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ヤングケアラーであった自分 #2 父と、交際相手の女性とその娘との同居生活

小学校1年生の6月のある日、雨の降る週末だったか。

私は父にちょっとここに座りなさいと呼ばれた。リビングの窓際で父の向かいに正座した気がする。

父が話した言葉は覚えていないが、「これからはY田さんとのりちゃんと一緒に4人で暮らすことになった」という意味のことを言われた。

Y田さんというのは父のテニス仲間の1人で背の高い、スラっとしたちょっと冷たい感じの美人だ。のりちゃんはその娘さんで当時小学校5年生だった。父のテニス仲間の集まりに行くといつも遊んでくれる、背の高い楽しいお姉ちゃんだった。まだ当時の私は「一緒に住む」の意味を、「一緒に住む」ということしか理解していなかったと思う。父とY田さんとの関係性をなんとなく理解したのも一緒に住むようになってからだった。

その6月のどれくらい前だったのだろうか、Y田さんとおじさんが別れることになったということのお知らせの葉書が来ていたのを、父が読み上げたのような記憶がある。

おじさん、つまりのりちゃんのお父さんもテニス仲間の集まりに来ている人で、とても楽しい、ひょうきんなおじさんだった。背が高くて色が黒くて、いつも大きく口を開けて笑う人だった。何度かのりちゃんのお家には遊びに行ったことがあって、名古屋市内の高台に立つ、今考えてもモダンな一軒家で、柴犬を飼っていた。家の中には様々な絵や、変わった形の家具や飾りが置いてあって、それらを珍しく眺めていたのを覚えている。のりちゃんのお父さんは絵の先生だと聞いていた。絵の先生のおうちにはこんなに変わったものが置いてあるのだなと思っていた記憶がある。

Y田さんとのりちゃんと、お父さんと私の4人これからで暮らす。

私はその言葉にどう反応したのか覚えていない。確かその後すぐに、当時祖父母と4人で住んでいた一軒家からほんの3分くらいの場所に新しく借りた1軒家を見に行った気がする。綺麗な芝生の庭のある白い壁と青い屋根の二階建ての家だった。

それからすぐに私と父は祖父母の家を出て、その白い壁と青い屋根の家に引っ越した。引っ越した日はとても良い天気で祖父が荷物の運搬を手伝ってくれた。荷物の運び込みが終わると祖父が私たち4人の写真を撮ってくれた。私は黄色の、のりちゃんはグレーの、お揃いのデザインのタンクトップを着ている。その綺麗な芝生の上に4人立って並んだ写真がまだ実家のどこかにはあるはずだ。確か足元にはのりちゃんが飼っていた芝犬のPも一緒に写っていたはずだ。

その家は2階に大きな10畳ぐらいの青いカーペットの部屋と、南向きの日当たりの良い6畳の畳の部屋、それに北向きの少し小さい5畳ぐらいの畳の部屋があった。のりちゃんの勉強机は南向きの部屋に、私の勉強机は北向きの部屋に運び込まれた。私は一人っ子だったので、のりちゃんみたいなたくさんの楽しい遊びを知っているお姉ちゃんと一緒に生活をすることにワクワクしていた。一緒にのりちゃんの部屋で寝ようね、と言って、最初の日の夜はのりちゃんの部屋に布団を2つ並べて寝た。

次の日の朝起きると何故か私は、北向きの自分の部屋に寝かされていた。横には父がいた。「夜中にのりちゃんがやっぱりお母さんと寝たいと言った」ために寝ている私は北側の部屋に運ばれたようだった。その日の出来事は、その後のこの家で起こることを暗示していたように思う。


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