自由と調和
前回の記事で『スウェーデンのコロナ戦略はノーガードではなかったっぽい』ことをまとめました。
感染症対策と社会における自由をどのように両立するのかは、各国で課題となっており明快な答えはありません。おそらく。
◇◇◇
今回の記事では大雑把にコロナ禍における『自由』についてちょっと思っていることをまとめたいと思います。
とはいえ、既にそのような記事は世に多数ありましたので、私の考える要旨に近そうなものから重要箇所を引用し所感を記すことにします。
◆記事引用
該当記事から一部引用します。
◆所感
再度引用しますが、以下は私の考えに近いです。
・すべての行動は基本的に自由であるとするリバタリアン的な自由
・秩序や社会的コンセンサスに親和的な自由
スウェーデンが目指したのは後者だったのだと思います。
個人的な印象ですけど。
◇◇◇
そして日本としても後者だったと思いますが、コンセンサス(合意)と言われると違和感がありますね。
合意を得る・固めるための議論なり丁寧な説明が為されたとも思えないので。
私の実感としては、(定められた)場の調和を乱さないうえでの自由、という感じでしょうか。
場の調和、これはネガティブな表現をするなら同調圧力ってことになるでしょうけどね。
◇◇◇
自由の概念。
こういうのは後付けで理屈として備わったものではなく、感覚的に育まれたものだと思います。
私はワクチンを打っておらず、N95マスク原理主義者に近いところがあり、同調圧力という概念は嫌いです。
それでも上記のような『場の調和を乱さないうえでの自由』が私の自由の概念です。我ながら不思議ですね。
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そして私は『リバタリアン的な自由』が感覚的にわかっていないと思います。
それがわからない事こそが奴隷の証である!
だからマスクを着けるのだ!
天性の奴隷!
とか言われそうですけど、結構そのような適正はありそうな気がしますね。
◆おわりに
多くの日本人の自由という概念は調和を前提にしたものだと考えますが、それは『争いを回避すること』を最優先にしているからではないですかね。
コロナ禍では何かと海外と比較し日本が馬鹿にされているのを見ました。
実際に問題点はあったにせよ、日本人的な自由という概念を単なる同調圧力としてしまうのは、ちょっともったいないと思います。
そして、リバタリアン的自由にも結構大変なことはあるんだと思いますよ。
たぶん。
隣の芝生は青く見えるもの。
気をつけたいですね。
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