ槍のようにピンと延びて中空を突いたまま。
 でも、それも間もなく脱力。一本一本の触手がまるで彼岸花のようにぐんにゃりふんわりとそれぞれ別の方へ開いていって、水面を叩く前に光の粒子となって消え失せた。
 一度水面下に潜ってから勢いよく川底を蹴り、俺は一息で岸に上がる。さっきから走り通しだったし、涼しくなって丁度いい。

 さあ、これで、雑魚どもは残りあと二匹。

「……っと」

 濡れ髪を左手で掻き上げ水を絞りつつ、今度こそ結女の側へ駆け寄ろうとしたところで、梢の中から走り出てきた女魔人とバッタリ出くわした。イカタコもどきがまだ生きてたら治癒しようと思ったんだろう。

「ボンジュール、マドモアゼル。ちょいと遅かったな」

 魔人とは言え女を殺るのは気が進まないんで出来れば結女に任せたかったんだけど、ンなこと言ってる場合でもない。戦場においては男女平等、殴られても蹴られても殺されても致し方なしだ。
 俺はろくに構えも取らず稜威雄走を速射。対魔人戦を想定して俺専用に作られた銃がちょいと水に浸かったくらいで誤動作を起こすはずもなく、当たり前のように発射された弾丸が女魔人のおっぱいの谷間へ見事に命中。巨大な風穴が誕生し、女魔人は血と肉片を派手にバラ撒きながらもんどり撃って倒れる。

 さあ、これであとは人狼だけ――というほど順調にはいかなかった。

 心臓をブチ抜かれて即死したと思ったんだが、女魔人はまだ動いてやがる。一度は駆け出した俺が妙な気配にギョッとして急停止、女魔人の方を振り向くと、胸元の風穴はもうほとんど塞がりかけていて、その場から泡食って逃げ出そうとしている真っ最中。能力値を治癒能力だけに注ぎ込めばこのくらい朝飯前ってことか。

「しぶといなこの野郎っ」

 あ、正しくは野郎じゃないか、このアマって言うべきだった。ここは男女平等ってことで勘弁な。

 俺は逃げ出した女魔人の後を追い、森の中へ飛び込む。

 この女魔人、ろくな訓練もしてなきゃ戦闘力もほとんどないな。後ろ姿を見てるだけで察しが付いたよ。だって肩をすぼめて脇を締めたまま尻を振って内股で走ってんだもん。お前は水着で砂浜を走るグラビアアイドルかよと。そういや前にちらっと見た変身前の姿も結構な美人だったよな。殺っつけるにはちょいと忍びな――。

「……あだっ。な、何だ?」

 何でもないところでスッ転んだ。

 油断してたワケじゃないぞ。魔人に変身してもなお原形をとどめている成熟した女性のボディラインを眺めながら鼻の下を伸ばしてたせいでもない。その地面には何もなかったはずなのに、何かが俺の足にいきなり絡みついてきたんだ。

 見ると、俺の左足に、触手状の何かが絡みついてる。

 まさかまだイカタコもどきが生きてやがったのかと一瞬思ったけど、違った。転んだ俺の周囲に生えてる草や木が、物凄い勢いで生長しながら形を変えて俺の身体に絡みつこうとしてきやがる。どういうことなのこれ。まさかあの女魔人がやったとか?

「気を付けて下さい! その女、かなり手強いです!!」

 すぐ近くで人狼と死闘を繰り広げてる結女が大声で教えてくれたんだけど、もうちょっと早く知りたかったよそれ。物凄い勢いで変質して大蛇みたいににょろにょろ伸びてきた木の根っ子に巻き付かれた下半身は文字通りの雁字搦め。続いて上半身も現在進行形で動きを封じられ中なんだもん。
 あっ、そうか、結女が沢の側からほとんど移動せずに戦ってたのは、これを警戒していたのか。迂闊に森の中へ入れば、生き物を好き勝手にいじくれる女魔人がどんな罠を仕掛けてくるかわかんないから。畜生め、さすがの俺もあの一瞬だけじゃそこまでは察しがつかなか――ああもう考えてる場合じゃねェぞ延びてきた蔦が首の方にまで絡んできやがった! このまま口を塞がれるか首を絞められでもしたら一巻の終わりだよ!!

「……C'est un homme stupide」

 ぞっとするほど近くで、女魔人の声がした。
 地面に這いつくばったまま、身動きが取れずに足掻いている俺の側へ歩み寄ってきて。

「Je suis decu. Je dois assassiner un bel homme, Est decu, est decu tres……N'ayez pas de la rancune s'il vous plait contre moi」

 うっせェなもうペラペラペラペラ喋りやがって何言ってっかわっかんねェよフランス語はそんなに詳しくねェんだっつーの! ちょ、ちょっと待って、いやん止めて、そのぼんやり光ってる手をそれ以上こっちに近づけないで! 畜生このアマ俺に何する気だこれヤバいって絶対ヤバいようわわわわわあどうしようどうしよう大大大大大ピーンチっ!!

 ――はッ。

 さすが俺。ひらめいた。この難局を乗り切るたった一つの冴えた方法。
 上手く行く確証は全くない、けど、もうやるしかない。イチかバチかだ。

 殺られる前に、死ぬ。

「……Ce que? C'est pas vrai?! Merde!」

 俺に絡みついていた蔦状の草や木の根が一斉に解け、女魔人めがけて殺到。女魔人は慌てて逃げようとしたけど間に合わず、俺を見下ろした姿勢のまま、あっという間に動けなくなる。

 やっぱ、そうなるよな。だと思ったよ。

 いくら超能力で変質させても所詮は植物だし、物事を判断する脳味噌まで備わってるはずがない。食虫植物みたく特定の条件下で生物を捕縛するのがせいぜいだろう。

 だから、俺が先に死んでしまえば。
 呼吸を止め、意思の力で心臓の鼓動をねじ伏せて、仮死状態になれば。

 変質した植物は、近くにいる別の生き物――女魔人へ、一斉に襲いかかる。

「あっぶねえ、紙一重だった……」

 たとえ仮死状態でも、ちょっとくらいなら喋って動く程度のことはできる。俺は地面に寝転がったまま、稜威雄走を持つ右手を女魔人の方へ向けて。

「Au revoir, une jeune dame」

 合ってるかどうかはわかんないけど、フランス語で一応さよならを告げたつもり。
 ガアン、ガアン、ガアン。稜威雄走のトリガーを三回引いて、十ミリ特殊弾を女魔人へ三発ばかり送り込む。俺と女魔人の位置がどうにも悪くて鼠径部から撃ち込む形になっちまったけど、別に他意はない。ないったらない。
 股から裂かれたような状態になって、女魔人は仰向けに倒れていく。それでもコイツの治癒能力はさすがの一言で、途中まで傷を治そうとしてたんだが、俺がトドメを刺すべきか悩み始めた頃に事切れた。光の粒子が舞い上がり始めたんだ。蘇生に必要なエネルギーが枯渇したんだろうな。さっき心臓ブチ抜かれたばっかだもん。
 やがて女魔人の変身が解けていって、死の間際に一瞬だけ人の姿に戻ったみたいなんだけど、俺はよく確かめていない。早々と目を逸らして背を向けてたから。
 彼女は衣類を身に着けてなかったんだ。激しい戦闘の最中に破れてしまったんだろうけど、いくら敵でも女は女。惨たらしい傷を負って裸で死んでいく様を、赤の他人に、しかも男の俺に見られるなんて、やっぱ嫌だろうしさ。

「……お?」

 急激な変化の反動で一斉に萎れ、枯れ果てていく植物類を引きちぎり踏みつけつつ立ち上がると、割と近くで「タンタンタタンッ」と拳銃のものらしき銃声がした。それに紛れて獣の微かな呻き声。
 結女の方も一区切りついたらしいな。一対一になった時点で心配はしてなかったんだけど、もうちょい早くに片付けて加勢してやりたかったよ。
 俺は森を出て、結女が戦陣を張っていた渓流の岸辺へ戻る。

「うわ、すげェなコレ」

 持っていた武器を使い果たし、ぜえぜえはあはあと肩で息をする結女の前に、馬か牛かと見まがうほど巨大な狼の骸が転がっていた。あの人狼め、本気出したらこんなになるのかよ。既に光の粒子になって消え失せる兆候が見えていたけど、結女のヤツよくこんなのと一人で戦って勝てたもんだ。

「……あ、だ……っ、旦那様……」

 俺が戻ってきたことに気付いて、結女が話しかけてくる。
 その顔が、びっくりするくらい真っ青。

「お……っ、お怪我は、な……っ」

 俺の心配より自分の心配をしろよお前もう立ってるのもやっとだろ、って思うや否や、結女の膝がガクッと折れた。こりゃヤバいと思って事前に駆け出していたことも功を奏し、結女が地面に倒れ込む前に何とか間に合い、抱き留める。

「す、すみませ……っ、ほとんど、旦那様に、頼り切りで……たった、一匹しか……」
「何言ってんだ、よくやったよお前は。ホントによくやってくれた」

 とりあえずその場に座らせながら、頑張った愛妻の額に軽くキス。

「お前がいなかったら、ここまでトントン拍子に片付けられなかった」
「……いえ」

 結女の視線が俺の方から外れ、脇へと泳ぐ。
 その先を見てみると、俺が駆けつける前に絶命した自衛官たちの骸があった。

「あの子たち……の、おかげで……」

 結女から見たら、そうなるのか。
 いや、俺から見ても同じだよ。ここに来るまでと、ここに来た後と、本当にちらっと見ただけだったから、今まで漠然と感じるだけで終わってて、気付いてなかったんだけどさ。

