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【※あくまで個人夫婦の感覚です】子どもについて

 労働から解放された週末、近所の定食屋で夫とぐだぐだ話してたのが楽しくてやっぱりこの人好きだなあってなったので、とりとめもなく書き留めておきます(ほろ酔いです)

 定食屋で何をぐだぐだ話してたかというと子どもについてなんだけど、うちはまだ子どもがいなくて、共働きでそれぞれ好き好きに暮らしている。
 鶏の南蛮煮をつまみながら、夫が「いやでも二人で暮らすのが正直超楽しくて、生涯ずっとふたりきりでもいいかなって思うときもある」と宣うから「分かりみ深い~」「分かってくれるの最高~」って緩い会話をしていた。
 一緒に暮らし始めてから生活が本当楽しくって、個人を個人として尊重してくれる人と暮らすのってめちゃくちゃ楽なんだなと実家が典型的な毒親だった私はしみじみ実感している。

 ふたりとも読書が好きで、この世界には「名作」と呼ばれるものに絞ってさえもひとりが生涯で読みきれないほどの本があるし、加えて私は文章を書くのがめちゃくちゃに好きなので、生活におけるそれにかけるコストが半端ない。
 最近アート系の部署に移った夫は芸術に興味を持ち始めていて、今は油絵の勉強をしている。それぞれの創作系の趣味に加えて、私は宝塚をはじめとするミュージカルも好きなので、その追っかけ活動も加えると休日は結構忙しい。
 しかも加えて一日最低でも勤労8時間??残業加えると拘束時間はそれ以上だ。もうはちゃめちゃに時間が足りない。無理だろ。世界は見たいもの知りたいもの聴きたいもの表現したいものに溢れていて、それらを消化する時間が圧倒的に足りない。

 ただ私も夫も子どもは大好きだ。難しいこと抜きでどの子も本当にひたすら可愛い。めちゃくちゃ可愛い。
 街ゆく子どもたちは天使にしか見えないし、この子育てしづらい時代に彼ら彼女らを生み育ててくれてる方々は天使を加護する神さまにしか見えない。
 それから子どもを育てるという経験により広がる世界にはすごく興味がある。単純にひと一人の成長過程を間近で見るって、成人ふたりだけの世界の視野にはないものをぶっこんでくるだろうし、面倒をみないといけない存在が増えるってことは自分が拘束されるということだ。
 その拘束はきっととても大変だろうけど、まるきり自由の今の身では視界に入ってこない社会の構造が見えてくるだろう。ぶつけられる、かけられる言葉も今とは違うものになるだろう。それはそれで、世界のそういう一端を観測する貴重な得がたい経験だ。

 ただ夫と話していて「本当にそうだね」と合意したのは、私たちは別に実子が欲しいというわけではないね、ということだった。
 子どもがいなくても世界は広い。子どもがいたら見えなかった世界が見えてくる。それで惑ってしまうのだけど(惑えること自体が幸運なことなのだけど)、別に実子じゃなくてもいいねえ、というのは今日新しく発見した合意点のひとつだった。
 私は子どもを育てる経験はしてみたいのだけど、別に痛い思いはしなくていいならしたくない(「妊婦」という存在に自分がなったときに社会からどういう扱いを受けるのかには興味があるけど、それはまたちょっと別の話だ)。だから出産という経験を積極的にしたいという思いはない。身体的性別が女に生まれてしまったからしょうがないなああああああもう、ぐらいのテンションだ。
 夫も夫で、私に痛い思いや苦しい思いをしてほしくないので、あまり積極的に出産してほしいという思いは無い。分かる。私ももし男女逆だったら、夫という好きなひとに、妊娠出産というリスクの高い身体的負荷をお願いするのはたぶんすごく躊躇する。ていうか自分以外の他人に対してお願いするのは躊躇する。自分に決定権のある自分の身体だから「まあ妊娠出産してもいいかなあ~」ぐらいのテンションでいられるのだ。他人様にそんな負担強いるなんて神様でも許されないんじゃないの。よく人類こんな構造的な問題抱えたままでここまで続いてきたよねそれ自体が奇跡だよね。

 閑話休題。
 日本酒飲みながら「養子って手段もありでは?」という話になった。
 もちろん里親になるためには色々と厳しい審査があるのだろうけど(人間の生活を委ねられるのだから当たり前だ)、とりあえずそれは置いておいて、選択肢のひとつとして「ありだね~」という結論になった。
 私も夫も、それが多数派なのか少数派なのかは知らないけど、血の繋がりの有無に関わらず全ての子どもは等しく可愛いし愛しい。実子かどうかはその子に注ぐ愛情の量に全く関わらないって断言できる(※)
 (※)別にそれが「善」と言っているわけじゃなくて、たまたまふたりがそういう性質の人間っていうだけだ。実子じゃないと嫌、ってひとももちろんいるだろう。子ども自体がそもそも苦手っていうひとも。そりゃそうだ人間はロボットじゃないんだから感情は多種多様だ。たまたまうちの夫婦の場合は、という話です。
 養子なら妊娠出産という行為で私の身体がダメージを受けることもないから、最初から体調が万全な状態で子育てに挑めるねって話をした。
 今は私が1馬力夫が1馬力、出産したらきっと身体ダメージを受けた私はしばらく0.5馬力くらいになるから、我が家は「子ども」という未知の生き物を1.5馬力で見守り育てなければいけない。それが養子なら、私も1馬力夫も1馬力のまま、2馬力という万全な状態で「子ども」に全力を注げる。それはそれで結構大きなメリットだと思う。
 ていうか改めて考えると産後のお母さんの0.5馬力の状態で子どもの世話まるなげするワンオペ育児って本当人の所業じゃねーなって思った。これでパートナーが生活力のないひとだと、0.5馬力状態のお母さんに、新生児ひとり+成人ひとりの世話がかかってくるんでしょ。鬼の所業だろう。
 それに「一緒に暮らす大人」を求めている子どもがいて、「(実子じゃなくてもいいから)一緒に暮らす子ども」を求めている大人がいるなら、その需要と供給の一部を担えるのは素敵なことだねという話もした。

 ごめんね別にこの話結論は特になくて、本当にただの覚書なんだ。
 一年後には私は妊娠して育休産休の準備に追われてるかもしれないし、やっぱり今のまま人生謳歌してるかもしれない。少なくとも夫とはずっと一緒にいられたらって思うけど、生きている限り一緒にいると思うけど、一年後100%ふたりとも生きてる保証もないからそれだって分からない。
 ただ平成最後の夏の終わりに私たちがこういう会話をしたことを、どんな状況にいようと未来の私は覚えていてくれよ、って思った。文字は記録できるから最高だね。

 

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