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かえる場所など

「千のおかげで俺たち助かったんです」
父役どの、兄役どのと揃って湯婆婆に頭を下げる。だが俺ァそういいつつも胸の奥に何かが引っかかていた。助かった。確かに助かったのだ、俺は。得体の知れねェ客の腹の中から出てこれたのは千のおかげだ。だけど、少しだけ。ほんの少しだけ、まだあの腹の中に居たかった。

   あの得体の知れねェ客はカオナシだという。 アイツの腹ン中に一番最初に入ったのは俺だった。だからなのか。それとも俺だけが人の姿をとれず蛙の姿をしている湯屋でも特殊な身の上だからなのか。理由は解らんが、アイツの心にある如何ともし難い寂しさが、苦しさが、俺だけには伝わってきた。他にも食われた奴は沢山いるが、アイツの心と共鳴したのはどうやら俺だけのようだった。俺だって湯屋では特殊な存在だ。表立って誰から何か言われることはねえが、しかしだ。ハク様と話す時に飛び跳ねなきゃならん位には俺はちゃんと蛙の見た目をしている。口に出したことは無い。でも寂しかったし苦しかった。
そも、湯婆婆の元に来る前の事を忘れちまってる奴は多い。名前を取られるからだ。ハク様ですらそう。でも他の奴らと俺は違う。俺は忘れてるんじゃなくて、知らないのだ。分からないのだ、湯婆婆にすら。俺ァある日気づいたら蛙の姿で湯屋に居た。急にだ。自分が何者なのかも名前も何もかも分からねェ状態だったから湯婆婆も困っちまってよォ。湯屋で働いている奴は名前を取られているがそもそも俺には名前が無ェ。だから湯婆婆に青蛙ってェ名前をつけてもらうという縛りで契約している。そんなやつ他にいたらすぐ知れ渡るだろうに居ないってことは、やっぱり俺ァ特殊なんだなと感じさせるのには十分な境遇で。ヘラヘラ笑いながら働けど、心の奥底では常に孤独だった。寂しかったし辛かった。だから俺はカオナシの腹ン中であいつの感情の濁流を浴びた時、おんなじだなと、コイツは俺とおんなじだなと、思っちまったんだ。まァだからなんだって話だが。

 アイツが喋るために俺の声を使った時は少し嬉しくもあった。自分じゃあ伝えられない苦しさをあいつが変わりに俺の声でぶちまけてくれるんじゃねェかって。だのに、カオナシの野郎、口を開けば「千を出せ」しか言わねェ。そこで気づいちまったんだよ。俺が勝手にアイツに共感してるだけで、アイツは、カオナシの野郎は俺の事なんか微塵も考えていないんだ。千のことしか、考えていなかった。あの時のカオナシに優しくしてくれたのも、厳しくしてくれたのも、叱ってくれたのも、千だけだ。だからきっとアイツは千を追ったんだろう。俺のことは海に吐き捨てて。俺ならおめえさんの気持ちが分かるさと、傷の舐め合いをするような仲にはなれねェのは分かってた。あいつの感情はずうっと俺の心に伝わってたから。千が好きだ、千に認められたい、千、千、千、千、、、俺が付け入る隙なんてねェのは分かってンだ。だからせめてアイツの腹ン中に居て、アイツの声になってやりたかった。だが現実はどうだ?俺だけ置いてけぼりだ。

そんなことをとつとつと考えていたら千が帰ってきた。俺ァカオナシの野郎に文句があるから待ってたがあいつはついぞ帰ってこなかった。千はあの湯婆婆の意地悪に打ち勝ち、ハク様の本来の姿を思い出させ、人の世界へと帰って行った。こうして、湯屋には日常が帰ってきた。俺以外には。

俺ァ気づかなくていい、今まで蓋をしていた深層心理とやらに気づいちまったモンだから、ぽっかりと心に穴が空いちまった。坊に聞いた話だとカオナシの野郎は銭婆の所にいるらしい。随分と大人しくしおらしくなっちまったもんで、あの、俺と同じだったドロドロとした濁流のような感情ももう見られないんだと。俺だけが結局残っちまったんだな、置いてけぼりなんだな、と思ったらカオナシのことが急に憎くなった。もうアイツの腹ン中に入ってもアイツと俺は違うということがまざまざと見せつけられるだけなんじゃあねェか。なんだよそれは。アイツのせいで俺は、本当は悲しくて苦しかったことを思い出しちまったのによォ。まァ人前では相も変わらずヘラヘラ笑いながら働いているから、そんなことは誰にも気づかれてはいない、はずだ。

ある日いきなりヒョイっと体を持ち上げられた。振り向くと湯婆婆が居た。
「どす黒い呪いの原因は青蛙!アンタだったのかィ???呪いを関係ないお客様にまで巻き散らかすのは辞めな!呪いが消えるまで働かなくてよろしい、坊の世話でもしておけ!」
そういって部屋まで連れてこられた。そうか、無差別に呪いを巻き散らかす位には、俺はカオナシの野郎の事が好きだった、らしい。

湯婆婆の部屋に着いた瞬間に、俺は湯婆婆に新しい契約を頼み込んだ。呪いを消すためには1番手っ取り早い方法を思いついたからだ。
「青蛙?贅沢な名だね!あんたは今日からアオだよ!」
本当にこれでいいのか何度も訊ねてくる湯婆婆に、このババア本当は優しいんだよなァと思いながら。湯屋に永久就職させてくれと、契約をした。他の父役どのや兄役どののように人間の姿を型どれるようになった。今日から俺はアオだ。青蛙時代のことは忘れていく。この愛だか憎しみだか分からん感情も、湯屋で働いているうちに消えてなくなるだろう。さァ、仕事の時間だ。持ち場に戻らねェとな。かえる場所なぞはじめからどこにもありはしないのだから。


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