 この自衛官、全員、装備が変なんだ。

 持ってるライフルは自衛隊制式の八九式じゃなくて、小さくて軽くて取り回しが容易なポリマーフレームのPDWばかり。結女がさっきまで背負ってたシリンダー型のグレネードランチャーもそうだ。堤塞師の進路を塞いだ迫撃砲らしき攻撃はこれだったんだろうけど、確かアメリカ製だかイスラエル製だかで、榴弾をありったけバラ撒いて広範囲の敵を一掃しようって剣呑極まりない代物なんだ。自衛のため最小限度の戦力しか持たないってのが建前の自衛隊では、採用の検討すらされてないんじゃないか。
 つまりこの自衛官たちは、ろくに使用したこともない、当然ながら訓練もしていない、そんな武器ばかりを携えて、魔人との決死の戦いへ臨んだことになる。

「たとえ死すとも、御前のために……か」

 呟いた俺の腕の中で、結女が手を組み、目を閉じ、黙祷を捧げていた。

 俺たち夫婦は、これまで、どれだけ多くの人に支えられてきたんだろう。
 そしてこれからも、どれだけ多くの人たちに迷惑をかけていくんだろう。

 でも、それを憂うことは、しない。

 俺たち夫婦の戦場は、これ以は一歩も譲れない際の際にあるものだから。
 どれだけ迷惑をかけようが、戦い続ける、未来永劫守り抜く。

「……んで、今日のところは、とりあえず」

 ほとんど無自覚にかけていた稜威雄走の安全装置を外しつつ。

「てめェを潰して、エンディングだ」

 明後日の方向へいきなり発砲。驚いた結女が俺の腕の中で身体をビクッと震わせ、俺が弾丸を撃ち込んだ方向を確かめて――息を呑み、身体を固くする。
 遅ればせながら、俺も結女と同じ方へ視線を向ける。

 俺が放った弾丸は、割と近くにあった樫の大木の幹をわずかに削り取っただけだった。狙いを外した訳じゃない、躱されたんだ。本来の標的は木の側に立っているヤツの方。背広姿に革靴という場違いな格好で、腕組みして悠然と立っている壮年の男。

「堤塞師……?! そんな、気配は全く……!!」

 青ざめた結女が慌てて立ち上がろうとしたが、俺は愛妻を抱いたままの左腕に力を込めて留まらせる。

「驚くことはねェよ。そのくらいの芸当、ヤツなら朝飯前だろ」

 拓海の親父なんだからな。息子が出来ることは当然やってのけるだろ。
 結女を座らせたまま、俺はゆっくりと立ち上がり、結女を背に庇うようにして堤塞師と向き合う。その動作の中で稜威雄走の弾倉を破棄。弾倉が銜え込んでいた弾薬はまだ一発残ってるんだが、それはもう稜威雄走のチャンバーに装填されてるからな。弾倉そのものはもうカラッポだ。
 そして、八発の特殊弾を銜え込んだ最後の予備弾倉を装填。薬室の一発と会わせて残り九発。拓海の上位互換と戦うにはちと心許ないが、これで何とかするしかない。

「ずいぶん遅いお出ましじゃねェか。どこで道草食ってたんだ?」

 返事はない。こちらが戦闘態勢にあるのはわかってるくせに、堤塞師はまだ人の姿のまま。虫魔人の本性を見せようという気配もない。

「俺が女魔人と遊んでる最中には間に合ったはずだろ。結女に殺られた人狼だって助けられたかもしれねェな。何で見殺しにした? 後で飼い主に叱られるんじゃねェのか? それとも……こっちの手の内を知るための捨て石にしたか? 薄情なこったな」

 ちっ、喋ってる声が微かに震えてやがる。まさかビビってんのかよ、俺。

 いいや、違うな。武者震いってヤツだ。五感が研ぎ澄まされ、肌が粟立ち、全身が溶岩のように熱くなってきた。湿った服からうっすらと湯気が立ち上るほどに。

 けれど、対峙する堤塞師は、まだ涼しげな顔のままで。

「理解に苦しむ」

 憐憫とも諦観ともつかない目を、俺に向けてくる。

「学校で会った時とは別人のように強くなった。まさか私の部下を殲滅するとは思っていなかった。正直言って計算外だったよ。それは認めよう。しかし……それでも、二十年前の君に戻った、ただそれだけだ」

 組んでいた手を解き、いよいよ戦闘態勢かと思いきや、両手をズボンのポケットに突っ込んでゆっくりと歩き出しただけ。

「君に勝ち目はない。わかりきっていることだ。君と違って、私は二十年前のままではない。君を負かした時よりも遥かに強いつもりだ。何故わざわざ殺されに来た?」
「侮るな! 今度は私もいる、貴様ごときに……!!」

 結女が立ち上がり前に出ようとしたので、俺はそれを手で制する。

「全ての記憶を取り戻し、三千年近く連れ添った伴侶への愛も思い出した。そして、彼女がむざむざ死ぬのを看過できなくなった。そういう解釈でいいのかね?」
「…………」
「ここだけの話だが、主は今も君のことを高く評価しているようでね。遥か古代、この地に棲まう愚昧な輩を束ねて国を興し、期待した以上の卓抜した成果を挙げたことを、今も憶えておいでのようだ。それが何故、ここまで我らに刃向かうようになったのか」
「…………」
「やはり、君が伴侶と認めたその欠陥品に、全ての原因があるのかな?」
「…………」
「おっと、怒らないでもらいたい。これは言葉の綾だ。どうやら主は、君たちの関係をそういう風に認識しているようなのだよ。喩えるならば、そう、アダムとイブのようなものか。蛇に化けたサタンに唆されて父なる神の言いつけを破り、知恵の実を口にして楽園を追放された神話は、君もよく知っているだろう」
「…………」
「はるか大昔、君は主が課した使命を十全以上に成し遂げ、主がそうあるようにと願ったとおり無限の命を終わらせようとしていたそうじゃないか。だが、君の伴侶は違った。主の命に背き、いたずらにこの国を長らえさせようとした。だから主は、武力による制圧と平行して使者を出し、君に彼女を説得するよう促した。主の忠実なる僕であった君はその意を受けて、武力衝突の前に伴侶を翻意させようとした……と、私は聞いている。それが事実であれば実に素晴らしい、全ての御使いが手本とすべきだ。その後に君が女にほだされて、主に反旗を翻したというオチさえつかなければね」

 堤塞師が歩を止める。俺との距離は、ほんの数間。

「だから主は、記憶を失った君に機会を与えたんだ。今度こそ正しき道を選んでくれるはずだと。なのに何故だ? 何故また同じ過ちを繰り返す?」

 それで、堤塞師は話を切った。
 返答を待っているらしい。

 呆れかえった俺は、深い深い溜息を吐いて。

「なにを勘違いぶっこいてんだこのヌケサク」

 堤塞師は片眉だけを器用に吊り上げる。ミスタースポックかよ。

「俺が何を考えてるかだと? てめェも魔人になる前は日本人のはしくれだったんだろうが。日本史の授業で習ったはずだろ。さわりだけなら小六のガキでも知ってんぞ」
「……意味がわからないのだが」
「伊弉諾と伊弉冉の国産みはどうやって始まった? 上にいたもっと偉い神様に産めよ増やせよ地に満ちよと命令されたからか? 違うだろ。どうすべきか夫婦で相談して、愛し合って、そのうちに自然と国ができて、そして栄えていったんだ」
「…………」
「俺がてめえらの大ボスに逆らったのはな、お前らが思ってるよりずっと前だよ。コイツと出逢ったその時だ」

 側にいた結女の頭を、艶やかな黒い髪を、左手でくしゃっとかき混ぜて。

「こんなにいい女なのに、一目惚れだったのに、まともに口説くことすらできなかった。何もかも都合良く仕組まれすぎててクソむかついたんだよ。だからボスのお膳立てを蹴って、その後に自分の意思で、自分の心の声だけに従って、俺たちは夫婦になったんだ」
「…………」
「俺たちが今使ってる名前もそうだ。お互いに考えて贈り合ったんだ。あの頃の名前ってのは魂に等しいものだったからな。俺は結女に、結女は俺に、それぞれ新しい魂を贈り合ったんだ。他の誰のためでもない、俺たち自身のために、二人で一緒に生きていくことを決めたんだ。天神からもらった魂なんぞ捨てたも同然、今思えばその時にもう、俺たち夫婦はてめェらと決裂してたんだよ。……その後の国作りを評価してくれてんのは百歩譲ってアリガトウっつっといてやるけどな、俺たちがやりたかったことと、てめえらのボスの方針が、途中までたまたま被ってたってだけだ」

 俺は、結女の頭から手を放す。
 すると今度は、結女の方から、俺の手をきゅっと握り返してきた。

「ま、夫婦も長いことやってると喧嘩くらいするし、離婚の危機に発展しそうになることもあるけどな。有り難いことにうちのカミさんは出来た女でな。俺をずっと待っててくれた。私の夫は激務に疲れ果てて心を病んだだけだから、充分に休めば思い出してくれるって。自分が心を病んだときも辛抱強く回復を待っていてくれたんだからって。二人で作った国を、我が子のように思って守ってきた奴らを、俺が帰ってくる場所を。この世の全てを敵に回す覚悟で、一生懸命守っててくれたんだ」

 だって、結女にはそうする理由があったんだ。知ってたんだからな。

 俺と結女の子供は、そのほとんどが生き延びていたことを。

 ずっと内政を担って国の中を見ていたから、死んで元々と諦めていた子供たちが健やかに育ち、大人になって子を成し、それなりに幸せな生涯を終えて、民草たちの血の中に溶けていったのを見ていたんだ。それと直接関係あるかどうかはわかんないけど、日本の民話に登場するヒーローやヒロインって大抵どっかで拾った子供なんだよな。たとえば桃太郎、一寸法師、かぐや姫。特別な才能や美貌の持ち主は捨て子と相場が決まってるって、民草にそういうイメージを定着させる一因になったのかもしれない。
 でも、俺たち夫婦の子供を実際に育てた翁や媼は、民話みたく「すくすくと育ちました」と一言で済むほど簡単にはいかなかったろう。俺と結女の間にできた子はどいつもこいつも、際立った才能と引き替えに人として大事な部分が欠けてたはずだ。育児にはさぞ骨が折れたことだろうさ。
 けれど、翁たちや媼たちは、そんな厄介な子供の面倒をちゃんと見てくれた。その一家を支える村人たちも同じくだ。自分たちだって日々を何とか食いつないでいただろうに、余裕なんてなかったろうに、困ってるヤツが身近にいると手を差し伸べて助け合わずにはいられない。どんだけ優しい連中なんだよって。

