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いじめ被害者として考える「被害者責任論」

 性暴力被害者はしばしば人びとから「あなたにも落ち度があったからでしょう」などという言葉を投げかけられます。子どもの世界でもいじめの加害者たちは「いじめられている子にも悪いところがあるから」と加害行為を正当化することが多いのです。
 性暴力、いじめ、戦争などの被害者は深刻な精神的ダメージを受けて、PTSDを発症している方も多いことがわかっています。自死(自殺)あるいはその未遂まで追い込まれる方もいます。
 私もいじめ被害者のひとりです。被害を受けていた時、加害者に対して一度だけ暴力で抵抗したことがあります(詳しくはマガジン「「いじめ」について」内の記事「いじめ被害者として考えたことなど」をご参照ください)。もし誰かに「暴力を使った君にも問題があるよ」などと言われたら、私の人間としての尊厳はいったいどうなるのかという気持ちになります。

 今、ロシアによるウクライナ侵略戦争が続く中で、平和主義の立場からウクライナの人びとに対する「被害者責任論」も語られています。「ロシア軍に対して武力で抵抗するから被害が拡大した。ウクライナの側にも問題がある」とするものです。虐殺被害者の遺族や戦時性暴力の被害者の方がこうした言葉を耳にしたらどういう気持ちになるでしょうか。ちなみに、私は基本的に平和主義、非暴力主義の立場です。しかし平和主義を前提あるいは結論とする言説であっても、このように「被害者責任論」を持ち出すことは許容できません。

 人間の歴史を振り返ると、圧政や暴虐に対して無数の人びとが、やむにやまれず場合によっては暴力で抵抗してきたことがわかります。そして酷い弾圧を受けてきました。かつては日本による植民地支配や侵略戦争に対して多くのアジアの人びとが非暴力あるいは武力によって抵抗しました。今、パレスチナやミャンマーでは非暴力で抵抗している人びとにさえ銃弾や爆弾が浴びせられています。こうした人びとに向かって「被害者責任論」を説く立場に立つことは誰にもできないでしょう。

 今、私たちはさまざまな局面でむずかしい判断や選択を迫られる状況におかれつつあるように思います。さまざまな他者の立場への想像力をはたらかせながら、自身の思考の前提や過程をていねいに吟味することが必要ではないかと自分自身にも言い聞かせています。

(注)文科省はいじめ調査ガイドラインにおいて「被害者である児童生徒やその家庭に問題があったと発言するなど、被害児童生徒・保護者の心情を害することは厳に慎むこと」と明示しています。


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