穏やかな無関心/ドトール神南一丁目店

2012年くらいにブログに書いたものです。少し加筆しました。

僕はいつもここでカウンセリングをしている。ナンパ講習の実際の声かけの前後の話し合いや、催眠術を教えているときもある。奥には大きな噴水が中央に据えられたテーブルがあり、その周りを椅子が囲っている。ここに座る人たちは常連が多い。僕もそう思われているかもしれないが、大体同じ人が座っている。皆、それぞれに顔を覚えているはずだ。だけど、言葉を交わすことはない。

勉強をしている大学生、ブツブツ何かを言いながらスポーツ新聞を読んでいる男性、いつも本を読んでいる真面目そうな女性、近所のアパレルで働いている休憩中の女の子、アイスコーヒーに十個くらいのコーヒーフレッシュを入れソファ席に体育座りをしている女性。夜に現れる怪しい中年のカップルは、男性が女性の服の下にカメラを入れて撮影をしては不吉な笑みを浮かべている。

彼らは互いに干渉し合わない。互いの日常の中に互いが存在していることは知っている。だけど、重なり合うことはないだろう。不躾に話しかけるなんてことはしない。穏やかな無関心。それがこのドトールの良いところだ。

店員もまた客に関心を示さない。関心を示さないというと否定的に聞こえるかもしれない。それを穏やかな無関心と名付けたい。他のドトールではその無関心が刺々しさになることもある。マニュアルに沿って接客をする。それが開き直りになり、労働環境、そして自身の人生への不満によって、マニュアルに沿ってさえいれば客に何をしてもいいというようなことになることもある。

僕の家の近所の店舗では、店員たちがほぼ奇声に近いような「いらっしゃいませ!」「ミラノサンドをお待ちのお客様!」などと言った文句が飛び交っている。
一度、足どりが不自由なおばあさんがミラノサンドを頼み、席で待っているところに、いつもの「ミラノサンドをお待ちのお客様!」が始まった。おばあさんは足が悪いためになかなか立ち上がることが出来ない。そして、彼女がカウンターにミラノサンドをとりにいくまでに、何度この「ミラノサンドをお待ちのお客様!」が叫ばれたことか。ここはドストエフスキーの世界かと思った。

神南一丁目店ではそういうことはあり得ない。店員たちは無関心を保ちながらも、優しさを示している。少しでもサービスに気を張ったりされてしまうと、客である僕も気を遣ってしまい、200円のホットティーで三時間も居座るということが出来なくなってしまう。決して「今日は寒いですね。」などと話しかけられたくはない。そんなちょっとした一言だけで壊れてしまう繊細な関係がこのドトールでは築かれている。

スカウトマンの時からこのドトールによく来ていた。初めて来た時からもう三年ほど経つかもしれない。
渋谷では、このドトールか名曲喫茶ライオンに行く。ライオンは一人の世界に没入できる一方、このドトールは、色々な人が生活をしていて、自分はその中の一人なのだということを知ることができる。

女の子に声をかけ続けて成果が出なかったとき、自己嫌悪に陥ることがあった。そういうときにこの場所に来ると、噴水の周りにはいつもと同じ人たちがいて、なんだかほっとする。反対に、成果を出したときは喜びで傲慢になってしまうこともある。そういうときに来ると、自分はただの一人の人間でしかなかったのだということを自覚させられる。いつも来ている人が少し落ち込んでいる様子だったりするのを見ると、落ち込みながらもこの人は今日もここに足を運んだのだなと思う。

噴水の水は中心の空洞から水がのぼっていき、上から溢れて、螺旋状になった切り込みに沿って下へと流れていく。切り込みに沿えなかった水が不規則に落下していく。耳を澄ませば、周囲の話し声や流れている音楽の奥の方にこの水の音がある。
ふと、中心の空洞をのぼっていく水泡を見つめながら、その水の音を聞いていることがある。そのとき、この噴水になにか霊性のようなものを感じてしまう。
外に出れば、様々な人たちが渋谷の街を、欲望を垂れ流しながら歩いている。その欲望の流れが僕の身体全体にも行き渡ってしまったら、自分がダメになってしまう気がする。身体がそうした欲望に巻き込まれて、疲れてしまったら、この噴水が浄化してくれる。

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