 あの頃の俺は、この国の人々の悪いところばかりを、たまたま見続けていたんだ。

 権力の甘い蜜吸いたさに打算ばかり働かせる腹黒いヤツ、浅知恵を働かせて叛乱を起こすヤツ。そういう手合いを殺っつけるのが仕事だったから仕方ないんだけどさ。ほんの少し視野を広く取れば、日々平穏に過ごすため手を取って助け合い励まし合う名も無き民草の存在に気付けたはずだ。文明を築くにはとことん向いていない無残な島国、だからこそ育まれた優しい心を持つ人たち。そのお陰で俺の国作りが予想以上に上手くいったんだと、そこに思いが至らなきゃいけなかった。

 そうさ、そんなに優しい奴らばかりだから。
 俺みたいなバカ野郎を、国産みの神様なんぞと勘違いして祭り上げちまったんだ。

 だから俺は、その責任を取るべく最初の稜威雄走を手に取った。当時はもちろん拳銃なんかじゃなくて、いわゆる十握剣の一種。大陸みたく上等な鉄が採れないこの土地で、それでも何とか俺に相応しい剣を自分たちの手で作り出そうと試行錯誤したもの。国産みの父たる男神が舶来物の剣を使わなきゃいけないのは申し訳ないと、鍛冶職人らが心血注いで作り上げたらしい。後の日本刀ほど洗練されてないし、見た目もブサイクだったけど、当時のザコ魔人を一刀両断するくらい余裕でいけたし、海を渡ってきた軍勢を追い払う時にも大活躍。最後まで折れも曲がりもしなかった。さすがはメイドインジャパン、こんな昔から品質過剰だったらしいや。

 愚民だなんて、口が裂けても言えねェよ。
 どいつもこいつも、すげェ奴らばっかだ。

 見ろよ、その証拠がこの国だ。そりゃ時々間違いもするさ、私利私欲に目が眩んだり、貫くべき正義を勘違いしたり、調子に乗って痛い目を見たりもするよ。でも、雲の上でふんぞり返ったクソ野郎の指図がなくても、俺や結女が直接手を下さなくても、自分で考えて、工夫して、お互いに助け合いながら、二千六百年以上の長きに渡ってどうにかこうにか国の形を保たせてきたんだ。

 世界平和? 人類の進歩? 大局から見れば俺の方が悪党だ?
 ンなもん知ったことか。

「三千年だろうが三億年だろうが、未来永劫、俺のやることはただ一つ」

 現代最強の威力と信頼性を併せ持つ最新の稜威雄走を、ついと掲げて。

「この国を――俺の家を荒らすヤツを、全力で叩き潰すのみだ」

 堤塞師に、その銃口を向ける。

「最後通牒だ。クソみたいなボスと手を切って俺の側に付け。でなきゃ殺す」
「…………」

 わずかな沈黙の後、堤塞師は盛大な溜息を吐く。

「まあ、そうなるだろうと思っていたがね。雰囲気こそ多少は変わったようだが、君という人間の本質は二十年前と何も変わっていないな。……残念だよ」

 この日、初めて。
 堤塞師の全身から、殺気が噴き出した。
 それを受けて、結女も手に持った拳銃を構えようとする。

「お前は退がれ」

 俺の言った言葉に、結女は信じられないと言わんばかりに目をひん剥く。

「折れてたろ。足の骨。人狼にやられて」
「……っ」
「あんな顔色してりゃあバレバレだっつーの。危うく気絶しかけて」
「もう大丈夫です、疲労感もほとんど……」
「わかってるよ。さっき頭を撫でたんだから」
「…………」
「一、二歳分くらい巻き戻したな。背丈がそんだけ縮んだなら、手も一回り小さくなってンだろ。握力も相当落ちたはずだ。それで銃なんか満足に撃てるのか?」
「で、でも、旦那様お一人では……!! 私はこの二十年、この時のために!」
「足手まといだっつってんだ。それとも何か、一対一で俺が負けると思ってんのか」

 結女の目を、まっすぐ見据えて、言う。
 今の俺の顔は、堤塞師には見えていないはずだ。

「もう一度だけ言う。退がれ。言う通りにしろ」

 結女の目が、俺の視線を受け止める。
 涙がこぼれ落ちそうなほど潤んだ目で、泣きそうな顔で、唇を噛みながら、黙って数歩、後退る。

「……それでいい」

 そして、改めて、堤塞師の方に向き直って。

「念のために訊いとくが、俺より先に結女から片付けようなんて思っちゃいないよな?」
「そうする理由がない。もはや彼女は脅威たりえない。そんな相手にかまけて一時でも君に背中を向ける方が問題だな。まずは君を斃して、彼女の始末はその後だ」
「それを推し量るために部下を捨て石にしたんだもんな。クソ外道」
「何とでも言いたまえ」

 堤塞師が、人の姿を捨て、虫魔人の本性を現そうとする。

 その刹那、俺は稜威雄走を一射。変身や合体の最中に攻撃を仕掛けるなんてロマンのない真似はしたくねェんだが、こっちも余裕はないんでね。隙あらば突かせてもらう――って、まあ楽勝で躱しますよね。わかってたよ畜生め。

 変身を終え、俺との距離をゼロに縮めた堤塞師が、必殺の拳を繰り出してきた。

 自然と加速していく俺の意識は、その動きを目で確かに捉えていたし、だからこそヤツの拳が腹へ突き刺さる前に余裕をもって回避もしたんだけど、その速度が尋常じゃなかった。音速を優に越えてるんじゃないのかコレ。拳そのものは掠めてすらいないはずなのに、上半身に羽織ったジャケットが衝撃波らしきものに煽られて裂けやがった。

「……のやろっ!」

 半ば反射的にカウンターで肘を繰り出す。気色悪い虫野郎の巨大な複眼に直撃。JIS規格のヘルメットくらいは余裕で砕く威力が乗ってたはずだけど、堤塞師の首がちょいと揺れ動いただけ。さすがに目は弱点だろうとタカをくくってたんだが、どんだけ頑丈なんだよこの野郎。

 転瞬、蹴りが飛んでくる。俺はひらりと跳んで躱す。
 そのまま堤塞師の背中へ回し蹴り。当たらない。こっちも躱された。

 宙に浮いて逃げ場のない俺に、堤塞師が再び拳を繰り出そうとする。俺は即座に稜威雄走を発砲。寸前でこれに気付いて避けた虫野郎の上半身が流れた。威力もなく狙いも外れた敵の拳を足場にして俺は後方へ跳躍、地面に着地すると同時に数回のバク転を繰り返して間合いを取る。もちろん堤塞師はその俺を追ってくる。

 と、堤塞師の着た背広が裂け始めた。
 背中から腕が三対生えてきて、合計八本の腕がお目見えだ。

 これと真正面から殴り合うのは得策じゃない。俺は森に飛び込み、手近の木を盾にしながら相手の隙を窺う。逆に堤塞師は猛攻に出る。連打、連打、連打。ヤツが拳を振るう度に木の幹が弾け、吹き飛ぶ。

 その威力は、稜威雄走の特殊弾に数倍すると見た。

 俺の胴回りの倍ほどもある太い木でさえ、堤塞師の拳をまともに食らうと爪楊枝みたいにポッキリ折れちまう。単純にブン殴ってるだけじゃなくて、どうも拳に何か細工があるらしい。超振動で物質の分子結合を破壊するとか何かそんなの。でなきゃこんなに太い木をバキバキなぎ倒せるはずがねェ。つーか環境破壊は良くねえぞ少しは自重しろ。

 なるほど、確かに強ェわ、コイツ。

 身のこなしは人狼以上に速いし、間合いに入れば八本の腕をフルに使ってイカタコもどき顔負けの全方位攻撃を仕掛けてくる。頭の巨大な複眼は三百六十度の視界を常に確保してるようだから、俺がどんなにフェイントを仕掛けても見失うことがない。これじゃあ人体模型お得意の空間転送能力を利用した罠をいくら仕掛けても事前に察知するだろう。一発でも攻撃が当たれば大抵のモノは粉々にされちまうから、女魔人の超回復力があっても即死は免れ得ない。
 最強の魔人。なるほど確かにそうなんだろう。飼い主の意に背いた魔人を始末するために生み出された、対魔人戦特化の超魔人だ。

 ――でも。

 何か、変だ。

「どうした。そうやって逃げるだけかね?」

 俺はいつの間にか、人体模型と殺り合っていた岩場へ来ていて。

「私のスタミナ切れを狙っているなら、無駄なことだ!」

 襲いかかってくる堤塞師を紙一重で躱し、俺はもう一段高い場所へあった岩の上へ跳躍。それまで俺が立ってた場所は堤塞師の拳を受けて割れ、砕け、その際に起きた轟音が三峯の山全体をビリビリと震わせる。

