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夫のなかの式子内親王

 昨年11月10日に夫の気管切開の部分は完全に塞がった。自発呼吸のみで血中酸素値も安定してしている。しかしここまでくる、その道のりは長かった。まだICUにいるとき、医師から唐突に気管切開を申し出られ、そうした処置が今後どのような展開をするのか、私には持ち合わせる知識が皆無だったのに加え、あとでそれは塞ぐことができます、という医師の説明で、夫が少しでも楽になればと躊躇なく同意書に記名した。しかし短期に簡単に塞ぐことなど出来ないことを、以後目の当たりにすることになった。

 気管に差し込まれたカニューレという器具の口径を徐々に細くし、切開した喉穴を塞ぐ。夏が過ぎたあたりから、その試みは開始されたものの、10月の半ばに、あらたな口径の入荷が遅れているといわれ、そのまま停滞し一向に再開されない。始めはウィルス禍の状況で多々医療器具の納入にも遅れが生じているから、と伝えられ、それを鵜呑みにして再開を待つあいだに2021年を向かえ、夫の入院生活も1年近くになった。しかし新しい器具が入ったという話は、一向に聞かされない。

 担当医に訊いても「さぁ」というばかりで、まったく埓があかない。もう3ヶ月も計画は頓挫している。年明けて最初の入室の日、病棟を訪れた私を目にした看護師長が、背を追うように部屋に入ってきた。

 月並みな挨拶の後、夫の耳には入れたくない内容があったらと、私たちは廊下に出た。師長は、一時帰宅含め予測される様々な展開のために夫の個人情報を、しかるべき部門に伝えてもよいか、と訊く。であれば、と私はすでに3ヶ月も進展していない気管部分を塞ぐ計画はどうなっているのか、と返した。

 2021年1月19日、この日に師長と交わした激しいやりとりは、刺青のように身体に刻まれいまもある。結局体調が安定し、ほどほどにリハビリも進んでいるこの状況で、夫の転院を病院組織が画策していることが、師長の薄く笑う口端からうかがえた。私は強くそれに反発し、本来通りの計画が再開されるよう要請した。であれば2週間後の私の入室予定に合わせ、あらたな器具に交換するという。なぜに次の私の入室日に交換を設定するのかと問えば、起こりうるトラブルを念頭に、そうした事態を目の当たりにしなければ納得しないだろう私の質を突く。結局組織の窓口たる師長が、あらたなカニューレの取り寄せを停めていたのだ。

 医療知識のない私への見せしめのように、カニューレはより口径の細いものに交換されたが、病院の思惑とは真逆に、切開された部分は順調に小さくなっていった。しかし最期わずか5mmの部分がなかなか塞がらない。数回縫合を試みたが、わずかに呼気が洩れる。11月10日、極細の針で10針も細かに縫合し、とうとう夫は首回りのうっとうしさから完全に解放された。ほぼ1年がかりの事態で、夫も計り知れなく疲れたはずだ。よく耐えた。週末をのぞく毎朝に、それをオンラインの画面越しに見守った私も、強ばる心身が解けぬ1年だった。

 ウィルス蔓延にも改善の兆しがみられ、いくぶん陽気もよくなれば、夫の一時帰宅は叶うだろうと、家族の誰もが思い始めていたが、1月末あたりから長期の入院生活とリハビリに拠るのだろうか、ただならぬ疲労の気配を夫から感じた私は、もしかしたらという覚悟をひとり心の隅に置いた。

 それはちょうど亡くなる1週間前、まもなく1歳になる名古屋の孫が、親に促されるままオンラインの画面に向かって、「ジィ」と大声で叫ぶと、夫はゆっくりと優しく笑んだ。入院後に生まれたこの子に夫は直接会ったことがない。いまとなれば4人いる孫たちの中で、一度も我が手で触れたことのないこの幼子の呼びかけが、夫の脳裏にこだましたことが、いいようものない私の嬉しさになっている。

 その1週間後の、ぼんやりと秦琴の音に耳傾けていた夜に、病院から夫の容態急変を告げる医師の慌てた報があり、それからまもなく彼は呼吸するのをやめたようだ。喉が塞がったら家に帰れるから、頑張ろうね、と話しかけるたびにうなずいていた夫も、闘病の長さに疲れ切ったのか、頑張ることが嫌になったのか。思わず「ごめんね」が私の喉奥から突いて出た瞬間、2年前の医療過誤の当夜、心配げに顔をのぞく私に、まるで幼子のように、小さく「ごめんね」といった夫の声が蘇った。



