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多難の図案


 枠に張った布にレ-スを綴じつける作業が終わった。アイロンかけをすれば仕上がる。わからないことばかりのレ-スだった。間違えた箇所の課題を消化するため再度、いや再々度この図案に挑戦するつもりでいる。
次こそcomplimento(完璧)のひと言がもらえるのだろうか。

 3年前の帰国前日、最後のレッスンで二分割した図案を作業の後半で繋ぐ手順を説明された。そして帰国。翌日には夫の手術についての説明を受ける病院の予約が入っていた。時差ぼけを意識する間も荷を片付ける間もない、息のつまる数日だったが、年が改まれば夫は執筆半ばの原稿と向き合い、私はボロ―ニャで学んできたことを復習い始めるはずだった。


 わずか19mmの出血で無事に手術を終え、翌朝にはまだ覚束ないながらも歩き始めていた夫が、まさかその深夜に投薬のミスから心配停止に至るなど、誰が想像しただろう。万が一の際の夫の認めが存在すること、それを家族も大切にすると、蘇生を望まぬとすがる家族の手を振り払い有無言わせず、病院側は長時間の手術に踏みきった。保身でしかない彼らの行動に、医学用語も覚束ぬ私たちが持ち合わせる言葉はなく、突き出された書類への署名をはねつける気概もなかった。

 結局意識は戻ったものの、夫は長期の病院暮らしを強いられることとなり、急速するウィルス蔓延の状況下、選択肢もないまま私も夫の傍らで暮らし始めた。カーテンを寄せようとして窓辺から桜並木を見下ろせば、日に照らされた大通りは葉影だけが濃く揺れている。知らぬまま花は盛りを終え、散っていた。
 師長から与えられた数時間の帰宅の間につかむように運んだ私品に、アエミリア・アルスの道具一式があった。何を思いこの糸と針を入れたのか、私は何ひとつ覚えていない。


 小康を保つ夫の元と自宅を行き来する2年あまりの間に、いくつかの図案を私は仕上げた。このマルゲリータは孫の3歳の祝いのために仕上げたのよと話すと、生まれたばかり時に抱いたその孫の感触が蘇ったのだろうか、目を見開き夫は相好をくずした。その情景が撮しとられた写真のように、私の記憶に張り付いている。
 次は少しレベルを上げてみようと、件の二分割作業の図案を刺し始めたのだったが、仕上げる前に夫は逝った。


 辻褄を合わせ半ば強引に仕上げたレースの写真をパオラに送ったその反応は、手厳しかった。ここが違う、ここも違う、そもそも図案の読み解き方が間違っている。であればと再度同じ図案と向き合うが、パオラが指摘する箇所の正す術がわからなかった。


 解決の目処のつかないウィルスと戦争、諸物価の高騰。多くの人が渡航を躊躇する条件下で、ボロ―ニャに向かう意味は本当にあるのだろうか。健康にも不安があった。
 春に沖縄の仲良しの家で半月ほどを過ごし戻った空港で、帰宅時間を告げる相手の不在に私は今更のように気づかされた。糸の切れた凧のような心地がこみ上がった。
 ボローニャ中心に短期滞在者用のアパートを見つけ、航空券を予約したのは、それからまもなくのことだ。
 


 ボロ―ニャの教室での初日に、間に合わせのふた作めの図案を手にしたパオラは、再度私の図案の読み解きの間違いを指摘した。余計に刺した部分を情け容赦なくハサミで切り落とすパオラは、前々日に私を歓待し手料理を振る舞ってくれた彼女とはまったくの別人だ。


 こんな結果で枠を使う作業まで辿り着けるわけがない。

 いや、やります。

「これをあとひと月で仕上げると彼女は言っているけれど、出来る訳がないようね」とパオラの声が響き渡る。
  
 

 教室の仲間たちは、黙ったまま針を動かすばかりだ。無残に切り落とされた部分を繕い、不完全ながら図案を繋げ終えたら、あと10日で帰らねばならないまで時間は迫っている。
 しかしパオラは、これならば枠の使い方まで教えられると判断した。花弁に施す細かなステッチは急遽省かれ、込み入った縁仕上げは単純な手順に変更され、次までに図案から外してくるように言われた。



 パオラは手際よく枠を組み立てながら、そこに布を張るまでの手順を私に説明する。めったにない枠を使っての作業に、仲間たちも興味津々だ。布の中心とレースの中心を合わせ、次に四つ角をこう合わせるのよ、といったところで「さあ、あとは説明したメモを見ながら自分で作業をしなさい」
 パオラの機嫌が悪いのが伝わる。こんな技術レベルの者に貴重な枠のひとつを無償で手渡す約束をしたことに、腹をたてているのかもしれない。教室に通えなかった3年の間にあったことを言い訳にはできなかった。

 教室でも私の定位置で大きな枠を縦横に動かし作業すれば、他の人たちの邪魔になる。翌朝、まだ開かない扉の前に座りこみパオラの到着を待っていた私と眼が会うやいなや、彼女は隣の部屋で綴じ付け作業をするように短く命じた。それは広い空間を必要とする枠使いの作業をするには当然の判断だったが、昼休みになるまで彼女が私の作業を確認することはなかった。

 
 隣の部屋からいつのも笑い声が洩れてくる。遠くからアエミリア・アルスを学びに来る特別な存在という、その位置から動かないまま居座る私の姿が浮かび見えた。身の置き所もない恥ずかしさをのみ込み、細かな目のひとつひとつを針で拾っていった。

 

 

 


 

 

  

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