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自由と調和

前回の記事で『スウェーデンのコロナ戦略はノーガードではなかったっぽい』ことをまとめました。

感染症対策と社会における自由をどのように両立するのかは、各国で課題となっており明快な答えはありません。おそらく。

◇◇◇

今回の記事では大雑把にコロナ禍における『自由』についてちょっと思っていることをまとめたいと思います。

とはいえ、既にそのような記事は世に多数ありましたので、私の考える要旨に近そうなものから重要箇所を引用し所感を記すことにします。


◆記事引用

該当記事から一部引用します。

NIRAオピニオン No.62 2022.05.31

日本人にとっての自由と平等とはなにか熟慮・熟議型調査から考える(3)

宇野重規
NIRA総合研究開発機構理事/東京大学教授

安全の重視と自由

 第1に指摘すべきは、圧倒的に自由を選ぶ日本人であるが、新型コロナウイルスの対策のための個人の自由の制限については、むしろ肯定的な人が多数を占めたということである(図2)。もちろん調査時期が2021年の8月と9月であり、感染拡大の第5波の時期にあたったことの影響もあるだろう。とはいえ、個人の自由の制限を「許されない」と考える人が(「どちらかといえば」を含めても)わずか10%前後にすぎないことは注目に値する。

 欧米などでは、2020年3月のドイツのアンゲラ・メルケル首相(当時)の発言「(移動の自由の)制限は絶対的に必要とされる場合にのみ正当化される」が注目されるなど、コロナ禍においても行動や移動の制限には慎重であるべきという意見もしばしば見られた。共通の条件の下での比較調査なしに正確なことはいえないが、日本において、個人の自由の制限についての肯定派が目立つことは間違いない。

 もちろん、安全と自由のトレードオフは古典的な問題である。自由を尊重する人が、それ以上に安全を重視することは直ちに矛盾とはいえないだろう。とはいえ、相次ぐ緊急事態宣言や、いわゆる「自粛警察」と呼ばれる社会的同調圧力によって、行動や移動の自由が長期にわたって制限されていた時期である。多くの人が不自由を強いられるなか、それでも個人の自由の制限に対してこれほど「許容的」であるのは、驚くべきことである。

 おそらく日本人にとっての自由とは、他者の身体や私有財産を侵害しない限り、すべての行動は基本的に自由であるとするリバタリアン的な自由ではなく、むしろ秩序や社会的コンセンサスに親和的な自由なのであろう。勝手なことをする人がいれば、自分にも迷惑がかかる。一定の規制があってこそ、自由を享受できると考える人が多いことを予想させる調査結果であった。

日本人にとっての自由と平等とはなにか|NIRA総合研究開発機構
[2023.11.13 引用]
https://nira.or.jp/paper/opinion-paper/2022/62.html

◆所感

再度引用しますが、以下は私の考えに近いです。

おそらく日本人にとっての自由とは、他者の身体や私有財産を侵害しない限り、すべての行動は基本的に自由であるとするリバタリアン的な自由ではなく、むしろ秩序や社会的コンセンサスに親和的な自由なのであろう。勝手なことをする人がいれば、自分にも迷惑がかかる。

・すべての行動は基本的に自由であるとするリバタリアン的な自由
・秩序や社会的コンセンサスに親和的な自由

スウェーデンが目指したのは後者だったのだと思います。
個人的な印象ですけど。

◇◇◇

そして日本としても後者だったと思いますが、コンセンサス(合意)と言われると違和感がありますね。

合意を得る・固めるための議論なり丁寧な説明が為されたとも思えないので。

私の実感としては、(定められた)場の調和を乱さないうえでの自由、という感じでしょうか。

場の調和、これはネガティブな表現をするなら同調圧力ってことになるでしょうけどね。

◇◇◇

自由の概念。

こういうのは後付けで理屈として備わったものではなく、感覚的に育まれたものだと思います。

私はワクチンを打っておらず、N95マスク原理主義者に近いところがあり、同調圧力という概念は嫌いです。

それでも上記のような『場の調和を乱さないうえでの自由』が私の自由の概念です。我ながら不思議ですね。

◇◇◇

そして私は『リバタリアン的な自由』が感覚的にわかっていないと思います。

それがわからない事こそが奴隷の証である!
だからマスクを着けるのだ!
天性の奴隷!

とか言われそうですけど、結構そのような適正はありそうな気がしますね。


◆おわりに

多くの日本人の自由という概念は調和を前提にしたものだと考えますが、それは『争いを回避すること』を最優先にしているからではないですかね。

コロナ禍では何かと海外と比較し日本が馬鹿にされているのを見ました。

実際に問題点はあったにせよ、日本人的な自由という概念を単なる同調圧力としてしまうのは、ちょっともったいないと思います。

そして、リバタリアン的自由にも結構大変なことはあるんだと思いますよ。
たぶん。

隣の芝生は青く見えるもの。
気をつけたいですね。

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