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雲の流れは速度を増して

こうやってすべての圧力に鈍感になって

窓の向こうに見える、似非ではあるがそれでも”自然”と呼べる風景に目をやると、

とたんに目も回りそうな速さで進む社会というものから自由になれたような気になれる。


あまりに速度が大きすぎる『社会』という集合体。

私はその速さに付いていけなくなってしまった。

すっかり落伍者だ。


今の社会の何が自分に合わなかったのだろうかと考えるが、

どうにも息が詰まりそうなのだ。

例えるなら、社会を部屋としたとき、どんどんとその幅は狭くなっていっているようのに、中に入っている人間の数は変わらない状態だ。そしてそこではきっと、空気が薄く、そして新鮮さを失っていってるものだから、息詰まりを起こす人、呼吸をするだけで精一杯の人が多く見られそう。

とてもそこで私は、まともに息も吸えそうにない。


それでも、妊娠から出産までの時間は(恐らく)人類が誕生してから変わっていないように、変化に必要な”過程”というものの速度は変わっていないのだろうと思う。

それなのに、一見変化の速い時代を生きているような気がしてしまうのはなぜだろうか。よく聞く話だけれど、変化のうちのどこかの過程で無理をしているような気がして仕方がない。

人にはわからないほどの微細な加速かもしれないが、花が芽をだし、花を咲かせ、枯れていく、その過程も(自然では)この数千年でたいした違いはないだろう。


ふとまた圧力に敏感になると、途端に意識が高速な流れに引っ張られ、どこかに持っていかれるような気になる。



それとも十数年前の、あののんびりとした時の流れが懐かしいのだろうか。

時折、雲が速い流れで移ろっていると、それを目で追っているだけで、気も急いてくるが、それもきっと、ゆったりとした流れが”ふつう”だと思っているだけで、もともとが速い流れしかなければ、そうは思わないだろう。

それでも一体どこまで、この社会という部屋の幅は狭くなるのだろうか。

この雲の流れは速くなるのだろうか。


そして一体なぜ、この息苦しいのが当たり前な社会でも、息が吸えているように見える人を眩しく感じるのだろうか。

そしてなぜ、ゆったりとした流れよりも、激流のような激しさに、心を引っ張られていくのだろうか。