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魔法の呪文、「わたしはわたし」

わたしは幼い頃からずっと、わたし自身のすべてがコンプレックスだった。

できることならほかの誰かになりたかった。
いまでも時々、そんな呪いに囚われる。

細い声も大人びた顔立ちも、いつまで経っても子どもみたいな性格も、独り悟ったような思考も、何もかも、何もかもが、アンバランスすぎて苦しかった。

自分が少し動くと世界がぐんにゃりと歪む、そんな気がしていた。

小さな頃から。

二十歳の頃だったと思う。

「本当にバランス悪いよな、バランス取ろうとしたら死んじゃうんだろうな」

と当時仲良しだった男友達がポツリと電話で言ったときでさえわたしは、

「人のことをドラマか何かの女みたいに形容して!!」

と心の奥底で静かに怒っていた。

ううん、怒っていたというよりも悲しくなったというのが正解か。

自分が何かに呪われているように特異で奇妙な存在で、普通の(普通の定義は置いておいて)女の子みたいに可愛らしくも美しくもなれないことがとても悲しかったのだと思う。
わたしだけいつも何処に行っても彼女たちには混ざれない。独りだけ毛色が違うアヒルのように、排除されてしまう。

コンプレックス。

谷川史子さんの漫画を読んで、北川悦吏子さんのドラマを見て、あるいは大好きなバンドのキュートでパワフルなボーカルを見ていつもわたしは、どうしたら彼女たちになれるのかなんて、永遠に答が出ない問題をずっと解き続ける迷路の中にいた。

そしてもう大人と呼んでもおかしくない年齢に到達してしばらくして、わたしはようやく、自分が自分であることを少しずつ受け入れられるようになってきた。

そう、受け入れていくことは赦すことである。

それはあきらめにも似ているが、決してあきらめではない。

受け入れることは一種の知恵であり優しさであり、そして自分はもちろん、他者をも赦すことではないだろうか。

どうしようもない自分を受け入れていくことは、赦していくことである。

最近はそんなふうに考えている。

わたしがわたしであること。

いびつなところ。

たくさんの見える傷、見えない傷(傷は味とも言い換えることができる)。

幾つになっても不器用なところ。

「神さまがわたしを赦してくれないから、わたしはきっとしあわせにはなれない」

そんなふうに泣き明かした夜もあったけれど、
まずは自分を赦すことにした。

そして、わたしはわたし自身を磨くことにした。

磨き方。
どんな負の感情も受け入れること。
そして解放すること。

解放は、うまくいかないこともある。
意地悪されて蔑ろにされて、悲しい思いに心が真っ黒になることもある。

でも、どんなことにも負けずに、自分の心を美しく磨いていく。
意地でも透明に澄ませてていく。

いまでも思う、わたしにとって濁った心を持つことは怠慢だ。
意地でも澄んだ心を保つ。

どんな意地悪も悪意も厭な出来事も、反面教師にしていく。
わたしは暗黒には染まらない。

そうしてあきらめずに、自分の心を磨きつづけて澄ませていった人だけに見える景色があるといまでは思う。またそんな美しい心を持ち続けた誇りこそが、いつか自分が窮地に陥ったときに自分自身を助けてくれるのだと思う。

ダメなわたしも、
いびつででこぼこなわたしも、
泥だらけで格好悪いわたしも、
そんなふうに、弱い自分を徹底的に生き抜くことで得られる強さを手に入れて、
たったひとつだけ使える魔法を使うことで
あんなによそよそしかった世界だって、気づけばにっこりと微笑んでくれるのだと思う。

コンプレックスは自分を縛る鎖でもあるが、時にものすごく美しい景色を見せてくれる。
いまでは確かにそう想う。
いつもどこでもどんなときも、わたしはわたし自身の味方になれるように真摯に向き合い続け、決してずるをしない。
いつでも抱きしめる。

美しく澄んだ心は魔法のスティックであり、
そのスティックをキラキラと輝かせながら振れば、心からの優しい笑顔がふわりとこぼれる。

笑顔はマジック。



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