「……あのさあ。ちょっと訊きたいんだけど」

 堤塞師を見下ろしながら。

「お前、ホントに二十年前、俺に勝ったのか?」

 虫野郎の表情なんて読める訳ないんだけど、触覚がピコンって動いたから、何かしら驚いたか意外なことを言われたような気分だったんだろう。多分。

「上手く言えねェんだけど、俺、お前に負ける絵がどうにも思い浮かばないんだよな」
「戯れ言を……!!」

 物凄い速さで、飛びかかってくる。
 でも、俺はそれを躱して、さっきまで堤塞師が居た場所へひらりと舞い降りる。

 ――さほど、疲れてない。
 戦い始めてもうどのくらい経ったっけ。俺、ほとんど汗もかいてないんだ。

 そりゃまあ、そうか。堤塞師は基本的に力押しだもん。こう来るだろうなって予想の通りに攻撃してくるから、こう避ければいいよねって感じに動いてるだけだし。自分の身体の動きに急ブレーキや急加速を強いるようなことがないから、ほとんど省エネモードで対処できてしまうんだ。
 そりゃね、堤塞師って言えばさ、格闘技の本を書いて世間に認められたくらいだからさ。さすがに素人とは言いませんよ。戦いの呼吸はわかってるし、フェイントだって使ってくるし、人体の構造をわかった上でこう攻めれば避けにくいとか弱点はきっちり突いてくる。普通だったら瞬殺されてるだろうな。普通なら。

「生憎と、俺は特別なんだよな……」

 俺は、堤塞師に背中を向けたまま。
 堤塞師は、当然、その俺の背中に殴りかかってくる。

 でも、ヤツが必殺の拳を繰り出したその場所に、俺はもう居ない。
 ぴょんぴょんぴょん、と、渓流の水面に顔を出した小さな石を蹴りつつ、対岸まで楽に逃げちゃったりして。
 んで、距離を置いて改めて、堤塞師と向き直る。

「おっかしいなァ、これなら拓海のほうがよっぽど……。あいつの上位互換なんてとんでもねェな、これじゃ下位互換じゃん」

 言ってみて。
 はたと気付いた。

 拓海の身のこなし、拓海の攻撃の組み立て方、拓海の殴り方、拓海の蹴り方。そのどれを取っても堤塞師とはまるで似ていない。つーか、もしこの親子の戦い方が似てたら、俺はもっと早くに堤塞師のことを夢の中で思い出してたんじゃないかな。

 そうなんだよ。今にして思えば。
 本気を出した拓海の戦い方は、むしろ――。

「……おっと」

 考え事してたんで隙だらけに見えたんだろう。堤塞師がまた跳躍力にモノを言わせて物凄い速さで殴りかかってきた。でも結果は同じ。俺はホイホイと八本の腕と一対の足の攻撃を躱して距離を取り直す。

「な、今のでアンタも気付かないか? 意図的に似せてみたんだけど」

 堤塞師の触覚がピコピコ動く。こうして見ると結構可愛いなコイツ。

「今の避け方、身のこなし、そっくりだったろ?」
「……二十年前の君そのものだ。それがどうした」

 あれま。

「いや、その、あんたの息子に……。瀬尾拓海に似せてみたんだけど。しょっちゅう稽古つけてやってたんだろ? わりかし本気で」
「それが何だ」
「ひょっとして、あんた、最近はずっと息子に負けてたのか?」

 堤塞師が鼻で笑う。いや今は鼻とかないんだけど、呼吸音がそんな感じだったんで。

「将来は御使いに加わりたいと言うから、それなりに相手はしてやったがね。あの子が私に勝てたことなど一度もない。当たり前だろう。たかが人の身でこの私に勝てるものか」

 その物言いに、カチンと来た。
 だってさ、自分の息子なんだぜ? いつかは後を継ぎたいって、父親の信じる正義を俺も貫いていくんだって、そう思って必死で頑張ってたんだぜ? それを何だよ。あんなザコを相手にして面倒臭いことこの上なかったぜ、みたいな言い方しやがって。

「お前なあ、自分の息子を何だと思って――」

 ――待てよ。
 拓海が俺の正体や魔人のことを知ったのは、誕生日の翌日。俺、結女、コノの三人と一緒に国会議事堂へ行った時だとか言ってたよな。親父さんからそれとなく聞かされてはいたけれど、こういうことかと納得したのはあの日が最初だって。

「……ひょっとして、お前」

 もう、俺の中では、ほとんど確信だったけど。
 堤塞師本人に、ちゃんと訊かずにはいられなかった。

「徹頭徹尾、拓海を利用してただけなのかよ。だから誕生日にも何もしなくて、具体的なことは何も教えなくて、俺の監視に都合がいいからって、ただそれだけで……」
「その役割すら満足に果たせなかったがね。君がこちらへ向かっていると連絡すら寄越さなかった。心底使えない子だよ、あれで曲がりなりにも私の血を引いているとはね。御使いになりたいなどと笑わせる、責任感などかけらもない」
「…………」

 ごめん、拓海。
 俺、勘違いしてた。

 今、やっと、わかったよ。

 大切なダチが、これまで何を考えて、どんな思いを抱えて生きてきたのか。お前が必死で頑張って、少しずつ強くなる度、何で俺、すっげェ嬉しかったのか。

「つまらんことをベラベラと……お喋りはもう沢山だ!」

 堤塞師が地を蹴り、俺に襲いかかる。
 稲妻のような速さで右へ左に動き、いくつもの残像を残しながら距離を詰めてきて。

「……ぬおっ?!」

 派手な水飛沫を上げて、沢の水面へ落ちていった。
 何が起きたのかわからなかったらしく、ヤツは慌てて立ち上がろうとしたんだけど。

「あ?! ぐッ……」

 左足を庇うようにしてスッ転び、再び派手な水飛沫。
 堤塞師の太腿に、小さな穴が空いていた。

「虫野郎でも、血は赤いんだな」

 ヤツと交差するその瞬間、俺は懐に飛び込み、ほぼゼロ距離で十ミリ特殊弾を撃ち込んだんだ。八本の腕が作る死角に入ってたから全く見えなかったんだろうけど。

「それでも貫通はしねェか……なるほどね。二十年前に俺が負けた理由もそれか。稜威雄走がなかったから決定打を叩き込めなかったんだな。そのうちにスタミナ切れ、防戦一方、んでもって半殺しの目に遭わされた、と」

 そういや結女も、負けたけど紙一重だった、とか言ってたっけ。

「……このくらいの傷、大したことはない」

 虫野郎が強がりながら立ち上がる。
 なるほど、結構な治癒能力も持ってんのか。もう太腿の傷は塞がりかけてるや。
 でも。

「言っとくが、お前に勝ち目はねェぞ、虫野郎」
「フン、たかがこの程度で勝ったつもりかね」
「ああ、勝ったつもりだ」

 断言してやる。

「お前の底は、もう見えた」

 構えも取らず、だらんと稜威雄走を右手に提げたまま、虫野郎の側へ飛び降りる。

「何も知らないあんたに、特別に教えてやるよ。お前の息子はお前なんかより遥かに強ェよ。俺はここに来る前、拓海のヤツに素手で殺されかけたんだ」

 堤塞師の答えはなかったが、ボクチンそんなの信じられないって感じで触覚がピコピコ動いてやがる。さっきは可愛げもあるかと思ったが、ありゃ気のせいだ。今はもうゴキブリのそれにしか見えん。

「……拓海のヤツはな、本気であんたに憧れてたんだ」

 いくつになっても男なんてガキのまま。自分の父親が崇高な使命を語り、あまつさえ変身なんぞして見せた日にゃ、お父さんは本当のヒーローなんだって勘違いもするよ。そりゃあテンション上がらいでか。どんな無茶な指示だって可能な限り聞こうとするさ。

「拓海のヤツはな、本当にあんたのことが好きだったんだ」

 憧れていた父親を越える力を手に入れたとしても、誰が自分の親父を殴りつけて強さを誇りたいなんて思うもんか。真面目くさったあいつのことだ、それでも父さんから学ぶことは沢山あるはず、俺なんてまだまだだって、自分の心の中にある理想の父親を目指して一人黙々と研鑽を積み続けたんだろうさ。

「拓海の親父さんだから、二度と俺にちょっかい出す気が起きない程度に痛めつけて見逃してやろうかなって、さっきまではちょっとだけ思ってたんだけどな。気が変わった。てめェはやっぱここで殺す」

 こんな虫野郎なんぞにコキ使われたせいで、よりにもよって心底惚れた女に刺されて、今頃は病院で生死の境を彷徨ってるなんてさ。道化どころじゃ済まねェよ。

 あんなにいいヤツなのに。あんなに真面目なのに。あんなに強いのに。
 どんな悪党も自分の名前を聞いただけで震え上がる、そんな正義の味方を大真面目に目指していた、心底アホなバカ野郎なのに。

 そうさ。

 あいつが本気で目指してたのは、一生懸命真似してたのは、必死で越えようとしてたのは、本当になりたかった理想の姿は、こんな虫野郎なんかじゃない。

「俺の大事な息子を――たった一人のダチをコケにしやがって。楽に死ねると思うなよ」
「ケエェエエェアェエッ!」

 虫野郎が何とも形容し難い奇怪な声で吠え、俺に飛びかかってくる。
 右へ左へ身を捌き、虫野郎の攻撃を一つ残らず全て躱して。

 ズドン、と一発。

 心臓を狙ったんだが、弾丸は虫野郎の外骨格を貫通していない。表面にちょっとめり込んだところで止まっている。虫野郎はほんの少し後方にフッ跳んだだけで、たたらを踏んで踏み留まった。急所は特別頑丈にできているらしい。なら、同じ場所をピンポイントで狙い続ければ――って、それが簡単に出来るほど甘い相手じゃないか。

 狙うべきは、あの強靱な外骨格で守られていない場所。

「グキェエエェェェエエエァアアアァエェエッ!!」

 虫野郎がまた吠える。追い詰められていることに気付いて余裕がなくなってきたのか、虫っぽさに磨きがかかってきた。さらに動きが速くなって、さらに攻撃の威力が増す。空を切る拳が崖を削って吹き飛ばし、空を切る足が大地を割る。

