埋葬について

先日、母の姉が亡くなった。遺骨は、私の両親、死産だった私の兄、父方と母方双方の祖母(分骨なので半分だけだが)が入っている教会の共同墓地に納骨される予定だという。それで思い出して、ずっと以前Facebookのノートに書いたテキストをサルベージしてきた。Facebookのノート機能はなくなっており、自分の記録をダウンロードしないと読めないことになっていた。以下は、2014年4月に書いたテキストである。

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両親が亡くなるまで 私は一人っ子なので、結婚してイスラエルに長く住むことを決めた時点で、いずれ両親の介護問題を何とかしなければならないことはわかっていた。しかし何をどうすべきかは、問題が具体的になるまでは考えられない。どちらかといえば父より母のほうがイスラエルの食事に馴染み、また英語も少しは話そうという気持があったので、父が先に逝って母がイスラエルに来て一緒に住むのも悪くないかな、程度の認識が家族の間に共有されていただけであった。ただ両親とも、大阪府泉州地域で長く公立学校の教員だったし、所属するキリスト教会で活動を続けてきたので、地元に住む多くの卒業生や教会関係の友人知人たちが、いろいろと気にかけて便宜をはかってくれるのが心強かった。それに現実的な問題として、両親がそれぞれ暮らしに不自由のない年金をもらっている、という点も大きかった。思えば彼らは古きよき時代の学校教員だったのだと思う。 先に肝臓がんが発見されて闘病生活に入ったのは、母であった。何度か入院を繰り返す母を、父は一人で支えた。ときには排他的とすら見えるぐらいだったが、私は遠い地で大学の教員をしており、具体的には何もできなかった。学期中は身動きが取れないので、休暇中に子どもたちを連れ、あるいは単身で両親の家を訪れるのがせいいっぱい。幸い介護保険制度がスタートして軌道に乗り始めた頃で、ヘルパーさん、訪問看護士、地域の医師の往診システムの助けを得て、父は一人で母を自宅で見送ることができた。2003年12月19日、母は72歳、父は75歳であった。葬儀は特に行わず、臨終には間に合わなかったが1日遅れで着いた私と、父のかつての教え子夫妻一組で火葬を済ませた。親戚知人への通知はその後だったので、かなりの批判があったと思うが、父は昔から「あらゆる世間を敵にしてもわが道を行く」人だったし、母ともそう申し合わせてあったようなので、私としてはそれでよかった。 その後、一人暮らしとなった父は、母の死の喪失感から立ち直ることができず、無気力で、時にはお酒に溺れる生活となり、周囲を心配させた。母がお世話になった馴染みのヘルパーさんが引き続き来てくれて助かったが、お酒を飲んで居眠りしているうちに電気ヒーターで低温火傷を負い(それを発見してくれたのもヘルパーさん)、皮膚移植とその後のリハビリのため長期入院となった。その知らせが来て私も一時帰国したのだが急に長期休暇を取るわけにいかず、結局数ヶ月にわたる入院中は、従姉二人と、今は立派な社会人となっているかつての教え子グループが交代で洗濯や買い物、諸手続きなど父の面倒を見てくれた。退院しても、もう一人暮らしは無理だろうということで、市役所の介護保険課の担当者や従姉たちが奔走してくれたおかげで、家からさほど遠くないケアハウスに入所することができた。ここは食事付きの賃貸マンションのようなところで個室だった。最初は「ケアハウスなど行きたくない、一人がいい」と言っていたのだが、いざ入ってみると案外楽しかったようで、確かに一人で引きこもって母の不在を嘆くよりも、毎日何気ない会話を交わす人たちが身近にいるほうが気がまぎれただろう。それにしても私は大学から東京に行ってしまったので地域社会とのつながりが殆ど無いのだが、両親は地域に密着して生きてきたおかげで地縁血縁ネットワークが強固だったのだとつくづく思う。 父はその後ケアハウスで満足して暮らしていたのだが、2010年の初夏、熱を出して緊急入院したという連絡が従姉から来た。幸い私は夏休み直前だったので帰国。専門の病院の医師の診断結果では、肺がんのかなり進んだ段階で、外科的治療は無理だという。何もしなければ余命は4ヶ月と告げられた。放射線や化学療法で延命する可能性もあったのだが、父は積極的な治療は望まず、いずれにしても方針は私に任せる、と言う。結局私は何もしないことに決めた。専門病院は治療をしないのなら退院しなければならない。ホスピスは4ヶ月待ちだという。とりあえずホスピスを予約し、近所の長期療養可能な病院への転院を決めた。しかし夏休みの間なら私はいられるが、新学年は10月から始まる。直前に長期休暇の申請はできない。幸いなことに、当時22歳の息子が兵役を終えて大学に入る前の空白期間だったので、私がイスラエルに戻った後日本に長期滞在してほしいと頼んだ。8月に息子が来て私とバトンタッチ。父の教え子が息子のバイト先まで紹介してくれた。それで息子は近所のカフェでバイトしながら父の入院先に通ってくれたのだが、11月半ばに大学入学に関わる試験のためにイスラエルに帰国。その前日に父がホスピスに転院した。またその日は、私の夫も仕事で訪日中で、最後に父を見舞うことができた。夫は父に「私にすばらしい家族をプレゼントしてくれてありがとう」と言い、父は「こちらこそ」とかすかに答えたという。その後は、教え子、従姉、教会関係者のだれかが毎日ホスピスを見舞ってくれた。その様子は、病室に置かれたノートに記録されている。父とは面識のない若い牧師も来て、父の「先生、早く祈ってください、早く」という希望で一緒に祈ってくれたそうだ。教会員の方々は、父が好きな讃美歌を枕頭で歌ってくれた。結局父はホスピスに1週間いて亡くなった。2010年11月23日、82歳だった。私は臨終に間に合わなかったが、従姉たちと教え子夫妻が火葬してくれていた。結局私はただ方針を決めるだけの、戦力外メンバーであった。 両親の遺骨は、彼らが若いときにリヤカーで土を運んで整備したという教会の共同墓地に納骨した。そこには父の母、母の母、そして私の前に死産したというベビーの遺骨も納められている。ようやく長期休暇が取れた私は、昨年秋まで一年間大阪の家に滞在し、熟考の末、処分することにした。無人の家を置いておくのはセキュリティ上問題がある。貸すことも可能だろうが、遠くから管理するのは難しいし、私に何かあった場合、子どもたちに日本語での煩雑な手続き一切を委ねることになってしまう。処分するなら住民票があって印鑑証明が取れる今しかない、と思ったのである。地元の不動産業者に仲介を頼んだのだが、幸い中古の家と家庭菜園をそのまま使ってくれるという買い手がすぐに現れ、契約成立した。私は最小限の形見の家具だけをイスラエルまで船便で送った。大阪の家がなくなって3ヶ月。もっと寂しかったり後悔したりするかと思ったが、今はただ、これで終わったのだとほっとしている。今後私の子どもたちもどこに住むようになるのかわからないし、なるべく彼らに面倒をかけることにならないよう、老後の計画を立てようと夫と話し合う日々である。

父よ、我が霊を御手に委ぬ

2024年6月付記
その後、私たちはイスラエルで火葬を行っている団体に前金を払って登録した。イスラエルでは宗教的に火葬はNGで、この団体も以前住所を明らかにしていた時は焼き討ちがあったらしく、今は住所は非公表で電話番号のみが公表されている。

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