社会化という名のブレインコントロール ~人間は生まれた瞬間から少しずつ洗脳を受けている~

 『時計仕掛けのオレンジ』という映画があります。アンソニー・バージェスのディストピア小説を元に、私が敬愛する監督スタンリー・キューブリックが映画化した作品です。ネタバレなしで簡単に内容を説明します。
 舞台は近未来のロンドン。暴力とセックスに明け暮れる日々を送る少年グループのリーダーで本作主人公のアレックスは、ある殺人事件をきっかけに逮捕され実刑判決を受ける。しかし、二度と犯罪を犯さないよう人格を矯正する「ルドヴィコ療法」という想像を絶する過酷な治療の被験者となることで刑期が短縮されることに。治療にて人格が矯正されたことで無事出所したアレックスであったが、そこに待ち受けていたものは残酷な現実であった、、、。
 この映画を受け今回考えたいテーマは、「洗脳について」です。アレックスは洗脳にて犯罪を犯すことに嫌悪感を抱くようになりました。つまり善となったわけです。ただし注意すべきは、それは洗脳であるがゆえに表面上の善であるということ。アレックスは決して暴力を振るいたい、強姦したいと思わなくなったわけではありません。そう思った瞬間、勝手に激しい不快感を抱く体になってしまったわけです。そこに自由意志はありません。したがって道徳的な振る舞いはするが、それは自身が善いと思って行っているわけではなく、自動的に行っているに過ぎません。つまり自由が奪われているのです。このように聞くと善となったことも手ばなしに善いとは言えないでしょう。しかし、見方を変えると少し異なった印象を受けることとなるのです。
 功利主義的な考え方をすると、この洗脳は善であると言えるでしょう。ここでの功利主義とは、「最大多数の最大幸福」を原理とし個人よりも世間一般の全ての人々の幸福を優先する立場とします。すると、アレックスが暴力や強姦、殺人を行うことよりも、アレックスが洗脳であろうと道徳的な振る舞いをするようになることの方が全体としての幸福度は高いと考えられます。また、個人の自由を認めず、社会や国家全体の利害となるよう個人を統制する立場をとる全体主義の視点からも同様の帰結となるでしょう。(全体主義が善であるか否かはまた別の議論が必要となりますが。)
 根本を問いましょう。そもそも生まれてこの方、洗脳を受けたことがないという人間は存在するのでしょうか。例えば教育。教育は洗脳と何が違うのか。親から食べものを残してはいけないと叱られることは洗脳ではないのか。学校にて先生から他人に迷惑をかけてはいけないと注意されることはどうか。このように全ての人間は生まれた瞬間から少しずつ社会化という名のブレインコントロールを受けていると言えるのではないでしょうか。それを急速に行うときにだけ倫理的によくないと言われてしまってはいませんか。
 そうすると果たしてアレックスは自由を失ったと言えるのでしょうか。私は意外とそうではないと思います。というのは、一般人が他人に暴力を振るわないのは、振おう振るわないでおこうと二元論的に選択しているわけではなく、人を傷つけることに不快感を抱くからではないでしょうか。そう考えると一般人の思考プロセスは、アレックスの矯正後の思考プロセスと何ら変わりないと言えるでしょう。
 昨今、倫理の分野では「道徳ピル」の服用の是非が議論されています。飲めば共感能力や認知能力が向上するというもののようです。このピルを義務化すれば今よりも確実にモラルの高い社会となる。しかしそれは正しい行いか。今回の『時計仕掛けのオレンジ』の延長線上にある議論と言えるでしょう。
 皆さんはどう思われますか?

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