 まあ、それでも、俺には当たらないんですけどね。

「あらよっと」

 虫野郎の突進をスルリといなし、背後に回ってバァン。
 八本ある腕のうち一本、その関節部分へ命中。根元から見事にもぎ取った。

「ゥガ……ッ、ギギギッ……!!」

 外骨格で守られていない場所へのクリティカルヒットがよっぽど堪えたのか、虫野郎が身悶えしながら俺との距離を取る。出血はすぐに止まったようだし、痛みも後を引かなかったようだけど、それが虫野郎の治癒能力の限界らしい。もがれた腕がまた生えてくることはさすがになかった。七本になったまま。

 関節狙い作戦、効果アリ。
 となると、虫野郎に致命傷を与えられるのは――首筋か。

 稜威雄走の残弾は残り四発、使い切ったらこっちの負けが確定しちまう。勝負をつけるのは早いに越したことはない。今度は俺の方から虫野郎との間合いを詰めていく。
 単純な速度で言えば向こうの方がダンチで上だから、逃げようと思えばいくらでも逃げられるはずなんだが、最強の魔人という小さなプライドが邪魔をしたんだろう。俺の攻めを受けて立ちやがった。足場の不安定な岩の上を跳んだり跳ねたりしつつ、カンフー映画さながらの組み手を繰り返して主導権争いが続く。その最中、俺の狙いが首筋へのゼロ距離射撃と気付いたらしく、七本の腕のうち二本は必ず首筋の防御へ回すようになる。

 このアホめ。まさにそこが弱点ですよ大正解と言ってるようなもんだ。

 俺はこれまで以上に集中力を高め、ここぞとばかりに自分の肉体が持つ全ての潜在能力を開放する。心臓の鼓動が限界まで早まり、大量の酸素と共に内臓が蓄えていたエネルギーを一挙に放出。圧倒的な血流量に刺激された全身の筋肉が本能の軛から解き放たれて膨れあがり、身体が一回りも二回りも拡大するような錯覚が起きる。
 エンジン全開トップギアに入ったのは肉体だけじゃない。神経や感覚器官も極限を超えて研ぎ澄まされていく。五感が拡大し、周囲の時間の流れが緩慢になり、視野に入っていないはずの背後の岩場で砂粒が崩れて流れる様や、川の底で身を隠す鮎の稚魚の存在すらもがはっきりと見えてくる。まさに明鏡止水の極地ってヤツだ。

 こうなれば、もう。
 相手に七本の腕があろうと、それをどんなに速く動かそうと、両手を振り回してヤケクソ気味に殴りかかってくる幼児と大差はない。

 間合いはゼロ、ちょいと手を伸ばせば目障りな触覚をむしり取れる場所から一歩も動かず、俺は腕と足を巧みに捌いて虫野郎の攻撃を紙一重で全て躱す。隙あらば特殊合金製の稜威雄走の台尻を脆い関節部分へ叩き込み、どうしてもお留守になりがちな足元めがけて肘や膝による体重の乗った一撃を放ち、少しずつ相手の重心を狂わせていく。

 十合、いや、二十合、ひょっとするともっと打ち合っただろうか。

 ついに俺は、虫野郎との真正面の殴り合いに勝った。

 体勢を崩した虫野郎の足は自分の身体を支えるだけで精一杯。七本の腕のうち五本がことごとく俺に弾き飛ばされ伸びきって、すぐに俺を攻撃できる位置にはない。

 残るは、弱点である首筋のガードを固める、二本の腕のみ。
 でも、そいつも。
 左腕一本で、半ば力尽くで。
 強引にこじ開ける。

 その時の虫野郎の顔が実にケッサクだった。いやま、硬質の外骨格に覆われて表情なんかないんだけどさ。こんなはずはない、何かの間違いだ、私が負けるはずがない、嫌だ、やめてくれ、死にたくない。そんな風にビビってやがるって、はっきりわかったんだ。

「……チェックメイトだ」

 ゴリッ、と、稜威雄走の銃口を、ヤツの首筋へ押し当てる。
 トリガーを引き落とそうと、右手の指先に力を込めて。

 ――その瞬間だった。

 虫野郎の口元が、強靱な外骨格で覆われていたはずの場所が、唐突に裂けた。
 そして、大口を開けた中には、針のように尖った無数の牙があって。
 発射寸前のミサイルみたいに、一本残らず俺の方に向けて狙いを定めていやがった。

「ちいっ……!!」

 トリガーを引き絞る時間はなかった。俺は咄嗟に身を捩って虫野郎の牙ミサイルの射線から身体を退避させる。

 けれど、ほんの少しだけ遅かった。

 勢いよく発射されて放射線状に広がっていく牙ミサイルの一本が、俺の首筋をわずかに掠めて切り裂いていきやがった。クソッタレめこれじゃ立場が逆じゃねえかよ!

「ふ……ふ、ふふふふ……切り札は最後まで取っておくものだよ」

 虫野郎が余裕を装って言いやがるが、ヤツは俺の様子をろくに見もせずに背中を向けて一目散に逃げ出した。心底ビビっていた証拠だろう。お陰で俺は追い打ちをかけられず、その場はどうにか助かった――のはいいんだが。

 やられた傷口へ反射的に添えた左手の隙間から、血が勢いよく噴き出してくる。

 かなり強く押さえているはずなのに、ぴゅっ、ぴゅっ、と、生温かいものが間歇泉みたいに断続的に飛び出て来やがる。
 おまけに、頭が、思考が、ものすご、い、いきおい、で、にぶ、く、なって、きた。

「や、ば……っ」

 頸動脈をやられたんだとかろうじて気付いた俺は、慌てて若返りの能力を行使。三、四日程度では追いつかなくて、一ヶ月くらいまとめて巻き戻すハメになっちまった。出血が止まり、うっすらと傷跡が残る程度まで回復したんだけど、これで肉体的には十八歳の誕生日に逆戻り。
 そして、何より深刻なのは。

「く、そっ……」

 のしかかる疲労。強烈な眠気。拓海に殴り殺されそうになったあの時よりもはるかに状態が悪い。さっきまで精神と肉体をフル回転させていた反動もありそうだ。

 なあに、こんなこともあろうかと、ジャケットの内ポケットにブロックタイプのバランス栄養食を一つだけ仕込んでおいたんだ。しかも俺の大好物フルーツ味。育ち盛りの男子中高生御用達のハイカロリー食品が俺の疲れを癒してくれ――っ、げほっげほっげほっ、飲み下す時に喉にひっかかっちまった。水、水、水をくれ、水。
 ここが沢の近くで助かった。清らかな渓流の水面に顔を突っ込み、ゲップが出るほど大量の水を飲みまくって給水完了。パワースポットとしても名高い三峯の霊気も取り込んでやったぜ、って、これはまあ気分の問題だけど。
 それでも手足は鉛が詰まったように重いままだったが、これくらいなら根性で何とかなる。あの弱っちい虫野郎に遅れを取るほどじゃない。

 追撃戦だ。

 逃げていった虫野郎の気配を追って森の中へ。自分の存在を欺瞞し小さく見せる術を心得ているだけあって、ちょっと油断すると俺の高精度第六感レーダーですら存在をロストしそうになる。以前の俺なら完全に見失ってたかもな。逃げたと思い込ませて油断を誘い、俺が警戒を解いたところでアンブッシュって腹づもりだろうが、そうは問屋が卸さねェぞ。
 気配を断つ、という技術の中身を具体的に言えば、心拍と呼吸を最小限に抑え、余計なことを考えずに感情のブレーカーを落とすってこと。俺の家の真ん前で堂々と見張りをしていやがった拓海の様子からそれを看破、何度か実践してみてだいたいコツは掴んできたんだが、だからこそわかる。石ころか死体も同然に擬態したままだと強く速く激しく動くことはできない。まァ当然だよな。頭も身体も満足に働いてないんだから。

 森の中、わずかに開けた場所で。
 俺は歩みを止める。

 虫野郎の気配はあいかわらずはっきりしないが、この辺りにだけどうにも普通じゃない違和感がある。ヤツは間違いなくこの近くに潜んでいるはずだ。
 目前の闇を睨み、自然体で立ち尽くしたまま、不意打ちに備えて五感を研ぎ澄ませる。こうなったら我慢比べだ。体力に乏しい俺の集中力が切れるのが速いか、いつまでも様子の変わらない俺に焦れて虫野郎が先に動くか、いざ勝負。

 ――やんわりと、風が吹く。

 梢が揺れて、静かな葉擦れの音を立てる。

 一分か、三分か、ひどく長く感じる短い時間が過ぎて。

 虫野郎が先に動いた。
 俺の右後方、それほど離れていない。

「今度こそ!」

 稜威雄走を両手で構えつつ全力ダッシュ。一気に決めてや――。

「……んなっ?!」

 走り出した俺の、背後。
 後ろへ置き去りにした大樹の陰。

 そこへいきなり、二匹の魔人の気配が湧いた。

 虫野郎じゃない。さっき殲滅した四匹でもない。全然別の新手が気配を殺して潜んでいやがった。ええい、まだこんな隠し球を持っていやがったのかよ!

「させるかっ!!」

 俺の背中へ向けて振り下ろされた攻撃を、前転の要領で咄嗟に躱す。風切り音からして得物は刃物、死神の大鎌みたいなモノだろう。大仰なだけで威圧感はほとんど感じない。今夜戦ってきた連中とは比較にならないザコ魔人と見たが、変に手こずって虫野郎に付け入る隙を与えるのは面白くねェな。

 よし、ここは貴重な弾丸を大サービス。
 ワンショット・ワンキルを二セット、一秒以下であっという間に終わらせてやる!



