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ハッピーエンドの多様性

今日色々なことに終止符を打った10代最後の日に、明日からの紆余曲折あるであろう私に宛てる。

近年、多様性という言葉をよく耳にするようになった。そして、それは物語や生き方にも影響を及ぼしているのではないかと考える。

ハッピーエンドは本人がこの終わり方で幸せだ、と思って描いたのであればどんな終わり方でもハッピーエンドであると私は思う。

おとぎ話にある「紆余曲折ありましたが王子様と結婚しました」や「紆余曲折ありましたが平和な日々が戻りました」は分かりやすいハッピーエンドの例だ。

「大切な人を守り抜いて人生を終えました」「短い時間でしたがやりたいことをやり尽くして人生を駆け抜けました」なんてのも、主人公の意思を尊重した上でのハッピーエンドだと感じるし、私は自分の意志で導き出せたものはハッピーエンドだと解釈する。(時と場合によりそう解釈できないこともある)

さて、これが人生だとどうなのだろう。
本人が幸せだと思う終わり方があるはずだが、それが第三者から是とされない場合は少なくない。

17までには死ぬ、18までには死ぬ、20までには死ぬ。これは今まで私が言い続けてきたことだ。
若いうちに死にたかった、これ以上自分に降りかかる災難に苦しみたくなかったし、もう大好きな誰かが自分より先にいなくなるのは耐えられなかった。
そんな思いは伝わらず周りからは、はぁ?というリアクションが返ってきた。

でも今は少し変わって、やりたいことやり尽くして望みを叶え尽くしてとっとと死にたいと言う。
もう誰も見送る事も無く死にたいのだ、これ以上の悲しみは背負いきれない。
でもやりたいことは自分と向き合えば向き合うほど溢れてきて、ならば人より何倍も努力して全部叶えて人よりも早く人生を駆け抜けてやろうという魂胆がある。

やっぱり友人にはなんでそんなこと言うの?と言われた。友人と言えど本質的な部分は他人なのでなんで?と言われても仕方がない、私の解釈ではそれがハッピーエンドなのだ。

人生の主人公は自分自身だと言うし、人生のストーリーライターもまた自分自身
そして死は絶対であることを念頭に置いて、それじゃあどうやって生きようかなと死を意識して初めて私は生きることに意欲的になれたような気がする。これだけはブレずに生きていたい。

どうせ年を重ねたところで、明日が今日になったところで劇的に何かが変わるはずはないけれど続いていく日々を少しずつ良く生きていけますように。