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愛犬から母に贈るミモザの花束

弟が死んだ。正確には、弟のように一緒に過ごしてきた愛犬が死んだ。13歳だった。愛犬のそらは心臓に病気があってここ1年ほど薬を飲んでいた。そんなに熱心にお世話をしていなかった私ですら、もう長くはないとなんとなくわかっていた。最近は苦しそうに咳をしては、それでもゲージから出せと言わんばかりに飛び跳ねるような小さな命だった。

3月2日深夜3時。めったに夜中に目を覚さない私が、母からの電話で生まれて初めて目を覚まし、いつもなら出ないだろうになぜか何かを察して電話にでた。

そらが死んだらしい。

実感がなくて、頭は真っ白になるどころか全く関係ないことまでもいろんなことが頭の中を巡った。冷静でいようとする脳みそと本当は冷静じゃない感情にのまれながら電話越しに母と一緒に泣いて、そのあとは全く寝られなかった。何をしていても何もしてなくても涙が止まらなかった。驚くほどに何度も涙が頬を伝っては落ちて、それを感じてはまた頬を涙が伝った。
五島列島に引っ越したばかりの私。効率の良い帰り方もわからぬまま、ありったけのお金を握り締め、フェリーとバスと飛行機と電車とタクシーを乗り継いで1日かけて埼玉に帰ってきた。

そらは可愛かった。とても安らかに横になっていて、初めて会って一目惚れした時から変わらずずっと可愛いままだった。苦しかっただろうに可愛い顔をしていて、冷たかった。

次の日がお葬式だった。姿を見てからはあまりにも早いお別れだった。お焼き場で焼かれて骨だけになった。骨があまりにもきれいに残っていたようで「大切に育てられてきたんですね」と褒めてもらった。確かに、頭も歯も爪も尻尾の骨もすごくきれいにそのまんま残ってた。そこにいるみたいに思った。

昨日までそこにあったそらの体がなくなって、小さい骨壺になって部屋に帰ってきた。いつもの癖で、朝起きて「おはよう」とゲージがあったリビングまで行っては、空虚なそこに挨拶をする。帰ってきて玄関のドアを開けると歓迎するように吠えていたそらの鳴き声が聞こえない。ふとリビングで仕事中に後ろを振り返ってそらを見る癖を、自覚しては余計に寂しくなる。自分の部屋にいても聞こえてくる母と祖母の涙声に私もグッと涙を抑える。みんな同じように、そらがいた場所に行っては涙声で「そら」と呼んだ。

悲しみに暮れる。そんな初めての帰省だった。

私は、母や祖母に比べたら、そらと一緒に過ごす時間はとても少なくて、お世話なんてほとんどしてなかった。私自身が家にいる時間もあんまりなかったのもあるが、当たり前にいるものだと思ってて亡くなることを想像したこともなかった。ただ、家族だった。朝、「おはよう」と抱っこしたり、家について、「ただいま」と抱っこして、少しだけ遊んで水をあげたりするのがなんとなく日課だったと今更になって気づいたりもした。

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そんな大きな悲しみも、母の前では見せることはできなかった。一番長い時間を過ごしていた母の悲しみはわたしなんかには到底計り知れなかった。お世話はほとんど母がしていたし、母がしんどいと思う時、そばにいてくれていたのは、祖母でも姉でも私でもなく、そらだった。悲しむ母の姿は娘の私ですら見てられないようなどん底だった。悲しいことがあるたびに母の自信のなさを感じるのだが、今回もそれを強く感じた。自分には何もないと思ってるから自信や自分に対する尊厳が異様に低い。
そんな母にミモザの花を贈りたいとこの記事を書き始めた。まさか愛犬の死が重なるとは思っていなかったけれど。

母はとても変わってて、私の友達や彼とLINEを交換したり写真を撮ったり、彼と3人で水族館に行ったこともあったっけ。どこかに行っては嬉しそうに話をしてくれたり、LINEのタイムラインにブログのような長文を更新しては、スタンプを押してくれと頼んでくる友達みたいなお母さん。姉が母のことを「変わってる」と言ったら、「変わってるのか、嫌だな。普通がいい。」と悩み始めるような母です。世話焼きで、寂しがり屋で、愛情深く、責任感が強くてフレンドリー。私の根っこの部分は母譲りだと思う。母は自分では気づいてないかもしれないけれど、知識が豊富でアンテナがJKのよう。お母さんの話になる時は「JKのような母」といつも紹介してることは母には黙っておこうと思うが、そんな母なのです。大好きなのです。

ミモザの花は、厳しい寒さの終わりを告げ、感謝と思いやりを運ぶ花らしい。誰のことを書こうか考えたときに真っ先に思い浮かんだ母は、今まさに厳しすぎる寒さの中にいる。そして、これからもきっと「自分には何もない」と自信なく生きていくと思う。だけど、あなたは、あなたのままで素晴らしく、愛贈りが不器用で気配り上手な最高の女性です。仕事の姿勢や家事のスキルだけじゃなくてそこにある人間そのものが人に愛されていると思うし、周りの素敵な人に囲まれてる姿とその素敵さを嬉しそうに話す母をいつもうらやましく見ていたりもするのです。

国際女性デー。母は、デモを起こすような強さや、社会参加をしたい意欲もないと思うけど、女性の権利や平等をもっと自覚して、一人でも立って人生を思いっきり楽しんでいられる強さを手にできますように。

私から直接素直には伝えられなかったけれど、きっとこれからも伝えられないのだろうけど、
大好きな愛犬のそらが、小さい体に似合う分、ほんの少しだけでいいから、大好きな母に「感謝」と「思いやり」のミモザを運んでくれると信じて。

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