「……え」



 前転から膝をついて起き上がり、稜威雄走の狙いを定めたところで。
 俺は、自分の目を疑った。
 今まさに襲いからんとする、その二匹の魔人は。

 父さん、と。
 母さん、だった。

 二人が左手の薬指に填めていた趣味の悪い結婚指輪。俺の目にだけ見えていた幻。魔人の証。それが本性を現して、二人の左腕、左肩、左胸、そして顔と頭の左半分を鎧のように覆い、手にした大鎌で愛息子の俺だけを殺す魔人へと変貌させていて。

 二人とも、俺の顔を見たはずなのに。
 いや、俺の顔を見たからこそ。
 その命を刈り取ろうと、気炎を上げ、再び大鎌を振り上げる。

 けれど。
 その鎌が俺のところへ届くことは、ない。



 銃声、二回。



 事前に見立てた通り。
 一秒以下。

 それで、二人は斃れ、動かなくなる。



 背後で機会を窺っていた虫魔人も、まさか俺がこんなにあっさり二人を殺るとは思わなかったのか。気配を隠すのを止めて戦闘態勢に入ったまま、俺との距離を詰めることなく立ち尽くしている。

 そして、俺は。

 斃した魔人が――父さんと母さんが、光の粒子になって消滅していくプロセスに入ったことを見届けてから、バカみたいに呆然と突っ立ってる虫野郎の方へ向き直る。

 だってそうだろ。戦いは続いてるんだ。
 命のやりとりをしてる真っ最中だ。
 こんなことで心を掻き乱されたら、それこそ。
 虫野郎の思う壺だ。

「……お、き、つぐ」

 背後で、微かに声がした。
 父さんだった。
 死に瀕して、魔人としての能力を失い、ほんの僅かな間だけ正気を取り戻したのか。

「どう、だ、父さんが……作った、それ……」
「……ああ。すげー役に立ってるよ」

 俺は、背を向けたままで。

「これがありゃ、相手が誰だろうと負ける気がしねェよ。最高だ」

 戦意を保とうと意識しすぎて、無機質で冷たい喋り方になっちまった。
 父さんは、答えなかった。
 でも、満足そうに笑ってくれた、そういう気配があった。

「……ふ、みこ、は」

 力なく咳き込み、血反吐を吐きながら、父さんは長年連れ添った愛妻の名を呼ぶ。

「苦しむ暇もなかったと思うよ」

 本当は、父さんも、そうするつもりだったのに。
 ほんの僅かな躊躇いのせいで、こんな苦しみの時間を与えてしまった。

「おとこ……と、して……しっ、かく、だな、わたし、は……」

 その声が、悔恨に震えていた。

「かあ、さんを……まも、っ……な……」
「何を言っている」

 俺は、思わず。
 昔の口調で。

「義則、お前はよくやった。男の務めを立派に果たしたぞ」

 他の誰でもない、二人の一番近くにいた俺が、一番よく知っている。
 父さんは、母さんを迷わせることも、泣かせることもなかった。
 魔人に成り果てて正気を失う寸前まで、母さんを守ろうとしたに決まってる。

「そうだ、お前は最期の最期まで――」

 言いながら、感情が高ぶるのを抑えきれなくて。
 俺は、斃れた二人の方に、目をやって。


 ――ああ、何だ。
 俺があれこれ言葉を弄する必要は、なかったのか。

 一瞬で絶命し、瞳孔も開いたまま、仰向けに倒れて宙を剥いた、母さんの手が。動くはずのないその手が。
 いつの間にか、隣に斃れた父さんの手に、そっと、触れていた。

 それを知った父さんも、溢れる涙をこらえきれずに。

「……安心して逝け。遺言通り、葬式は派手にやってやる」

 俺がそんな、どうでもいい話をする最中にも。
 父さんと母さんの身体は、ますます光の粒になり、輪郭をなくしていく。

 この世には存在しないはずの超技術で生み出された魔人は、ほとんどがこうなる運命だ。下手に亡骸を残したが最後、頭のいい日本人に調べ尽くされて、敵がかくあれと願う世界の秩序を乱すような発明をしないとも限らないから。
 本当に、いろいろとよく出来てるよ。クソッタレが。

「……お、き、つぐ、おまえ、は……」

 消えてしまう間際。
 父さんが訊いてきた。

「どっち、なんだ……?」

 何の話か、一瞬、わからなかったんだけど。

「おま、えは……おれ、の……それ、とも……ぼ、くの……?」

 俺がつい昔の口調で喋ったから、気になったのか。
 目の前にいるのは、自分の息子か、それとも義父か。

 どう答えるべきか、俺は、少しだけ迷って。

「好きな方でいい」

 はっきりと、言う。

「どっちにしろ、俺は俺だ」

 それを聞いた父さんは、満足そうに。

「……そう、か」

 目を閉じ、頷いて。
 はっきりと、高らかに、こう言ったんだ。



「沖継、悪党どもをブッ潰せ。正義は我らと共にあり!」


 光の粒子は、完全に消え失せた。

 ――静寂。

 あのひとは。
 最期の最期に。
 俺の息子じゃなく、俺の父親として、逝った。

 よくよく考えたら、何だソレ、だよな。
 いよいよ消える、死ぬって時なんだぜ。意地を張らずに甘えてもいいとこだろ。
 でも、わかるよ。
 最期の最期だからこそ、貫いたんだ。譲れなかったんだ。

 俺は、義父としても、息子としても。
 あなたのことを、心から誇りに思う。



「……いやはや、なかなか感動的だったよ」

 ぱちぱちぱち。場違いな拍手をしながら、虫野郎が近付いてくる。

「一応、てめェにも感謝しといてやるよ」

 俺はもう、虫野郎の方を見ない。
 その醜い顔なんぞ、もう、一秒たりとも見たくない。

「お前が呑気に眺めてくれてたお陰で、ちゃんと別れの言葉が言えた」
「別れ? 何を言うのかね、すぐにまた会えるさ」

 虫野郎が、尋常ならざる妖気を漂わせ始める。
 七本の腕を持つ昆虫そっくりの姿をしていても、そのシルエットにはまだ、元は人間だったという名残があった。基本的には二本の足で歩いてたしな。

 でも、とうとう、その名残すらも脱ぎ捨て始めた。
 手が、足が、これまでとは全く違う方向へ曲がっていく。

「さっき、君は言ったね。私の底が見えたと」
「…………」
「大変な勘違いだ。私の本気はここからだよ」
「ンなもんわかってるよ、クソッタレが」

 お前が自分から教えてくれたんじゃねェか。

 魔人どもは、より高いレベルで能力を発揮するほど、人としてのカタチが崩れて醜悪さを増していく。国会で俺が斃したガマガエルもそうだし、結女に追い詰められた人狼もそうだった。
 コイツだけが、堤塞師だけが、その例外であるはずはない。

「さっき、この二十年で成長したとか抜かしてたのもそれだろ。飼い主からもらった能力を目一杯まで引き出せるようになった。……とっととやれよ。待っててやる」

 虫野郎が、吠えた。
 咆吼が三峯の山に乱反射して木霊になり、わずかな残響すらも消えた後。

 俺は、虫野郎の方をちらと見る。

 これまでの身の丈と比較して三倍はあるのか。カマキリともムカデともつかない巨大な昆虫が、小さな俺をはるか頭上から見下ろしていた。
 ひでェもんだ。別に虫嫌いっつーほどじゃない俺でも、ここまでは変身したくない。

「これで、君が勝つ可能性は、万に一つもなくなった」

 と、虫野郎が言ったかどうかは自信がない。もはや人間の口も声帯も残ってなくて満足に喋れないんだろう。ギチギチギチという硬質な何かが擦り合わされる耳障りな音ばかりが聞こえてきた。
 でも、まァ、そういう風に言ったということにして。

「やってみろよ」

 俺は、挑発する。

「それでも、勝つのは俺だ」

 虫野郎が、斧状になった巨大な腕を、俺めがけて振り下ろしてきた。




 正直言って。
 俺はこのとき、微塵も戦いに集中していなかった。

 だってそうだろ。父さんと母さんをこの手にかけたこと。それでも最期に僅かながら言葉を交わしたこと。拓海とのこと。コノのこと。そして結女のこと。今夜だけでも色んなことが起きすぎた。喜怒哀楽全ての感情が許容できる限界を振り切れて、心の中は文字通りのぐっちゃぐちゃ。自分じゃもうどうしようもねェよ。
 よしんばそれを強靱な意志の力で一つ残らず切り捨てて、さっきみたいな明鏡止水の極地に立てたとする。それでもどうにもなんねェよ。もはや人の形を微塵も残しちゃいない虫野郎の動きは予測不能。音速を超えて飛来する弾丸を躱してみせるほどの反射神経があったとしても、それは所詮、弾丸が直線的に飛んで来るからに過ぎない。銃口の向きと殺気を読んで避けているだけのことだから、この虫野郎に通じる道理はないんだ。これっぽっちもな。

 俺の目に映る景色は、今も、リアルタイムで動いてる。
 虫野郎の攻撃は速すぎて、残像すら捉えられやしない。
 勝てるワケがないんだ。こんなので。

 普通なら。




 ――轟音。

 何が起きたかなんてわかんねェ。気が付いた時には俺の身体は地上五メートルくらいの高さにあって、回し蹴りを決めた後らしい姿勢のまま地面へ向かって落下している最中だった。このまま普通に着地すると骨折しかねないんで、とりあえず足と膝と腕を同時に使って三点着地。いやん、俺ってばカッコイイ、ほんとにヒーローみたい。

 虫野郎はどうしたかって?