 家族のみで、あたかも一時帰宅したようなゆったりした見送りは、子どもや孫たちに言い得ぬ感慨を残してくれた。教員であったこと、加え闘病の経緯の長さから多方面の方々に訃報を伝えざるをえなかったものだから、この1週間はその知らせが届いた方々からの電話を受けたり、手紙をいただいたりの毎日だ。今にして初めて知る研究者としての夫の様子も多く、「そうですか、そうですか」と私は耳傾けるばかりだ。教え子のひとりが寄せてくれた手紙に、こんな件があった。


今年の大河ドラマに関連してある博物館の展覧会に関与する事になりました。そのため平治の乱やその首謀者藤原信頼の理解を更新する必要が生じ、その方面では最先端として認知されている元木泰雄・野口実・古澤直人等諸氏の論文を昨年から精力的に読み漁っています。驚く勿れ、例外なく全てが・・・


 いま活躍されている方たちが、そろって夫の平治物語研究本を参考文献として示されていたそうで、あらためて研究者としての夫の仕事ぶりを再確認した、と教え子は伝えてくれた。

 研究ということに関わったことのない私は、50年に及ぶ間に夫が書いたものをほとんど読んでこなかったが、おそらくいまでは死語であろう「女流文学」という世界、源氏の宇治十帖から始まり円地文子や岡部伊都子、女業をめぐるあれこれを耽読していた時期の私を、夫はいつも揶揄していたが、『とはずがたり』の二条や式子内親王について稿を起こす段になると、想念にある彼女たちの輪郭を追うように、夕餉時にそれを語り始めるのだ。

 ある日、夫が「これはどんなだろうね」といいながら、レースする私の脇にパラリと置いたのは、そういえば式子について書いたものだったと、寄せられた教え子の手紙を読むうちに思い出した。翌日にファイルのまま書架にしまったはずのその短文を探したが、どうしても見つからない。心の裡を晒すことに夫は、少しはにかんでいる。「読みやすいし、いいじゃない」と応じた覚えがある。後それは論文として整えられ、最期の論文集に新稿として載せてある。五項のうちの最初の項のみ、ここに揚げておく。

 式子内親王の最晩年の心象風景を、「鴫(しぎ)」「冬の鴨」「鴛鴦(をし)」、水辺の鳥たちを詠じた彼女の歌を通し述べている。


 心肺停止からICUを経て一般病棟に移り、その病室で私もひと月半寝泊まりをし帰宅した翌日の、少し不思議な体験を、私は訃報のなかに織り込んだ。


 ICUから一般病棟に移った夫の病室でひと月半を過ごし、あとはリハビリの方々にお任せする時期と病室を出て帰宅した翌朝のことです。たくさんの洗濯ものを干していたら一羽のメジロがベランダにチョコンとしているのに気づきました。私が干し物.をしながら動きまわっても少しも動じません。どこか具合でも悪いのかしら、と訝りながらふたつのベランダを行き来する間、結局メジロは一時間ほどもせわしい私を見ていたようです。長くこの家で暮らしていてこのような体験をしたのは初めてです。夫は、いっときベランダから双眼鏡で道路向こうの公園に来る鳥たちを眺めたり、また野鳥の鳴き声のCDを孫と聴いたりするのを楽しみのひとつにしていました。私が病室を去るとき、一緒に帰ろうとベッドから不自由な全身を跳ね上げた夫。もしかしたらメジロに化身して戻ってきたのかしら。その想いはいま確信となっています。

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 夫が遺した『式子内親王の歌における鳥のメタファー』の文面にこのメジロの姿を重ね想うと、夫の前世は「鳥」ではなかっただろうか、と思えてしかたがない。人間界に身をおいたものの、世の窮屈さからまた鳥になって、ここから飛び立っていったのかしら。酉年に生まれ、生家の寺を継がなかったのを罪と背負い、その贖罪の意味もあったのか、愚直なまで言葉と向き合い続けた夫の姿が、遺したものの中から伝わった。

 式子内親王の墓に絡む定家葛を、家の庭石に絡ませそれを喜ぶ夫を、定家のような妄念など微塵もない質なのに、と私はおもしろがったが、それは夫の抱える「妄念」を、私が最期まで理解しえなかったということなのかもしれない。


 春が過ぎ初夏ともなれば、定家葛にはまたジャスミンに似た芳香を放つ白い小花が、無数に咲く。

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