 知らねェよ。もんどり打って派手にフッ飛ばされてスッ転がって、何本もの樹木を薙ぎ倒しながらひっくり返ってたんだもん。だっせェな、最高にカッコワリィぞ。

「ば、っ……馬鹿な、そんなはずは……」

 と、虫野郎が言ったかどうかは知らん。さっきも言った通り、あいつはもう人間の言葉なんぞまともに喋れねェんだからな。ギチギチギチギチと飽きもせずに耳障りな音を立ててるだけ。

「……ああ、そっか」

 ようやく認識が追いついてきた。
 虫野郎が放った攻撃をひょいと躱した俺は、無駄に地面を殴りつけた斧みたいな腕をタッタカターッと駆け上がって、それから思い切り虫野郎のドタマを蹴り飛ばしたのか。んで、虫野郎の攻撃は見事に外れ、物質を粉々に破壊するっぽい能力を辺り構わず撒き散らし、周囲の木々を薙ぎ倒して轟音を立てた。と、そういうことだろ。多分。

「なるほどね。そりゃ、そうなるよな」

 妙に納得。

「カッコだけデカくなっても、元は人間サイズだもんな。重さなんてたかが知れてるわ」

 と、いうことは。

「さっきまでと、状況は何も変わってねェのか」

 敵の攻撃は躱せばいい。俺のキックやパンチも全く通用しないわけじゃない。トドメの一撃は脆弱な関節部分から叩き込む。作戦内容に一切の変更は必要ナシ。

 いけるな。

 サク、サク、サク。下草を踏みながら虫野郎の方へ近付いていく。
 その途中、手にした稜威雄走のチャンバーとマガジンを確認。

「残弾は二、か。虫ケラの命をブチ抜くには充分すぎるぜ」

 虫野郎が、飽きもせずにまた吠えた。
 カマキリ状の斧を振り回し、荘厳な三峯の自然をむやみやたらと傷つけながら、俺に向かって突進してくる。とは言えさすがに直線ルートは取らなくて、信じられない速さでチョコマカ動きながらいくつもの残像を作り、揺さぶりをかけながらだけど。

「何つーかさ、ほんとにゴキブリじみてきたな、お前」

 嘲笑う。
 心の底から、バカにする。

 相手を侮ってるんだから、それはそのまま俺の隙に繋がる。あんなバケモノを相手にしている真っ最中にこれは致命的。自分で死亡フラグ立てたようなもんだ。
 でも、今の俺の心の中は荒れ狂う嵐。嘲りの感情を抑え込んだところで、その裏ではまた違う別の心が渦を巻いている。泣きながら笑い、哀しみながら怒り、憎みながら愛で、疑いながら信じて、眠りながら起きているんだ。わかるかな。俺にはわからん。もうね、なにがなにやら。ぐっちゃぐちゃ。
 本当にわからないから、逃げられないから、どうしようもないから。
 ただ嵐の中に、荒れ狂う心の中心に、立ち続けるしかなくて。

 そうしたら。

 台風の目のような静けさが、どんどん、どんどん。

 俺の周囲に広がっていって。

 ――ふと、悟る。

 敵を侮るな。隙を見せるな。臆病になるな。焦るな。気負うな。悲観するな。戦いにおいては誰もがそう自分に言い聞かせる。勝つために、負けないために、自分が思い描く最強の自分に近づくために。心の乱れを押さえ込み、ねじ伏せ、決して揺れないようガチガチに固めていく。

 けどさ、これって、なんつーかさ。
 いかにも普通の発想だよな。

 自分の内にある何割かを封じ込めて切り捨ててるんだぜ。もったいないよ。いっそダダ流しにしちまおうぜ。どんな感情に振り回されたって構いやしねェ。相手が弱いと確信したら存分に嘲笑えばいい。隙を見せときゃ敵も油断する。臆病は用心深さと紙一重だ。焦りや気負いは高まる闘志そのもの。悲観的な見方を忘れなければ最悪の事態は避けられる。利用できるものはミソもクソも全てひっくるめて使えばいいんだ。

 だってさ。

 どれをとっても、どうせ、俺だ。
 三千年を生き抜いてきた超一流の俺なんだ。

 そう開き直って、ようやく。
 心が閃くままに身体が動き始める。

 弛緩したまま全力で。
 繊細かつ大胆に。
 逃げながら突撃して。
 一歩も動かず跳び回る。

 そうら、もう少しだ、見えてきたぞ、すぐそこに。
 今の俺なら、きっと――。




 光にすら、手が届く。



「……うわ、きったねェ」

 気付いた時、俺は青とも緑ともつかない変な色の液体を半身に浴びていて、その傍らには虫野郎の胴体が半分千切れて転がっていた。
 陸に打ち上げられた魚みたいにビッタンビッタン動き回る様子があんまりにも気持ち悪くて、俺は慌ててその場を退散。虫野郎の本体が割と近くでギャースカギャースカ喚きながら激痛にのたうち回ってたが、とりあえずほっとこ。近寄りたくねェし。

 ふと気付くと、あれま、右手に持ってたはずの稜威雄走がない。

 どこに落としたっけと周囲を見渡してみたら、何故か自分のズボンのベルトに差し込んであった。どうなってんだ?
 安全装置のかかった愛銃をよく見てみると、その銃口がうっすらと硝煙を漂わせている。いつ撃ったんだっけと考えてみて、さっきの一瞬に何が起きたのかだいたい把握。虫野郎の攻撃をかいくぐって懐に飛び込んで、胴体の関節部分に稜威雄走を一発。そこに出来た傷が癒える前に両方の手を突っ込んで、ふんぬとばかりに馬鹿力を出して虫野郎の胴体を引き裂いた。その前に稜威雄走の安全装置をかけてズボンのベルトに突っ込んだ、と、おおむねそういうことなのかしらん。

 どんな早業だよ。すげェな俺。もはや仁王様も裸足で逃げ出すな。

 今なら、拓海のヤツと素手で互角にやれるかも。

 俺がこの境地に辿り着けたのは、間違いなく、あいつのお陰だ。
 つーかさ、三千年近く生きてきた俺はいいんだ。もともと人間の身で絞り出せる戦闘力の限界近くにいたんだから。ほんの少しの気付きでこの領域へ辿り着ける素地が元々あったんだろう。でも、拓海はそれをたった十八年で駆け抜けやがったんだぜ。どんだけ才能に恵まれてんだよ、つくづくとんでもねェなあの野郎。

 ――それだけ、辛い思いをしてきたんだな。

 心の中はいつもぐちゃぐちゃで、それでも強くなりたくて、ならなきゃいけなくて。
 偶然、ヒトの領域を跳び越えるところへ、辿り着いちまったのか。

 まあね、日本人はみんな神の子だって言いますからね。鍛え上げれば誰もが生きたまま神になれるんだってさ。絵が上手いヤツは神絵師と言われ、アイドルグループのセンターを務めても神と言われる。相撲の横綱もそうだよな。土俵入りで腰につける純白のマワシは神社の注連縄とよく似てるだろ。相撲界において横綱は神様に等しい存在だという意味らしい。ホントそこいらじゅうに神様が居まくりやがる。

 それを単なる概念ではなく、本当に実践して見せたのが拓海だったんだ。
 あいつはやっぱ、俺の一番大事なダチだな。今頃死んでなきゃいいけど。

「……いけね。そんな心配してる場合じゃねェや」

 虫野郎は、まだ、殺っつけてないんだ。
 遠目で眺めている間に、巨大な姿がみるみる萎んでいく。大怪我を負ったせいで百パーセント全力の姿を維持できなくなったんだろう。残ったエネルギーを治癒能力に注ぎ込んで、どうにかこうにか命の灯火を消さずに済んだらしいが、人間と虫魔人の中間体みたいな中途半端な姿になっちまった。八本あった手も今や二本残すのみ。見るからに疲労困憊。もう逃げ出す元気も残っていないらしい。

「だから言ったろ。勝つのは俺だって」

 虫野郎の側へ、歩いていく。
 ヤツは怯えきって、地面に尻をつけたまま後ずさりして逃げようとしてたんだが、さんざん薙ぎ倒してきた木の一本に退路を断たれた。考えなしに環境破壊するからだ。

「辞世の句くらいは詠んでもいいぞ。特別に許す」

 最後の一発を残した稜威雄走の銃口を虫野郎の頭に向ける。ちょっと待ってやったんだが何も言わない。目を閉じて俯いたまま。
 観念したのか?

「じゃ、遠慮無く」

 安全装置解除。
 トリガーに、指先を触れる。

「……ふ、ふ、ふふっ、ふふふふっ……」

 突然、虫野郎が目を開き、不敵に笑い出した。

「もう勝ったつもりかね。気が早いな君は」

 悪あがきにしちゃ自信たっぷりで、思わず眉を顰める。

 と。

 背後に、突然、殺気が湧いた。

 さすがにもうこれで終わりだろと思い込んでたから、咄嗟の回避が間に合わなかった。何かが俺の背中に飛びついてきて、右の肩へ牙を立ててきやがった。

「な……?! なんじゃこりゃっ……!!」

 ミニサイズの虫野郎が俺の背中にしがみつき、肩をガブガブ噛みながら俺の背中を蹴るわ殴るわ。そういやさっき引きちぎった胴体、光になって消えたりせずにビッタンビッタン動き回って――ああもう一生の不覚だこん畜生め! 自分の強さに自惚れすぎてそこまで用心してなかったよ!!

「こ……っ、このやろっ……!!」

 放っとくと骨まで囓られかねない。俺は咄嗟に稜威雄走を左手に持ち替え右肩に向け発砲。ミニサイズの虫野郎の頭は一発で粉々になり、俺の背中からぼとりと落ちた。

 その隙に、虫野郎の本体は最後の力を振り絞って立ち上がり、殴りかかってくる。

 俺は咄嗟に、稜威雄走の銃口を向ける。

 でも、最後の一発を吐き出した愛銃はホールドオープンしたまま。

 虫野郎の拳を、胴体でまともに受けるハメになった。

「ぐは、っ……!!」

 もんどり打って倒れる俺。でもまだ生きてる。虫野郎の拳をまともに受けてよく死ななかったもんだが、それだけ向こうも疲弊し切ってたのか。すぐにでも立ち上がって応戦すべきところだけど、クソッタレ、力が入らねェ。超振動で内臓全体を揺さぶられたせいか、下半身が全く言うことを聞いてくれない。

 一方、虫野郎は。
 ふらつきながらも立ち上がって、一歩一歩、確実に近寄ってきた。

「形勢逆転、だな」

 地べたに這いつくばった俺を、勝ち誇った顔で見下ろしてくる。

「今度も、紙一重で、私の勝ちだ」

 虫野郎が胸の前で両手を組み、頭上高くに持ち上げる。

「そして、今度こそ、最後だ」

 渾身の力を込め、絞り出せる最大の破壊能力と共に振り下ろそうとする。

 それを見た、俺は。

「……ああ、そうだな」

 笑う。



「今度こそ、最後だ」


 虫野郎の最後の一撃が、今まさに振り下ろされようとした刹那。
 銀色に光り輝く何かが、俺たちの方に向けて飛んできた。
 気付いた虫野郎は咄嗟に背後を振り返るが、何せ両手を頭上に掲げてがっしり握ってたからな。飛んできた物体を叩き落とすには体勢が悪すぎた。
 銀色の物体は虫野郎の脇をすり抜けて、俺の手元へと近付いてくる。

 稜威雄走の弾倉だ。

 くるくると回転しながら飛んできたそいつには、一発だけ弾薬が装填されている。

 ――どこから湧いてきたのかって?

 俺が思うに、虫野郎と一戦おっぱじめる直前にあいつの目の前で捨てた空の弾倉だよ。そして弾薬は、あいつの目の前に一個だけ落とした空薬莢の廃品再生品。未使用の通常弾から取ったプライマーと交換し、推進剤を詰められるだけ詰めて、拳銃用の九ミリ通常弾頭を石か何かで叩いて潰して十ミリ口径に合うようデッチ上げたのか。まさかこんな風にリサイクルしてみせるとは予想もしてなかったけどな。

 ただ、あいつは俺のピンチに絶対何かやるはずだって、その確信だけはあった。

 だってそうだろ。あいつがこれまで俺の言うことをしおらしく聞いたことが一度だってあったか? この二十年で俺が舌を巻くほどの戦闘スキルを身につけたのは何のためだ? 俺と虫野郎の戦いを間近で見てれば気配の消し方も察しがついたはずだろ? あの千手観音が何もせずにボケーっと待ってる方が不自然じゃん?

 いや、そんな理屈はこの際、どーだっていいや。

「夫婦なら以心伝心、目と目で即座に通じ合え、だ」

 まずは空になった稜威雄走の弾倉を破棄、その代わりに愛情がたっぷり詰まった愛妻お手製の弾薬を銜え込んだ弾倉をセット、と同時に後退していたスライドが前進して次発装填完了。以上すべて左手に稜威雄走を持ったまま、ボタンやレバーを指先で操作しつつ手首をちょいちょいちょいと捻るだけで済む。実時間にすればほんの一瞬。

「き、っ、貴様っ……!!」

 慌てて俺の方を振り向いた虫野郎は、奥の手である牙ミサイルを放とうとしたんだろう。大きく口を開けていたが、そこには一本たりとも牙が残っていない。
 俺は容赦なく、その口の中に稜威雄走の銃口を突っ込む。
 その時の俺は、果たしてどんな顔をしてたんだろうな。あらゆる魑魅魍魎がションベン垂らして土下座して許しを請うくらい、最凶最悪の笑みを浮かべてたと思うぜ。

「本当の切り札はな、最後の最後の最後までとっとくもんだぞ。憶えとけ」

画像1


 ――銃声が、鳴り響く。

 急ごしらえの再生弾では、稜威雄走をきちんと動作させられなかったらしい。薬莢は排出されず、スライドとチャンバーの間に挟まって止まっていた。吐き出された弾丸も十ミリ特殊弾に比べれば威力は遥かに劣るだろう。
 それでも、半分人間に戻りかけていた虫野郎の口蓋を貫き、その先にある脳味噌をミキサーにかけて、後頭部にまで続く大穴を開けてやるには、充分だった。




「……おおい! 結女ェ!! 勝ったぞぉ!!」

 へろへろながらも立ち上がり、粒子化して消え失せる寸前の虫野郎のドタマを最後に一発蹴り飛ばしてやってから、俺は愛しい妻の名を叫ぶ。

「次の新月まではのんびりできるぞー!! ゆっくり休むぞー!! おーい! 結女! どこだー?! 結女ーっ!」

 近くにいるはずの結女の気配が掴めない。頭も身体も疲れ果てて、自慢の第六感も働きゃしねェや。

 でも、だからこそ、股間の一部が元気百倍。

 今度こそ、ああ今度こそ、心置きなく大人の階段を登ってやる! 結女は戸籍上なら十六歳、立派な俺の配偶者! 都の条例なんぞ知ったことか知らないったら知りません!!

「結女ええぇぇぇえぇえぇえぇ!! 今すぐセックスしよう! セックスー!! 朝が来るまで腰が抜けるまで何度も何度もヤってヤってやりまくるぞぉーっ!!」

 ぶふうっ、と、堪えきれずに噴き出したその音が、確かに聞こえた。

「何だ、こんな近くに居たのかよ、返事くらい……」

 根っ子の部分が半ば剥き出しになった大木の陰に、回り込んで。
 俺は、言葉を失った。

「……ぉ、か……ぇ、り……なさい、ませ。旦那様……」

 大木を背にしてへたり込むように座った結女の顔には、血の気が一切、ない。
 そりゃそうだろ、胸元から腹に掛けて血だらけだ。こんなに出血してたら顔まで回ってくる血液なんて一滴もねェよ。

「お、っ、おま……?! 何だよそれ、どうして!!」

 ――あの虫野郎。

 でかい図体を縮めて全力で傷を癒した時、本当は牙ミサイルも復活してやがったのか。何もない口の中に俺が稜威雄走を突っ込めたのは、背後を振り返った時に結女を攻撃した後だったからか。
 もともと結女は満身創痍で疲れ切ってたんだ、避けきれる訳がない。
 あのゴキブリ野郎、どんだけしぶといんだよ! 最悪の土産を置いていきやがって!!

「すみ、ませ……ん、お相手……できそうに、ない……です」
「いやいやもうそんなのどうだっていいよ! とりあえず傷塞げ! 出血止めろ!」

 結女は、力なく首を振る。

「どんなに、若返っても……もう、追いつか……ない、です」
「いやいやいやいや! せっかく勝ったんだぞ! 俺たち夫婦の第二章がこっから始まるんだぞ! 諦めんなよ! とりあえず試すだけでもさ!」

 勢いで、そんなことを口走ってしまったけれど。

 試すまでもない。

 この様子じゃ腹の中もズタズタだろう。一気に幼女くらいまで若返ったとしても、内臓の損傷まで綺麗に治りきる保証はない。臓器欠損や機能不全が起きるのは確実。どのみち長くは保たない。苦しむ時間が延びるだけだ。
 俺たちの治癒能力は、せいぜい、その程度の代物なんだ。

「……後の、ことは」

 結女が、力なく手を持ち上げる。
 俺は、それを両手で握り締めて。

「お願い、します……」
「縁起でもないこと言うなよ! ヤだぞ! 俺は絶対ヤだからな! 十八にして妻に先立たれた男やもめなんてウジが湧くどころの騒ぎじゃねェよ!!」
「……やっぱり」
「?」
「十八歳、って……。昔の、旦那様、では、ないんですね……」

 ――あ。

「何もかも、思い出して……だから、ここに……。でも、そうじゃ……なくて……」
「な、何言ってんだ、俺は俺だよ、今も昔も何も変わってなんか」

 慌てて取り繕おうとした俺に、結女は、優しく微笑みかけて。

「嬉しい、です」

 俺の手を、握り返す。

「昔と、同じで……なくても……。違って、いても……。あな、たは……選んで、くれた、ん、です……よね。……私、を」
「…………」
「私も……きっと……戻って、きます。何度でも……何度、生まれ変わっても、必ず、あなたを、見つけて……好きになって……絶対、絶対に……あ、あれ?」

 目に涙を浮かべて愛を語る妻をほっといて、俺はジャケットの懐を探りスマホを取り出す。一度は水没したはずだし、破損もさっきよりさらに酷くなってるけど、それでもまだ辛うじて動いてくれた。おまけにこの山の中でも辛うじて受信感度を表示するアンテナマークが一本立ってやんの。すげェぜこの過剰品質、さすがメイドインジャパン。

「あの……だん、な、さま……? 何を……」

 構わず、俺は電話をかける。
 呼び出した相手は。

『……沖継くん?! 無事なの?! ねえちょっ、聞こえてる?! 今どこ?!』
「あー、黙れコノ。ギャンギャンうるさい。急いでるから手短に言うぞ」
『え? な、何?』
「お前に頼みがある。お前にしかできない、お前じゃないと頼めないことだ。万難排して引き受けてくれ。この通りだ。そうしたら俺は一つだけ、お前の言うことを何でも聞いてやる。何でもだ。約束する」
『はえ? あの……あ、うん。何?』
「俺のカミさんを産んでくれ」

 返答まで、結構な時間があった。
 電話先でコノがどんな顔をしていて、何を考えているのか、俺には想像もつかない。ひょっとしたら何を言われたのか全く理解できなかったのかも。
 でも、理解できないなりに、俺の必死さは伝わったのか。

『……うん』

 気の抜けた返事だった。ああやっぱコイツわかってなさそう。こんな時にまで残念スキルを発揮しますか。でもまあいいや。

「よし、約束したぞ、約束したからな、絶対だぞ、頼むぞ、有り難うコノ、ほんとに有り難う! 後で迎えに行くから待ってろよ!」

 一方的に電話を切る。
 何せ静かな山の中、スマホの音声は周囲にもダダ漏れだったんだろう。結女がさも可笑しそうに、けらけらと笑っていた。

「ほんと……う、に……だんな、さま……は、無茶苦茶、なん、ですから……」
「うっさいなもう、そんな俺を亭主に選んだのはどこの誰だよ」
「……ここの、私、です」
「それとも、ここらであの世に旅立って、楽になりたかったか?」

 結女は、はっきりと首を振って。

「旦那……さま、が、いっ……しょ、なら……悪く、ない、ですけど」

 とびっきりの、笑顔で。

「あなたの、側が……わたし、の、帰る、場所、ですから」

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